世の中にこんなにも退屈な時間が存在するなんて……というのが、『魔法史』という科目に対するみんなの意見だった。けれどももともと歴史に興味があったは、いきなり飛び込んだ未知の世界に一人だけうきうきしながら授業に臨んでいた。
「うわぁ、、すごーい!」
授業時間が終わり、ビンズ先生がすーっと壁の向こうに消えた後、はニースを待たせて、もう少しだけ、と今日の講義のまとめをささっとノートに書き留めていた。ちょうどその横を通りかかった
ピーターが、彼女の手元を覗き込んで感嘆の声をあげる。彼のすぐ傍を歩いていたジェームズも足を止めてのノートを見た。
「あ、ほんとだ。、君ってそういうところはマメだよね。あんな退屈な授業で、一体どうすればそんな楽しげなノートができあがるのか……」
そう言って大きなあくびを漏らしたジェームズの口に涎がついているのを見上げ、は思わず噴き出して笑った。
「ジェームズ、ここ、よだれ……」
「え!あっ、これは失敬」
照れ臭そうに笑いながら、ジェームズが手の甲で唇をこする。さらに彼らの後ろから現れたルーピンも同じようにのノートを見て、へえ、と感心しきった声をあげた。
「すごいね、さん。僕なんて、ついうとうとしちゃって……ほら、自分でも何を書いてるのか読めない」
「もともと歴史って好きなんだー。だから、ほら、先生の退屈な話が続くときは、図書館から借りてきた本ずっと読んでたの」
「あ、そっか。頭いいね、僕も次からはそうしようかな……」
「二人ともマジメすぎるんじゃないの?たまには睡眠用の授業があったっていいだろう?」
呆れた様子で肩を竦めるジェームズに、ルーピンはくすくすと声を落として笑った。
「いいでしょ、私がたまにマジメになったって」
「えー。まあ、いっか。、試験前になったらそのカラフルなノート、一日僕に貸してよ」
「ぜ・っ・た・い・に・い・や」
「、僕たち友達だろう!?」
「甘やかすのだけが友達じゃないでしょ?」
「それで僕が落第したらどうしてくれるんだい!?ねえ、ニース、って友達甲斐のない子だね!」
急に話を振られ、少し離れたところで待っていたニースが驚いた顔でこちらを見た。そして彼女が何やら口を開こうとしたそのとき、ジェームズの後ろから近づいてきたブラックが抑揚のない声音で言った。
「おい、さっさと飯食いに行こうぜ。俺、腹減った」
「あ、僕も行く!もうお腹ぺこぺこ」
ブラックに同調して楽しげに声をあげ、ピーターが右手を挙げた。振り向いたジェームズが、そうだなと言って壁に掛かった時計を見上げる。教室内に残った生徒たちは、既に彼らの他には数人しかいなかった。
「じゃあ僕らも食べに行こうか。、ニース、僕たち先に下りるね。じゃあ、お疲れ」
「おつかれー」
軽く手を振って四人を送り出し、は何色かのインクを使ってカラフルに彩った魔法史のノートを閉じた。分かっている。ブラックは、私がジェームズと仲良くするのが気に入らないのだ。だから最近では、彼女も自分からはできるだけジェームズたちの傍に近寄らないように心がけていた。けれども先ほどのように、ジェームズやピーターがあちらから声をかけてくるのを止めることはできないし、そこまでは責任を持てない。
ジェームズたちが去ってからしばらくして、は空腹を訴えて鳴り続けるお腹を押さえつけ、ニースと共に大広間に向かった。
Love isn't all
ジェームズの恋愛観
一度目の『悪戯』が失敗に終わってから、はジェームズたちの悪戯にはほとんど加わらないようになっていた。彼らは毎週のように管理人のフィルチや、どことなく頼りない先生、からかい甲斐のある生徒に『可愛らしい悪戯』を繰り返し、ジェームズはその都度にも誘いの声をかけてきたが、如何せんブラックの存在が気になってイエスとは言えない。記念すべき一回目の『悪戯』でジェームズとだけが先に見つかって罰則を課されたものだから、共に計画を立てていたブラックの機嫌が最高潮に悪くなったという。ブラックにしてみれば、ずっと昔から知っているジェームズをまるでに取られたようで、随分と気分が悪かったことだろう。だからは、ジェームズやピーターと一緒に悪戯を楽しみたいという思いは大いにあったが、あの仏頂面のブラックが邪魔をして決してそこには加わることができないでいた。
それに、自分にはジェームズやブラックほど、失われた点数をすぐに取り戻せるという自信もなかった。二人はとても首尾が良く、悪戯をした後も上手く逃げ遂せることが多かったが、そこに加わったピーターに足がついて罰則や減点を課されることもよくあった。けれども二人は……天才、とでもいうのか。一度学んでしまえばそれをすぐに自分のものとしてしまう、天性の才能を持っていた。だからいくら減点されても授業ですぐにその点数を取り返すことができ、そんな彼らの悪戯行為には、寮のみんなもあまり文句を言わなかった。彼らの悪戯は、どこか人を楽しませるような娯楽性も併せ持っていたからだ。
十一月に入ると、ホグワーツはがこれまで経験したことがないほどの厳しい寒さに見舞われた。学校を囲む山々は灰色に凍りつき、湖は冷たい鋼のように張り詰めている。校庭には毎朝霜が降り、丈長の分厚いコートにくるまったハグリッドがクィディッチ競技場のグラウンドで霜取りしている様子が寮の窓から見えた。
「あーあ。一年生もチームに入れたらいいのに」
ぱちぱちと音を立てて爆ぜる暖炉の傍のソファに座り込み、ジェームズが物憂げに呟いた。とニースはそのすぐ隣のソファで、闇の魔術に対する防衛術のレポート用に図書館から借りてきた本を読んでいた。ピーターは数日前にお母さんから送られてきたキャンディーの包みを開いたまま、ソファの背もたれに倒れ込むようにして眠っている。
ジェームズが言っているのは、寮対抗のクィディッチゲームのことだった。今週末、ついにグリフィンドール対スリザリンの、クィディッチ開幕戦が行われる。代表選手は何週間も前から練習に余念がなかった。授業が終わってからすぐに競技場まで出かけていき、戻ってくるのは就寝時間の直前だったりする。ジェームズもさすがに代表選手たちの前では口にしなかったが、こうしてたちと一緒にいるときは、思い出したようにぽつりとそう漏らすことがよくあった。
「仕方ないよ。だって一年生は箒持参、禁止でしょ?」
「分かってるよー。分かってるさ、。でもさ、こう……ああ、むずむずするなぁ」
はあ、と大きく息をつき、ジェームズはソファの上に大の字になって横たわった。ようやく本から顔を上げたニースが、くすりと笑ってジェームズの方を向く。
「ジェームズが箒に乗るの上手って、みんな知ってるから。だから来年、選抜試験受けてみたらいいよ。あなたならきっと大丈夫だから」
するとぱっと目を開けたジェームズは、勢いよく身体を起こして嬉しそうに目を輝かせた。
「そうかな?ニース、ほんとにそう思う?」
彼の反応に、ニースも少し驚いたらしい。何度か不思議そうに瞬いてから、可笑しそうに笑って頷いてみせた。
「ええ、もちろん。きっとあなたに敵う人なんていないと思う。自信持って、来年まで待てばいいよ」
「そうかな?ありがとう、ニース。はあ、も少しはニースの優しさを見習ったら?」
「ひっど!私は十分優しいでしょう!」
えー、ほんとにそう思ってる?と胡散臭そうにこちらを見たジェームズに気を取られて、は傍らのニースが少なからず頬を染めたことにも気付かなかった。
そのとき席を外していたブラックが女の子に呼び出されていて、しかもそのレイブンクロー生と付き合うことになったと知ったのは、翌朝、興奮と失意に沸き立った友人たちの傍を通りかかったときだった。
「ジェームズは女の子と付き合わないの?」
ブラックの彼女というのはレイブンクローの三年生で、ウェーブがかった金髪の似合う、とても愛らしいお姫様のような女の子
らしい。入学以来いつも一緒に行動し、まるで兄弟のようにしていたジェームズとブラックだが、最近ではブラックの度重なる『デート』のせいで、ジェームズはピーターやルーピン、そして時にはやニースと過ごす時間が増えていた。
「え?そういうはどうなの?」
当たり前のようにそんなことを訊いてきたジェームズに、は素っ頓狂な声をあげて目を丸くした。
「な、なんで私が?そんな相手、いないよ!」
「だろう?それと同じことだよ。あいつが女の子と付き合ってるからって、何で僕まで誰かと付き合わなきゃいけないのさ」
「で、でもさ……ジェームズ、何人も女の子から告白されてるでしょう?どう、どうなの?いいなって思う子、いないの?」
「……なに、。そんなに僕に誰かと付き合ってほしいの?」
「そっ、そんなことないけど……」
「『けど』
なに?シリウスはシリウス、僕は僕だよ」
そりゃあ、そうだと思うけど。ブラックのデート時間が増えたお陰で、私もこうしてジェームズと過ごせる時間ができて、嬉しいことこの上ないけどさ!
けれども少し、癪だった。私がジェームズと話をしていると、あんなにも疎ましげに睨んできたくせに。自分に彼女ができたら、すぐにそっちとべたべたして。なによ、あんたの友情ってその程度なんじゃない!
ブラックは食事の時間や、教室移動のときなどは以前と変わらずジェームズたちと行動したが、放課後は談話室を留守にすることが多かった。だから今もこうして、はジェームズと二人でふらりと散歩することができるのだ。ニースは調べたいことがあるといって、授業後さっさと図書館に行ってしまった。
可笑しそうに笑いながら、ジェームズが白い息を吐く。二人は雪の降り積もる校庭を、並んでゆっくりと歩いていた。ブラックがレイブンクロー生と付き合いだしてから、もうすぐ二ヶ月になる。クリスマス休暇は間近だった。
「確かにさ、可愛いって思う子は何人もいたよ。僕なんかを好きになってくれて嬉しいって素直に思う。でも……なんかね、違うんだよなぁ」
「ち、違う?」
「そう。実はさ……僕、入学してすぐの頃、ハッフルパフの女の子とちょっとだけ付き合ってたんだ」
「へえ、ふーん、そうなんだ…………って、えっ!?」
思わず、聞き流してしまうところだった。唖然として、は傍らのジェームズを見やる。彼は少し照れ臭そうに頬を掻きながら、でもほんとにちょっとだけだよ、と繰り返した。
「え、えっ?い、一体いつの間に……」
「隠すつもりはなかったんだ。ただ、相手の子がね、内緒にしておきたいっていうから僕も黙ってたんだよ」
「ど、どのくらい付き合ってたの……?」
「うーん、そうだね、一ヶ月くらいかな」
ま、まさかまさか。ジェームズの傍に女の子の影なんて。確かに、彼とはいつも一緒に行動していたわけでも、ずっと彼の様子を観察していたわけでもないから絶対とは言えないけど……まったく、気が付かなかった。隠していたにしても、あまりにも上手すぎるだろう。はそのことに感嘆して言葉を失った。
そこでようやくにやりと笑って、ジェームズが言う。
「分からなかっただろう?」
「そ、そりゃあ……だってジェームズ、デートなんていつしてたの?放課後だって、よく悪戯してたり、談話室にいたり……」
「僕はその辺はシリウスと違って時間の作り方が上手いから。会おうと思えばいつだって会えたさ」
す、すごい……こいつ、本物の『天才』だ。は思わず、口元まで引き上げていたマフラーを下ろして早口に捲くし立てた。
「ねえ、何で別れちゃったの?付き合うって何?その子のこと、好きじゃなかったの?」
「、そんなに一度に聞かれたって答えられないよ」
困ったように笑いながら、ジェームズが肩を竦める。彼は取り出した杖で足元の雪を溶かして乾かし、湖畔に二人が座れるほどのスペースを作ってからゆっくりとそこに腰を下ろした。もその横に膝を立てて座る。
ジェームズはもう一度、長く白い息を吐き出して小さく笑んだ。
「もちろん、好きだったよ。好きって言われて、僕もその子のことが好きになった。でも……なんて言ったらいいんだろうね。なにか、違うってずっと思ってた。こんな気持ちのまま付き合ってても相手に悪いと思って、僕の方からさよならしたんだ」
「……ふーん。そんなことが、あったんだ」
気付かなかった、何も。その子も傷付いただろうけど、だけど。きっとジェームズも、苦しかったんだろうな。だってそれを語る彼の瞳は、今までに見たことがないほど哀しそうに煌いて。
それなのに、彼はそんなことをまったく感じさせずに。いつものように、友達と元気いっぱいに毎日を過ごしていたのだ。
膝を抱えて黙り込んだを見て、ジェームズはぽんと軽やかに彼女の肩を叩いた。そして明るい調子で、言ってくる。
「やだな、何でがそんな顔するんだよ!あ、ひょっとして僕のこと好きだった?」
「ば……ばか、ジェームズにも一応そういうロマンスがあったのねって思っただけ!」
「まったく、モテる男はつらいよ」
ジェームズは芝居がかった口振りでそう言ったが、すぐに真面目な顔に戻ってその眼鏡の奥で薄く瞼を伏せた。
「だからさ、もう安易な気持ちで女の子と付き合ったりはしないと思う。きっとお互いのためにもならないしさ……この人だ!って思える相手じゃないと」
が再び彼の方を向いたときには、立ち上がったジェームズは大きく伸びをしてこちらへと手を差し出してきた。手袋を嵌めたその手を掴んでも腰を上げ、軽く肩を回してストレッチする。
彼はにこりと笑い、いつものように明るく言った。
「そろそろ戻ろっか。ニースも帰ってるかもしれないし」
そうだね、といっては城へと歩き出したジェームズの隣に並んでマフラーをきつく結びなおした。横目でこっそりと彼の横顔を見つめ、コートの中で身震いする。
彼は誰かの前で泣くことがあるのだろうかと、はふとそんなことを思った。