姿現しの練習は思っていた以上に難航した。指導官のトワイクロスは髪の薄い小柄な老魔法使いで、三つの『D』
どこへ、どうしても、どういう意図で
を幾度となく強調した。練習は週に一回、土曜日の午前中。だが二回目の練習で、ジェームズを含む数人が『ばらけ』ただけで、多くの生徒は決められた輪の中から一ミリも動くことができなかった。シリウスでさえ、そうだった。
「どうした相棒、悩み事か?お兄さんに話してみたまえ!」
練習のあと、大広間を出たところでジェームズが茶化した調子でシリウスに話しかける。だがシリウスは厳しい眼差しで親友を一瞥し、何も言わずにそのまま足早に大理石の階段を上がっていった。その様子を見ていたは、嘆息混じりにふと振り向いたジェームズと目が合い、曖昧に笑ってみせる。ジェームズは大げさに肩をすくめながら、遅れて出てきたリーマスやピーターと揃って歩き出した。
その日の午後は、バレンタイン直前のホグズミード週末。リリーはジェームズと、ニースはブルーノと出かけることになっていた。リリーたちは防寒着を取りに一旦寮へ戻り、談話室で待ち合わせをしているらしい。は悩んだ挙げ句、部屋で本を読んで過ごすことにした。
「ほんとに行かないの?」
「うん……私、いいや。ちょっと疲れてるし。みんなは楽しんできてね」
寝室でコートを着てマフラーを探すルームメートふたりに笑顔で手を振って、は答えた。リリーは到底納得できない様子で眉根を寄せる。
「……ブラックも、今日は出かけないんですって。今からでも誘ってみたら?」
「い、いい。シリウスは、いい……」
「シリウスはいいって、じゃあ誰ならいいの?」
「そっそういう意味で言ったんじゃ」
反射的に声を荒げると、ニースは素っ気ない声で「冗談でしょう」と言ったが、マフラーを巻きながらのすぐ近くまで寄ってきてあとを続けた。
「でもね、、うかうかしてたら誰かに取られちゃうわよ」
「そ、そんなの……」
「レイブンクローのアンナが、かなり本気でブラックのこと狙ってるんだって。気をつけないと、いくらブラックがあなたのこと真剣っていってもどうなるか分からないわよね」
「ニース」
リリーが非難がましい目を向けてニースの言葉を遮る。ニースは少しばつの悪い顔をしたが、逃げるようにの前から身を引いて軽く肩をすくめた。
「ほら、アンナって強引な人でしょう?」
「あー……うん、そうだね」
そうだっけ。アンナ。ああ、レイブンクローの七年生か。うん、ちょっと気の強そうな人だったよね。でも……すごく、美人の。いかにも、シリウス好みな。女のわがままは嫌いじゃないと、遠い昔に友人としてのシリウスが言っていたのを思い出す。そう……シリウスは、きれいな先輩が好きだった。
「ねえ、。やっぱり私と一緒に行かない?美味しいものいろいろ食べましょう」
「え?な、なに言ってるの!いきなりそんなのジェームズが可哀相だよ!ジェームズずっと楽しみにしてたんだから……ほんとに私は大丈夫だから、だから気にしないで行ってきて!ね?」
「だったら、私と一緒に行く?」
「いいってば!ブルーノと楽しんできて!」
おしまいには当り散らすように怒鳴りつけ、は飛び込んだベッドの上で布団をかぶって横になった。
「それじゃあ……、お土産楽しみにしててね。行ってきます」
chocolate strategy
アリスの戦略
ひとりきりの寝室が、さみしくてさみしくてたまらない。いつもはどうってことないのに。何で、今日という日に私はこんなところにいるんだろう。聖バレンタイン・デー。みんな浮き足立って、この寒い中を熱い思いで出かけていくというのに。
シリウスも今、ひとりで部屋にいるのかな。それとも……やっぱり、誰かとホグズミードに?
やだ。やだ、やだ。構わないでって言ったのは私なのに。今日は出ない。この部屋からも。みんなが帰ってくるまでどこにも行かない。図書館も、大広間も。談話室にも下りない。でもどうしよう。お腹、空いた……。
「、いるの?」
不意に呼ばれた気がして、はベッドから飛び上がった。二度ノックの音が聞こえて、再び同じ声がの名前を呼ぶ。
「、いないの?」
「はいっ!いる、いるいるいる」
跳ね起きてドアのところまで飛んでいき、ノブを押し開けるとそこにいたのはアリスだった。いつもの人懐っこい笑顔で、軽く片手を挙げてみせる。驚くに笑いかけ、アリスは少し気まずそうに聞いた。
「ひょっとして、寝てた?」
「あ、うん、ちょっと……でも大丈夫。それよりアリス、ホグズミード行かなかったの?」
「ええ、今日中に終わらせたいことがあったから。も残ってるって聞いて。お昼まだでしょう?一緒に食べに行かない?」
「え、あ、う、う……う、う」
どうしよう。でも、アリスと一緒だったら……もしシリウスがいても、大丈夫、かな。
「、どうしたの?具合でも悪いの?」
「えっ!う、ううん、大丈夫、平気……うん、行こう行こう。お腹すいちゃった、早く行こう!」
「、ほんとに大丈夫?」
「へーき!ほら、元気元気!」
上擦った声で奇妙に笑うをアリスはいかにも疑わしげに見ていたが、背中を押されてようやく歩き出した。談話室は二年生以下の生徒が数人残っているだけで、がらんとしている。ひとまずシリウスと遭遇しなかったことに胸を撫で下ろしながら、はアリスと揃って大広間に向かった。やはり上級生の多くは外出中で、たちが座ったグリフィンドールのテーブルも閑散としている。その中に、シリウスの姿はなかった。
「あら、シリウスは来てないのね」
どうということのない口振りでアリスが漏らした言葉に、は最初に口にしたカボチャジュースを思わず噴き出しそうになった。すんでのところで喉に押し込めながら、慌てて顔を上げる。
「ちょっ、なに、アリス?」
「え?だって、今日はシリウスも残ってるんでしょう?ジェームズから聞いたわ。談話室にもいなかったし、どこ行ったのかしら」
「そ、そりゃシリウスにだって足はついてるんだから、どこでも好きなとこに行くでしょう、そりゃ」
するとアリスはわずかに胡散くさそうな顔を作ってみせたが、すぐに素知らぬ顔で、出てきたトーストにブルーベリージャムを塗り始めた。は仕返しとばかりに、少し離れたところに座っている下級生たちには聞こえないよう声を落としながら、問いかける。
「そういうアリスはどうなの?例のオーラーと……その後?」
予感、的中。アリスはトーストをかじったまま目を見開き、みるみるうちに真っ赤になっていった。
「えっ?な、なっ何を言ってるの!」
「バレてないと思ってた?その人のこと喋ってるアリスってばどう見ても」
「やめて!やめてったら!」
半ば悲鳴のような声をあげてから、周囲の目を引き始めたことに気付いたアリスは不自然な咳払いで頭を振って、赤く染まった頬を押さえつけた。声を潜めて口早に捲くし立てる。
「どうって……どうもこうもないわ。あるはずないじゃない。あの人は、闇祓いよ?今この国がどんなに物騒なところか
だって知ってるでしょう」
言われて初めて、はっとする。そうだ、アリスの好きな人は闇祓いなんだ。ロングボトムやページたちと同じように……フィディアスを襲った犯人のような、卑劣な闇の魔法使いたちを逮捕する仕事。『例のあの人』を柱とする髑髏の集団
『死喰い人』が蔓延るこの時世に、私は一体。彼らは昼も夜も、フィディアスをあんな目に遭わせた人間を見つけるために走り回っているというのに。ねえ……そうなんだよね、ロングボトムさん。信じて、いいんですよね?
「……ごめん。わたし、不謹慎なこと言った」
「謝らなくていいのよ。私も……きつい言い方して、ごめんね」
アリスは項垂れるの頬を、テーブル越しにそっと撫でて微笑んだ。その優しい瞳を眩しいものでも見るかのように覗き込んで、尋ねる。
「アリスはやっぱり……オーラーに?」
静かに笑むアリスは何も言わなかったが、その眼差しは十分に彼女の秘めた答えを物語っているように見えた。
「日本のバレンタインはね、女の子がチョコレートをあげるっていう習慣があるんだ」
寮に戻る途中、母国におけるバレンタインについて聞かれたは例の製菓会社の陰謀によるチョコレート習慣のことを話した。それを聞いたアリスは目を輝かせて、「それじゃあ何かチョコレートのお菓子を作ってシリウスにプレゼントしたら?」と提案した。
「えっ!何でそうなるの!イギリスにはそういう習慣ないんでしょ?」
「だって、せっかくのいい機会じゃない。聞いたわよ。あなたたち、喧嘩しちゃったんですって?何があったか知らないけど、先に謝っちゃったほうが勝ちよ。勇気出して、ね?」
ぐいと両肩を掴まれ、アリスに生き生きと言い聞かせられれば、そうかもしれないなんて思いが脳裏を過ぎったりもするけれど。
「だめ、やっぱりだめ!喧嘩なんてもんじゃないもん……私たち、もうダメかもしれない」
本当はシャイなシリウスが、あんなにも一生懸命に繋ぎとめてくれようとしたのに。その手を振り払ったのは、紛れもなく自分だった。それを今さら、どんな顔をして謝りに行けるというのだろう。無理だ、できっこない。
かぶりを振って背中を向けたの頭に手を添えて、アリスはさらに続ける。
「大丈夫よ。諦めなければ、不可能なんてないわ。あなたたちの親友を見てみなさいよ?リリーとジェームズがあんな風になれるなんて、一体誰に想像できた?」
くすくす笑うアリスにつられて、もようやく笑みをこぼした。それは、当たってる。奇跡は……起きるんだ。
「ア、アリス……渡せるかは分かんないけど、でも一応……なんかちょっとしたもの、作ってみる。少し……手伝ってもらえる、かな?あ、でもアリス、やることあるんだよね……」
「ううん、そんなにかからないと思うから、そのことはいいのよ。もちろん、私でよければ何でもするわ!料理は得意なの、任せて。あっ、もちろん私はあくまで『お手伝い』だからね」
「ほんと?わ、うれしい……ありがと、アリス。ほんとに、ありがとう」
シリウスにそれを渡す勇気は、ひょっとしたら出せないかもしれないけど。彼のことを思って何かを作ってみれば、自分がこれからどうすべきかが見えてくるかもしれない。そういえば、これまで贈ったプレゼントはすべて既製品だったような気がする。せめて一回くらい、何か手作りのものを贈りたい。
(私……本当に、良い友達に恵まれてるなぁ)
そのことに心から感謝しつつ、はアリスを連れて地下の厨房へと足を向けた。大好きなシリウスのことを思って、心を込めて作るから。だから神様、どうか
私に、進むべき道を示してください。