どんなに疎んでも、時計の針は止まらない。泣き疲れて眠り、目覚めるとあたりは真っ暗闇に包まれていた。いや、次第に慣れてくるとカーテン越しにこぼれてくる淡い月光が部屋に差し込んでいるのが分かる。枕元に置かれたサンドイッチは冷たかったが、ぺちゃんこになりかけたの空きっ腹にはありがたいご馳走だった。
けれども、ひとつひとつの動作を追うように
迫り来るロジエールの顔ばかりが思い出される。唇、さらには口内までもを乱暴に侵され、そのことを思い起こすだけで飲み込みかけたサンドイッチを小さな咳とともに吐き出しそうになった。にじむ涙を手のひらで拭って、抱えた膝の上に額を押し付ける。どんなに疎んだとしても、やがて月は沈んでまた新しい朝がやってくるのに。
その翌日は間の悪いことに、一時間目から古代ルーン語だった。はシリウスと鉢合わせないようにいつもより早く寮を出、ぎりぎりまで図書館で粘ってから滑り込みでルーン語の教室に飛び込んだ。すでに定位置についていたシリウスは振り向き様、なにか言いたげに口を開きかけたが、ちょうどそのときバブリングが入ってきたのでなんとかそれは免れることができた。まともにシリウスの顔を見られない……座席も、シリウスからいつもより二つほど離れたところに座った。
「……なあ、」
授業が終わり、バブリングが早々に教室を出て行ったあと、ぐずぐずと片付けをしていたは後ろから近づいてきたシリウスがこちらに手を伸ばしかけているのを横目に感じて、咄嗟に身体を引いてしまった。シリウスが多少なりとも傷付いた顔をしてその手を引っ込めたので、慌ててそちらに向きなおる。
「ご、ごめん」
「いや……それより、昨日……夕食のとき、いなかったみたいだけど」
「え?あ……うん、ちょっと疲れてて、部屋で休んでた」
とても彼の目を見ていられなくて、俯き加減につぶやく。シリウスはしばらくその場に突っ立ったまま黙り込んでいたが、やがて絞り出すような声で、躊躇いがちに聞いてきた。
「その……昨日のロジエールのこと、気にしてるのか?」
唇を戦慄かせたはきつく目を閉じてひっそりと深呼吸してから、ううんとかぶりを振って顔を上げた。怯えたように目を開いたシリウスに笑いかけて、告げる。
「気にしてないよ。気にしたくもないし。それよりごめんね。もう……変身しちゃったりないように、気をつけるから」
「いや……それはいいんだよ。俺はただ、お前のことが心配だっただけで……」
「うん、分かってる。分かってるよ、シリウス。ありがと」
そう言って微笑んでみせても、シリウスの表情はいつまでも曇ったままだ。こちらの影に気付いている。そこまで鈍い人じゃない。だけど
どうすれば?
シリウスが次になにか言うよりも先に、まとめた羊皮紙や教科書を抱えてはドアのほうに身体を向けた。
「わたし先に帰るね。授業の前にちょっとフリットウィック先生のところ行きたいから。それじゃ」
もちろんそんな予定、ない。そんなのいつだっていい。足早に歩き出したは教室を出て一度だけちらりと後ろを振り向いたが、最愛のシリウスがあとを追いかけてくることはなかった。
at Cross Purposes
交差
あれ以来ずっと、はシリウスをさり気なく避けるようになった。表面上は人当たりのいい顔で笑ってみせるが、すぐにどうでもいいような理由をつけてどこかへ消えてしまう。近頃は勉強時間も放課後の空き時間も女友達とばかり過ごしていて、こちらがなんとか二人で話をする時間を作ろうと思ってもことごとくそれを許さなかった。もっとも、いざ二人きりになれるチャンス、古代ルーン語の時間が訪れても、結局のところ俺には彼女に大事な話を持ちかけるだけの勇気がなかったのだが。
つまり、その
どうして俺を避けるのか。俺に愛想が尽きたのか、そうでなければアニメーガスの件で俺が未だに怒っているとでも思っているのか、はたまたロジエールに迫られたことで気まずい思いをしているとでもいうのか。俺への気持ちが冷めたのではないのなら……率直に話をして、これまでのように、ふたりで一緒にいられたらと。だが、何も言えなかった。ころころとよく笑う彼女の瞳に、暗い影が差しているのを見たら
何を言えばいいか、分からなくなった。彼女が故意にアニメーガスになったのではないということは分かった。まさかロジエールと好きでキスしたわけじゃないなんてことは分かりきっている。あのとき彼女は、確かに屈辱に顔を歪めて泣いていた。
気にしてないわけがないじゃないか?だが、だからといって
俺に一体、何ができる?彼女はもう、俺のことなんか好きじゃないのかもしれない。だから何も言わないんじゃないのか?離れたくないと……感情を剥き出しにして、喧嘩でもしたのならまだいい。なにがあっても、話をしようと言ったのは彼女の方ではなかったか。そんなが口を閉ざして俺から離れていったのならば、それは。
「なあ、パッドフット……………喧嘩した?」
寝室でルームメート全員がそれぞれの時間を享受しているとき、妙にあらたまった様子のジェームズが聞いてきたのはまさにそのことだった。あいつは自分のベッドに寝そべって雑誌を覗いていたが、その注意がクィディッチなどにはまったく向いていないということは一目瞭然だ。あいつが俺たちのことにこんなにも長く気付かなかったということはありえないから、大方黙って行方を見守っていたがとうとう痺れを切らして、というところだろう。俺はピーターの前でそれを認めるのがいやだったので(たとえ傍から見て自明のことだったとしても!)、寝返りを打って他の三人に背中を向けながら答えた。
「べつに。そんなんじゃない」
「じゃあひょっとして捨てられたのか?」
「ばっ……!」
思わず飛び起きた俺は、ばかやろう!と言いかけて、最後までは言い切れなかった。捨てられた……俺、ひょっとしてに捨てられた?たとえば俺への気持ちが冷めたとして……優しいは、はっきりとさよならを言えるだろうか。
「……え?お、おい、ウソだろ、まさか図星なんて?」
「ばっ!ばかやろう!そういうことじゃなくて……あいつ、すげぇイヤなことあったから。だから……しばらく、ひとりになりたいんだと……思う」
自分の言葉が限りなく惨めに聞こえるほど、自信がなくなっていって。だがジェームズはしばらくポカンと口を開けたあと、読んでいた雑誌を脇に放り投げて大仰にため息をついた。
「バカはお前だ、バカ。そういうときに何でのこと放っておけるんだよ。それでも男か、何のためのパートナーだよ?あーあ、僕は夏の件でお前のことすごく見直したのにな!そうか、またかっこ悪いシリウスくんに逆戻りか。残念だなーがっかりだよ!」
パートナー……初めて聞くようなその言葉の響きにどこか違和感を覚えつつ、シリウスは同時に不思議な心地良さも感じていた。そしてすぐに残りのフレーズがずしりと頭上に圧し掛かってきて、がっくりと項垂れる。ジェームズのみならず、リーマスやピーターまでもが横目でこちらを見ているのが分かったので、俺は居たたまれなくなって逃げるように部屋を飛び出した。
そうなんだ。いつだってジェームズは正しい。彼女がつらいときにこそ、傍にいて支えてやらなければならないのに。けれども確信がなかった。彼女が、本当にロジエールのことで悩んでいる
だけなのか。そもそも原因は俺にこそあるのではないか。単純に、俺のことが好きではなくなっただけかもしれない。訊かなければ分からない。その答えを聞くのが
とてつもなく、おそろしい。
今の俺はもう、なしにはきっとこの先も生きていけないのだから。
地図を持ってくればよかった。が今どこにいて、誰と語り合っているのか。少なくともこの数日、彼女を談話室で見かけることはなかった。
図書館を覗いてみたが、の姿はない。部屋にいるのか、もしくは誰か先生のところか……ひょっとして、天文台の塔に上がっていたりはしないだろうか。まさか。この時期に……けれどもあの塔の上は、彼らにとって大切な場所ではあった。子供の頃から一緒だった。三人で、下らないことで笑い、一面に広がる緑を眼下にいつまでも語り合った。ジェームズ、
俺にとっては、何物にも替えがたい……。
別の扉から図書館を出ようとしたとき、ふと目に飛び込んできたものがある。最悪だ。俺は気付かなかったことにしようと努めたが、ドアに伸ばした手が怒りに震えて止まらなかったので、せめてもう一度だけははっきり言ってやろうとそちらに爪先を向けて歩き出した。ロジエールだ。
「おい」
離れているとはいえ司書に咎められない程度に低い声を出して呼びかけると、こちらに背を向ける形で薬学の棚を見上げていたロジエールは少し驚いた様子で振り向いた。だがそれが愛すべき幼なじみだということが分かるとニヤリと不敵に笑ってみせる。
「よう。元気そうだな」
「白々しい挨拶は要らねーんだよ。そんなことより」
握り締めた拳をようやく振り解きながら、シリウスはぎりぎりまで相手に近付いて唸った。
「二度とあいつに手ぇ出すんじゃねーぞ」
ロジエールはまったく表情を変えず、僅かに目を細めただけで気楽に言ってくる。
「さあ。それは保証の限りじゃないな。俺が手を出さなかったとしても
」
こちらの表情が険悪に歪み、掴みかかるのを牽制するようにして、淡々と続ける。
「自身の気持ちが動くことだってあるだろ」
シリウスは一瞬、怒気を削がれた気がして吐き出しかけた息を呑み込んだ。それこそが最も恐れていることだ。だがそれをこいつから聞かされるとそれだけで腹の奥から気味の悪い酸でも噴き出してくるかのようだった。とうとう伸ばした右手で相手の胸倉を掴みながら、うめく。
「あいつの気持ちが動くとしても……それはお前にじゃ、ない」
「そうかもな。でもそんなことは俺にとっちゃどうでもいいんだよ」
どうでもいい?散々あいつのことを蝕んでおきながら
そんなことは、まったく瑣末なことだとでも言いたげに。シリウスはロジエールのローブを握る指先にさらに力を入れ、絞り出すようにして言った。
「お前は……」
「なんだ?なんだよ」
変わらず唇だけに薄っぺらな笑みを浮かべて、ロジエール。ああ、こいつが。何で、どうして何もかも駄目にする。
「……お前は、どうなんだ。あいつのこと
好き……なのか」
渾身の思いで。何もかもを擲つような心地で。それなのにロジエールは一瞬まるで子供のように目を丸くしたあと、三文芝居でも嘲るかのようにそれを下らない笑みで一蹴した。
「分かってないな。俺があの女を好きだろうがそうじゃなかろうが、そんなことは問題じゃないって言ってるんだよ」
「……なに言ってんだ、お前は」
「言っただろ。を手に入れようと、てぐすねひいて待ってる人間はごまんといるってな」
したり顔で語るロジエールを見ているだけで反吐が出そうだ。そしてこいつは……何を言ってる?
不意にその青い瞳に挑戦的な色をちらつかせ、ロジエールは半ばこちらに身を乗り出してきて、言った。
「自分の名前も守れないようなお前に、が守れると思うか?」
途端、喉の奥でカッと何かが燃え上がり、両手で掴んだ胸倉をその後ろの棚に勢いよく押し付けたが、もはや嘲笑すらも消し去ったロジエールの眼光がどういうわけか彼が拳を振りかざすことを妨げた。
「放せよ。俺はお前と違って忙しいんだ」
その言葉に従ったわけではない。気圧されたわけでもない。
ただどうしようもないほどの喪失感を覚えて、シリウスは熱くなった両手を膝の上までぐったりと落とした。襟元を正したロジエールは近くの本棚から数冊を抜き取ると、何事もなかったかのようにその場をあとにする。
(お前にが守れると思うか)
自分の名前も守れないような。
(与えられた責任も果たせないお前が)
お前に彼女が守れるか。
(
)
途端に、この手の脆さを知ったようで。
その場にしゃがみ込んだシリウスは、冷えた額を押さえつけながら、静かに熱い涙をこぼした。