少し……言い過ぎた、かもしれない。部屋に戻った途端、シリウスは急速に後悔し始めていた。あのときは頭に血が上って、思いついたことを何も考えずにそのまま口にしてしまったけれど。悔しかったのだ。伝わらなかったのかと思うと。俺がどれだけ彼女の身体のことを思って、反対し続けてきたのか。言われてみれば確かに、彼女は同年代の魔法使いの中でも抜きん出て優秀な存在だ。アニメーガスの術にしても、きっとピーターなんかよりよっぽど手早く習得してしまうだろう。だがもしものことを考えたとき、彼女にはどんな危ない橋も渡らせたくなかった。たとえどれだけ彼女が、実技に秀でた魔女だったとしても。その思いが伝わらなかったのだと思うと、歯痒い思いに苛まれて居ても立ってもいられなくなった。もしも、もしもあのまま、元に戻れなかったら。

だが、あのときの彼女の表情を思い出すと。本当に、そんなつもりはなかったのかもしれない。小さな嘘をつくときの彼女は、目を見ればすぐにそれと分かる。嘘はついていなかった、きっと。『できちゃった』    彼女は時に、こちらが拍子抜けしてしまうほど、あっさりと何かをこなしてしまうことが確かにあった。

(それにしたって……うそだろ?)

俺たちがどれだけ苦労して身に着けた術なのか、分かってるのか?それを『できちゃった』の一言で……まったく、本物の天才か、あいつは?
悩んだ挙げ句、シリウスはもう一度『忍びの地図』を見てを迎えに行くことにした。談話室で水を一杯飲み、気持ちを落ち着かせてから冷えた廊下に出る。彼女の名を示す点は、図書館を目指して進んでいた。

(ちゃんと話し合って……あいつのアニメーガスに関しては二人でゆっくり話して、それで、もし……)

どんな顔をしてを迎えに行けばいいか、それを頭の中でシミュレーションしながら図書館前の最後の廊下の角を曲がったそのとき、事件は起きた。

眼前で、見知った二人の男女が壁に寄りかかってキスしていた。

Who won the exchange ?

勝つのはだれだ

    やだやだやだ、やだ!逃げようともがいても、動きは封じられているし後ろにも引けないしでどうすることもできない。噛みつくような口付けに激しい嫌悪を感じて顔を背けようとしたが、ロジエールの唇がすぐさま追いかけてきてまた同じところを塞がれてしまう。いやだ、こんなの……何で、好きでもないくせにどうしてこんなことするの。抗議の声をあげようと口を開くと、舌まで滑り込んできてはぞくりと身震いした。いやだ、こんなの……こんなこと、シリウスだからできるのに。やだ、この感触も、慣れない味も……気持ち悪い、いやだ。

「テメェ、何やってんだ!」

突然傍らから聞こえてきた怒声とともに、唇が離れた。はっとして目を見開くと、どこからか飛び出してきたシリウスがそのままロジエールに掴みかかってから引き離す。そして激しい憤怒を拳にこめて、相手の頬に容赦なく叩き込んだ。凄まじい勢いでロジエールの身体が後方に突き飛ばされる。シリウスはさらにその上に馬乗りになって右手を振りかざそうとしたが、転倒しているときに取り出したらしい杖をロジエールが彼の胸に突きつけるほうがほんの少しだけ早かった。
僅かに赤くなった唇の端を吊り上げて笑いながら、ロジエール。

「見れば分かるだろ。せっかくいいところだったのに、邪魔するなよ」
「ふっ……ふざけんな!」

腹の底から絞り出すような声で怒鳴りあげ、シリウスは再びロジエールの顔面を殴りつけた。だが二、三発といかないうちに、ロジエールが何か無言呪文を発したらしい。今度はシリウスの身体が跳ね上がって、数ヤード後ろの廊下に背中から叩きつけられた。

「シリウス!」

慌てて駆け寄って、傍らに膝をつきながら覗き込む。頭を打ったのか、シリウスはしばらくきつく目を閉じて頭を抱え込んでいたが、やがて瞼を開いたときはを見てひどく居心地の悪そうな顔をした。いやだ、どうしよう……よりにもよってシリウスに見られた。思わず口元を隠して、顔を逸らす。どうしよう、まともに目を合わせられない。
いつの間にか立ち上がっていたロジエールが、まだ杖をシリウスのほうに向けたまま鼻で笑ってみせた。

「ハッ。いい気味だ。シリウス、いつまでもが自分のものだと思うなよ。お前らが想像してる以上に、てぐすねひいて待ってる人間はごまんといるんだ」
「へぇ……そうかよ。お前がをそんなに評価してるとは思わなかったな。うちの親には散々こいつの悪口垂れ込みやがったくせに、なかなかいい性格だなコラ!」
「俺じゃない。俺というよりは……」

言いかけて、ロジエールは思いなおしたように言葉を切った。妙な含み笑いを浮かべて、湿った唇を指先でなぞる。あの唇にキスされたのだと思うと、身体中を気味の悪い虫が這いずり回っているような変な気分になった。どうしよう。私、どうしたらいいんだろう。ロジエールにキスされた、それを……大好きなシリウスに、見られた。すぐ目の前に横たわるシリウスの身体に、あと少しというところで触れられなくて。伸ばした指先が、強張って動かない。ねえ、好きでもない男にキスされるって、こういう感覚なの、リリー?スネイプよりはましだとか、そういう次元の話じゃない。いやだよね、こんなの。何にも分からなくて、無責任なことしか言えなくて。ごめんね、リリー……。

「……まあいいさ。邪魔が入っちまったから今日はこれで勘弁してやる。当てが外れてがっかりだったけどな」
「あぁ?ふ……ふざけんな!がっかりだ?勘弁してやる?勝手なことばっか言ってんじゃねぇよ!」

叫んだシリウスが再びロジエールに飛びかかっていきそうだったので、は慌てて腕を伸ばしてそれをなんとか押さえ込んだ。

「シリウス……もういい、もういいから」

激しい形相で振り向いたシリウスだが、こちらの様子を見て少なからず怒気を削がれたらしい。ロジエールが悠然と立ち去っても、ひどく当惑した顔で何も言えないまま口ごもるだけだった。そんなシリウスをとても見ていられなくて、傍にいることがたまらなくなって。膝を抱えてしゃがみ込んでいたは、逃げるように目を逸らして立ち上がった。

「……ごめん。わたし、トイレ行ってくる」

呼び止めてくれることを待っていたのかもしれない。名前を呼んで、あの大きな手で抱き締めてくれることを。だがシリウスはその場に根が生えたように座り込んだまま、ただ黙っての駆け去る後ろ姿を見送った。
勢いよく流した水をてのひらで掬って、喉の奥までを何度も何度も漱ぐ。あの乱暴な感触が、まだ唇に焼き付いていて。落ちやしない。何度洗っても、あのときの感覚がありありと蘇ってくるのがつらい。衝撃を受けたシリウスの顔。強く抱き締めて、何もかもなかったことにしてほしかったのに。
溢れ出た涙も、流水に乗せて有耶無耶にしてしまう。眼前の鏡に映る自分の顔が、ひどく惨めに見えた。

(もう……だめだ)

ロジエールのことに、アニメーガスの一件が重なって。顔なんて、合わせられない。なんていって話しかければいいか、分からないよ。嫌われたよね、きっと。ロジエールのほうは不可抗力だとしても、ただでさえアニメーガスの件であんなにも怒らせていたところに、立て続けにあんな場面を見せられたら。
込み上げてくる嘔吐感に、震える手のひらを大理石の洗面台へと押し付ける。流れ落ちる水の飛沫に両手を突っ込んで、幾度となく唇をこすり、痛めつけた。

何度洗い流しても、ずたずたに引き裂かれたものだけは決して取り戻せやしない。
、帰ってたの?そろそろ下りないと、夕食の時間が終わっちゃうわよ。一体どこに行ってたの?」

図書館で一緒に課題をやっていたはずなのに、少し外している間に忽然と姿を消してしまった。三十分ほどは待っていたのだが、とうとう戻ってこないことが分かると(現れたのは見知らぬ黒猫一匹だけだった)、彼女は二人分の教科書や羊皮紙の束を持ってそのまま寮に帰ってきていた。そして談話室で他の友人たちと猛勉強の間の息抜きにしばらく談笑し、彼女たちが次々と大広間に行ってしまったのでひとまず自室に上がると、いつの間にやら戻ってきていたらしいが自分のベッドに突っ伏しているのが目に入ったのだ。

、どうしたの?具合でも悪いの?」

こちらの呼びかけにがうんともすんとも答えないので、さすがに心配になって恐る恐る声をかけながら近づいていく。は枕に顔をうずめたまま力なく首を振って、何でもない、らしきことをぼそぼそ呟いた。

?どうしたの、どこか具合が悪いんだったら医務室に行きましょう」
「……ううん。ほんと、何でもないの。ちょっと疲れてるだけ。ごめん、夕食はリリーひとりで行ってきて……」

一体どうしたというのだろう。リリーはうつ伏せに横たわるの背中に手を伸ばしかけたが、思い直してそれを断念した。が言葉少なに放っておいてくれと言うとき、それは体調云々よりも精神的な問題であることが多く、そしてそのときは本当に放っておいてほしいと思っていることを知っていたからだ。話を聞いてほしいときには自分から縋りついてくる。初めは彼女の望み通りにそっとしておいて、事情はそのあとでいい。少なくとも、彼女の前ではという友人はそういう女の子だった。

「分かったわ。それじゃあ、あとで何か食べるものを持ってきてあげるからね。ゆっくり休んで」

答える言葉すらないというのは、よほど参っているのだろう。そんな友人のことが心配で心配でたまらなかったが、リリーはおとなしく踵を返して静かな寝室をあとにした。
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(09.01.22)