ど、ど……どういうことだ?
忍びの地図を見た。周囲を見渡した。そして抱き上げた黒猫を見る。もう一度地図を見て、あたりを見回してから腕の中の黒猫を見下ろす。そんなことを、幾度となく繰り返し、激しく脈打つ鼓動をなんとか押さえ込んで。

「ま、まさか……?」
「にゃあ!」

猫の言葉は分からないが、無関係にしてはあまりに鳴き声のタイミングが良すぎるのと、その表情がまさに「そう!」とでも言っているかのようで。そして何より    』という点が、地図上の『シリウス・ブラック』とほとんど重なっているという事実。
シリウスは乾いた喉にようやく唾を流し込んでから、まったく同じことを繰り返した。

「まさか……、なのか?」
「にゃあ!」

ちょっと待てっ!俺はもう一度地図を睨みつけ、そしてゆっくりと眼球を動かして、必死にこちらを見上げる腕の中の黒猫を見下ろした。おい……マジ?を示す点は、今も変わらず俺のところにある。

「……ちょっと、来い!」

シリウスは怒声をあげて、荒々しく踵を返した。抱き上げた黒猫が戸惑った様子で急に暴れ出すが、構わず無人の廊下を突き進む。最後の期待をかけて右手の地図を見据えたが、『』の文字はやはりシリウス・ブラックと共に六階を目指していた。

女子トイレからこっそり顔を覗かせたマートルが「……いい男」と呟いたことは、誰も知らない。

a man of his word

エバン・ロジエール

、なんだよな?おい、ちゃんと説明しろ」

う、わ……やばい、かなり怒ってる。
六階の、物置になっている教室の奥。シリウスと初めて気持ちを伝え合った、大切な場所だ。その同じところで腕を組み、仁王立ちしたシリウスに冷たく見下ろされ、は床に伏せたまま窺うように視線を上げた。

「アニメーガスにはならないって。ピーターのやつがマニュアル見せたときだって、本気じゃないって言ったよな?なのにこれは……どういうことだ?」

どうしよう、どうしよう。ものすごく怒ってる。本気じゃなかったよ。それは本当なのに。元に戻れないかもしれない、その不安ではちきれそうなのに……大好きなシリウスを怒らせて、きっと傷付けて。たまらなく、苦しかった。ごめん、ごめんね、シリウス。私のこと、ほんとに心から心配してくれてたのに。ごめんなさい、でも。

、いい加減にしろよ?そのままじゃ答えらんねーだろ。とにかく戻れ、戻ってちゃんと説明しろ」

私だって戻りたいの!戻りたいのに……どうしたらいいか、分からない。は躊躇いながらもシリウスのズボンの裾に縋りついて見上げた。シリウスは一瞬表情を緩めそうになったものの、すぐに唇を引き結んで突き放すように告げる。

「甘えるな。いいから元の姿に戻れって言ってるんだよ。言い訳ならそれから聞いてやる」

ああ……ああ、どうしよう、どうしよう。彼のズボンから前脚は退けなかったが、は力をこめていた指先をゆるゆると落としてすっかり項垂れた。どうしよう。どうしたらいいんだろう。ここは潔く、マクゴナガルに助けを求めに行くしかないか。急におとなしくなったを見てシリウスは眉をひそめたが、程なくしてはっと息を呑む。

「……お前、まさか戻れないのか?」
「にゃあ、にゃあ……」

はせめてイエスの意思を伝えるために、ぼそぼそと尻すぼみに声をあげた。シリウスは頭を抱えてわけの分からないことをうめいてから、突然    

「馬鹿野郎っ!だから言ったんだ、お前には絶対にやらせねぇって!も、もしものことがあったらお前……何で分かってくれなかったんだよ!」

あまりの声量に驚き、は反射的に飛び退いて近くの机の陰に隠れた。シリウスは乱れた呼吸を整えながら、失望しきった声でつぶやく。

「俺が、どれだけ……どれだけお前のこと、心配して……」
「……にゃあ」

ごめん    ごめんなさい、シリウス。ごめん……。分かってたのに。シリウスが、リーマスがみんなが私のこと心配して言ってくれてるって、分かってたはずなのに。だけど、まさかあんなことで本当に変身できちゃうなんて、思ってもみなかったんだもの。これが、これが本当にシリウスやジェームズが三年もかけて完成させた『アニメーガス』なの?
シリウスはよろよろとその場にしゃがみ込み、机の脚から姿を見せたを睨みつけて絞り出すように言った。

「……変身、したんだろ。だったら……『イメージ』は、できるな?自分の変身した姿、それから人間の姿……どっちも鮮明にイメージするんだ。それから骨格、筋肉の変化。形の視覚化が最も重要だ、分かるな?」

骨格、筋肉?なにそれ、そんなの考えたこともない。そういうのが要るの?それじゃあ一体    どうして、変身できたわけ?だがそれを言葉にして伝えることはできなかったので、は必死になって鏡に映った自分の姿を思い描こうとした。頭に浮かび上がった黒い猫から、変化を通じてあの形へ。ぼんやりしたそれが次第に意識の中ではっきりと輪郭を帯びてきた頃、は不意に自分の両手と膝が冷たい床を直接こするのを感じてぱっと目を開いた。
ずっと高い位置から覗き込むように見下ろしてきたシリウスの顔が、すぐ目の前にある。身体中を熱い波が巡り、は彼の瞳を見ていられなくなって、人間のそれに戻った自分の両手を見つめた。だがシリウスは、突然の両肩を掴むと、

「へ、変なところないか?ちゃんと戻れたか?どっか違和感ないか?」
「……う、うん。たぶん、大丈夫……」

こんなときでも、真っ先に私の身体のことを心配してくれて。は込み上げてきた涙を見られないように俯いたが、続いてシリウスが発した怒号に驚いて飛び上がった。

「……………馬鹿野郎!!!!」

鼓膜が、破裂したかと思った。びくりと跳ね上がって、思わず身体を後ろに引きながら顔を上げる。シリウスはその場に蹲ったまま、怒りに肩を震わせて喚き続けた。

「あ、あ、あのまま戻れなかったらどうするつもりだったんだ!危険性は何回も何回も説明したよな?失敗したら取り返しがつかなくなるって、ちゃんと説明したよな?お前、アニメーガスにはならないって俺にちゃんと約束したよな?今日は元に戻れたからよかったものを……な、何でこんなことしたんだ!」
「ご……ごめ……」
「俺に黙って調べたのか?それとも……あいつに、マニュアル借りた?」

聞かれて、はすぐに激しく首を振った。

「ちがうよ!自分では、変身術のクラスで勉強することくらいしか調べてないし、ピーターにマニュアル借りたわけでもない。ただ……マニュアルちょっと見せてもらったときの、『イメージが大事』っていうの、覚えてて……それでなんとなく、『イメージ』してたら…………できちゃった、の」
「できちゃったって……お前」

シリウスはしばらく探るような目付きでこちらを見ていたが、程なくして荒々しい口調で切り捨てた。

「ふざけんな、んなわけあるか!」
「ほ、ほんとだよ!お願い、信じて……本気でなろうとしたわけじゃないの。ほんとに……ちょっとイメージしてみただけで、知らないうちになっちゃったの、ほんとだよ」
「……信じられるか、んなもん。俺らだって、調べて調べて調べまくって三年かかったんだ。それを……いくらイメージが大事っつったって」
「だってほんとだもん!ねえ、シリウスの気持ち傷つけたことは謝るから……でもお願い、それだけは信じて。やり方だってほとんど知らなかったんだもん、ねえ」

だがシリウスは振り払うように立ち上がると、見上げるを冷ややかに見据えて乱暴に吐き捨てた。

「もういい。俺がどんだけのこと心配でアニメーガスの件に反対してたか、お前にはまったく伝わってなかったんだな。そんなになりたきゃ好きにしろよ。それでどうなったって自業自得だ」
「まっ……待って、シリウス!」

彼女が呼び止めるのも聞かず、憤慨したシリウスはひとりで早々に教室を出て行った。
どうしよう、どうしよう……嫌われた、かもしれない。今後こそシリウスは、完全に怒っていた。信じてくれたのに、心配してくれたのに。私は彼の気持ちを、裏切った。だけど……だけど本当に、そんなつもりはなかったのに。

ひとしきり泣いて、少しだけ落ち着いたあと。とにかく戻ろう。戻ってシリウスと話そう。ちゃんと説明して、今度こそ、今度こそアニメーガスにはならないって。ひょっとしたら『イメージ』の中に、ほんの少しでもアニメーガスになりたいという気持ちが入ると術が作用してしまうのかもしれない。気をつけるから。こんなことが二度とないように、シリウスを傷付けなくてもいいように。

(でも……なんであんなのでできちゃったんだろ。アニメーガスにも向き不向きがあるってこと?)

そして私は他のどんな魔法より、アニメーガスの魔法に適してるということなのかもしれない。きちんと習得すれば、それこそ意のままに変身したり戻ったりできるのかも。シリウスにはこんなこと言えないし、これからも変身したいとは思わないけど。シリウスをあんなに怒らせてまで、猫になりたいなんて思わない。
だけど、ちょっとは……ううん、だめ、だめ!早く帰って、シリウスに謝ろう。

は部屋を飛び出して、グリフィンドール塔へと急いだ。あ、でも……図書館に荷物、そのままだ。取りに行ったほうがいいよね。いきなり消えたから、リリー、心配してるかな。いきなりとはいっても、私はリリーに放り出されたんだけどね……。
踵を返して、ひとまず図書館を目指す。階段を下りて廊下を駆け抜けたところで、は少し先の角から姿を現した二人連れを見て思わず足を止めた。気付かれないうちに歩みを再開して、何事もなかったのように通り過ぎようと試みる。だがすれ違い様に声をかけられて、はあのとき引き返さなかったことを後悔した。

「ハロー、ミス・
「……どうも」

あああ、ほんとは無視してやりたいのに!無視できない私って、本当に損な性格!
控えめに振り向いたの目を見て、ウィルクスと連れ立って歩いていたロジエールはニヤリと笑ってみせる。

「ああ、なるほどな」
「なっ、なによ」
「いーや。ずいぶん目が腫れてらっしゃるようだから、あいつと喧嘩でもしたのかなと」
「なっなによそれ関係ないでしょう!」

かーっと耳まで真っ赤になって、怒鳴り散らす。そんなに腫れてるのかな……鏡、確認しとけばよかった。ウィルクスも、ロジエールの向こう隣で肩を揺らして笑っていた。

「さっき上でシリウスに会ったんだ。ずいぶんご立腹だったぞ?」
「うっるさい放っといて!!」

やっぱり無視すればよかった。ふいと顔を逸らして、図書館に向けて歩き出す。だがどういうわけか、ロジエールはすぐ後ろをついてきた。

「何でついてくるのよ!」
「忘れ物をしただけだ」
「だったらもっと離れて歩いて!」

歩きながら振り向くと、すでにウィルクスの姿は見えるところにない。ロジエールと二人きりだなんて虫が湧きそうなくらい嫌だったので、はなんとか引き離そうとペースを上げた。

「そう急ぐなよ、
「そんなの私の勝手でしょう?何でくっついてくるの!」
「グリフィンドールは冷たいな。もう少し愛想くらい見せてみたらどうだ?」
「へぇ、スリザリンの方々が先生以外にも愛想よくしてるなんて知らなかったわ。見習わなきゃ!」

叩きつけるように怒鳴り、最後の角を曲がろうとしたところで、いきなり左の腕を掴まれは飛び上がった。驚いて振り向くと同時、急に詰め寄ってきたロジエールに後ろの壁へ両の手首を押し付けられる。そして間近で顔を覗き込まれ、は嫌だと思いながらも身体中に蔓延する熱を抑えることができなかった。な、なな、な、ほんとに……何なのよ、こいつ!やだ、さっさと冷めてよこの熱さ!少しでもどきどきしてるなんて、絶対にロジエールには知られたくない。

「何すんの、よ!」
「嫌なら杖尽くでも逃げろよ。その気になれば俺ひとり吹き飛ばすくらいどうってことないだろ?」

こいつ……前にも、似たようなこと言ってた気がする。何なの?そんなに私に吹き飛ばされたいの?

「いい加減にしてよ!もう私には構わないって……約束してくれたんじゃ、なかったの?」

尻すぼみに聞き返したの心中を見透かしたように、ロジエールは鼻先で笑いながらさらに顔を近付けてきた。口にガムでも含んでいるのか、ミントの香りがツンと鼻の奥に届く。いやだ、いや……振り解こうと身を捩るも、こちらの腕を拘束するロジエールの握力は弱まりもしない。

「何年前の話だ。もう時効じゃないか?それに俺が約束したのはあんたじゃなくてポッターだ」
「ジェームズの約束なら反故にしてもいいっていうの?あんたは……いやなやつだけど、でも……約束は、破らない人だと思ってた」

こんなこと、言いたくはないけれど。歯痒い思いで絞り出すように、うめく。だがロジエールは余裕すら感じさせる笑みでこちらの目を覗き込みながら、

「約束は守るさ。だが気持ちが変わることはある」
「そっ、それを、約束を破るっていうのよ!」
「状況の変化を認められないやつは馬鹿だ。あんたも少しは成長しろよ」
「ばっ……人の約束を平気で破れるようになることが成長するってことなんだったら、私は子供のままでいい」

思い浮かんだのは、母を取り巻く幾人もの魔法使いだった。ハグリッド、マクゴナガル、ダンブルドア、そしてベンサム。交錯する秘密や、嘘。なぜかそうした人たちと、ロジエールの面影が重なって見えた。
これ見よがしに鼻で笑って、ロジエール。

「ご立派なグリフィンドールの考え方だ」
「そう、それはどうも。気に入らないなら早く、その手を退けて」
    見せてみろよ」

わけが分からず眉をひそめる彼女の額に、屈み込んだロジエールの前額が触れた。いや、いやだ。身を引こうにも、後ろの壁へと押し付けられたに逃げ場はない。

「レグルスのおばさんたちを吹き飛ばしたって力、見せてみろよ。杖もなしでそんだけのことができるってのはよっぽどのもんだ。ポッターとあんたのことを約束したときは、ただスリザリンからグリフィンドールに移ったあんたに興味があった。でもな、今は」

今は、何なのか。それはついぞ分からなかったし、後になって思い出すこともなかった。
不意に唇に触れた生温かい感触に、頭の中が真っ白になったのだから。
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(08.12.02)