「別れて、くれないか」

女の子と付き合ったことは、何度かある。けれどもいつでも、心の奥で疼くのは彼女の微笑みばかりだった。いつから?告白するつもりなんてなかった。幾度となく男から告白されているリリーだが、そんな彼女が誘いを受けたことは一度もなかったからだ。たった一度    ジェームズと二人で、ホグズミードへ出かけたという。
淡いパープルのドレスに、華やかなバレッタをつけて結い上げた髪が美しくしなる。この日をどんなに、楽しみにしていたか。それなのに、どうしてこんなことに。
望んだわけじゃないんだ、こんなこと。ダンスパーティで一度、彼女と踊ることができるならばそれで。

「この間は……ごめんなさい。だけど、その……びっくり、して。私も、好きだったの    ずっと、あなたのこと」

あのときに気付くべきだった。舞い上がってそのまま付き合おうだなんて。その結果が、これだ。友達でよかったのに。『友達』のまま、留まるべきだったのに。
リリーは大きな、その透き通った緑色の瞳を見開いて、怯えたように見上げる。

「ど……どう、して?わたし……あなたの、気に障るようなこと……?」
「そういうことじゃないんだ。これ以上一緒にいても、しかたないだろう?」

飲み込めずに戸惑う彼女に、できるだけ、さり気なく    できるだけ、冷ややかに。

「ジェームズが好きなんだろう?」

長い睫毛が揺れて、うっすらと開いた赤い唇が戦慄く。見ているのはつらかったが、逸らさないことがせめてもの気持ちだと思った。

COURAGE

踏み出す勇気と、退く勇気

しばらく窓際の席を探していると、彼は奥の狭まったテーブルに座っていた。教科書と羊皮紙を広げて何やら熱心に書き付けている。こちらの存在に気付くと、ぱっと顔を上げて微笑んでみせた。ああ、確か彼に告白されたのも……ここだった、気がする。

「やあ。来て、くれたんだ」
に、聞いて。ここ……いいかしら?」

落ち着かない、けれどもどこかくすぐったいような……奇妙な、鼓動。彼の向かいの椅子に腰掛けてから、リリーは持ってきたマグル学の教科書を開いた。

「あ……エバンスもマグル学?僕もなんだ、レポート、休み明けの金曜までだよね?」
「ええ。まだ半分しかできてなくて」
「で、でもエバンスはやっぱりマグル生まれだから、君の意見はいつも参考になるよ。ねえ、マグルの戦史なんだけどエバンスはどれを取り上げる?僕はこの耳戦争なんて興味深いと    
「わたし」

たまらなくなって、相手の言葉を遮る。普段から彼は饒舌だけれども、それはこんなにも下手な笑い方ではない。
ポッターは口を開いたまま固まり、煌く眼鏡の奥でそのハシバミ色の瞳が収縮するのを見たような気がした。

「……聞いたんでしょう。私が、彼と別れたって」
「え?あ、その……あの、みんなが噂してて」
「いいの。隠そうとしたわけじゃないから。隠せることじゃ、ないと思うし」

一度瞼を伏せて、また顔を上げる。何を言えばいいのか……しばらく、考え込んだ。

「……ごめんなさい」
「えっ?」
「わたし、あなたの気持ちを知っていてあんなことを言ったのに……ごめんなさい、情けないわ……わたし」
「な、なんでエバンスが謝るのさ?そんな必要はないよ。君は自分の気持ちに従っただけだ、そうだろう?」

ああ、いつもそう。自信満々で少し傲慢なくらいの彼が、一対一で向かい合うと途端に弱気になる。そう、私は痛いくらいにそのことを知っていたはずなのに。
項垂れる彼女をしばらくじっと見つめたあと、ポッターは静かに、けれどもはっきりと次の言葉を口にした。

「好きだよ、エバンス」

突然のことだったので    聴覚に意識が追いつくのが、遅れた。はっとして顔を上げると、まっすぐこちらを見据える相手の瞳と目が合う。たまらなく苦しくて、けれども狂おしいほどに胸が熱くなって。どうすることもできずに再び俯いたリリーに、彼は少し声の調子を落として続けた。

「ごめん……今、こんなこと言うべきじゃないかもしれないけど。でも、僕は今でも君のことが好きだから    だから君がつらそうな顔をしてると、僕もつらい。僕に何かできることがあれば……力になりたいって、思ってるよ」

泣いちゃだめだ。悲しいことや、切ない思いや。一気に雪崩のように押し寄せてきて、破裂してしまいそうになっても。差し出されたその手を敢えて選ばなかった自分に、涙を見せる資格なんてあるはずがない。

「泣いてもいいんだよ、エバンス。どんな君でも、君は君だよ。『笑顔の可愛いリリー・エバンス』だけじゃない。髪の毛逆立てそうなくらい怒ってる君のことだって、僕は好きで好きでしょうがないんだ。どんなエバンスだって、好きになれると思う。だからつらいときは……無理して笑わなくても、いい」

信じられない思いで、目を見開く。だがポッターは、決して目を逸らさない。こんなにも    ねえ。彼はこんなにもずっと、私のことを思ってくれていたの?どうしてあなたではなく、撥ね付けてきた私なの?恋って分からない……いつの間に私は、こんなにも彼のことを。
こらえきれずに一筋だけ涙をこぼしたあと、リリーは急いで頬を拭ってから意識せずに微笑んだ。

「ありがとう。私も好きよ、ジェームズ」

飲み込むのに時間がかかったのか。彼はきょとんと目を開いたあと、みるみるうちに耳まで真っ赤になって固まってしまった。ああ、ありがとう神様。ありがとう、お祖母ちゃん。あなたの言う通りでした。いつかきっと、帰りたいと思える新しい場所ができると。
リリーが    ジェームズに好きって、言ったらしい。いや、不謹慎なんだよ、エバンスが、いやリリーがダークと別れたばっかりだっていうのにこんなに喜んでるっていうのは。それは分かってるんだけど、うん、やっぱり、その……うん、隠せるとは思わないよ。ああ、そうさ、僕は今最高に幸せだ、、ありがとう、これからも僕たち仲良くしようね!    興奮に頬を染めて幸せそうに語るジェームズの様子を思い出して、はこっそりと目尻を緩めた。やっぱり、うれしい。ジェームズとリリーが名前で呼び合うようになったこと、お互いの気持ちを言葉にして伝え合ったということ。ダークとのことがあったばかりなので、リリーはまだ思い切れず、二人は明確に『付き合っている』わけではないのだが……その点はジェームズも納得していて、リリーの気持ちの整理がつくまで待つよ、と言っているらしい。思い合ってはいるが正式に『恋人』というポジションではない、という状態はも経験しているので、彼女は親友二人の経過をゆっくりと見守ることにした。

「ジェームズのやつ、今日も朝からテンション高すぎて六時には叩き起こされた」

すぐ隣を歩くシリウスが、げんなりした様子でうめく。とシリウスは無断外出の罰として、ほとんど毎日のようにマクゴナガルからあらゆる雑用を仰せつかっていた。休暇中ということもあって減点は免れたので、どれだけ感謝しても足りないくらいだ。シリウスもおとなしく従い、クリスマス休暇の最終日、二人は早々と寮監のオフィスに向かっていたのだった。

「最近元気だよね、ジェームズ。やっぱりジェームズはああじゃないと!」
「元気すぎるんだよ。せっかくの休みだっていうのに毎日毎日あれじゃこっちの身が持たねぇって」
「いいじゃない、健康的な生活ができて。明日からまた忙しくなるんだから」

迷惑だ、休みの日くらいもっと寝かせてほしいとシリウスはまだぶつぶつ言っている。彼はもともと寝起きが悪いのだ。だがの目はすでに、廊下のずっと先にいるひとりの男子生徒を見つめていた。どうしよう……どうやらマクゴナガルの部屋から出てきたばかりのダークは俯きがちに、こちらに向かって歩いていた。

「あ、わ、わ……ど、うしよう!ダークがこっちくる!」
「どうしようって……どうもしなくていいだろ、べつに。普通にすれ違えばいーんだよ」
「普通にって!」

そりゃあ、しばらく一本道のこの廊下でいきなり引き返すのはあんまり露骨だけれど。でもクリスマスのダンスパーティ以降、は談話室で見かけてもそれまでは気楽に挨拶していたダークに声ひとつかけられなくなっていた。視野の広いはずのダークも、ここのところやリリー、ジェームズが近くにいると急に見える範囲が狭くなるらしく、そばを通りかかっても気付かないことが多かった。でも、これじゃあ……どうしたって避けられない。
ダークはしばらくするとやはりこちらの存在に気付いたようだったが、特に速度を変えることもなく平然と近付いてきて、狼狽えるに声をかけた。

「やあ、二人ともおはよう。マクゴナガルが待ってるよ、早く行ってあげて」
「う、うん……いま行くとこ」

ごめん、ごめんごめんごめんダーク!私が悩んでるリリーに、ジェームズにチャンスあげてって言った!
ダークはそれだけを言うと、こちらから顔を逸らしてすぐに二人の横を通り過ぎた。何も言わずにそのまま歩き出そうとしたシリウスを「先に行って!」と押して、は急いでダークのほうに駆け寄る。面食らって振り返り、わけの分からないことを口走るシリウスに「お願い先に行ってて」と繰り返して、は同様に不可解な顔をしてこちらを向いたダークにさらに近付いた。

「ダ、ダーク、ごめん、ごめんごめんごめん……リリーは悪くないの、リリーのせいじゃなくて、私が……私がリリーに言ったの、ジェームズ今でもリリーのこと好きだから、だからもう一回チャンスあげてって。ごめんダーク、私が悪いの……ごめんなさい。ダークだってリリーのこと好きだったのに……ごめん」
、バカ、お前なに言ってんだよ。そんなの言われたってダークが困るだけだろ。やめろよ」

慌てて駆け寄ってきたシリウスがこちらの腕を引いて捲くし立てる。ダークは薄く開いた唇を少し引き結んだが、取り立てて顔色を変えることもなく平然と言ってきた。

「シリウスの言う通りだよ。君にそんなこと言われても……それに別れようって言ったのは、俺だし。そのあとでリリーが誰と付き合おうと彼女の自由だ」
「そうかもしれないけど……でもダーク、リリーのこと好きだったよね。大事にしてくれてたよね。なのにダークがリリーに別れを切り出したって聞いて……わたし、信じられなかった。ねえ、分かってた?リリーが    ダークのことももちろん好きだけど、でもジェームズのことも好きなんだって。ねえ、分かってたんだよね?だから大好きなリリーと別れようって思ったんじゃないの?リリーがずっと、悩んでるの知ってて、リリーのために」

嬉しくて仕方なかった。大好きなジェームズとリリーが、初めはとても望みがなさそうに見えたあの二人が、こんなにも近付いて。けれども同時に、ずっとみんなの憧れの上級生だったダークが彼女のことで悩み苦しんだ姿が目に浮かぶようで、諸手を挙げて喜ぶことができないのもまた事実だった。自然と溢れ出てきたものをぶつけたのだ。
だが、それを聞いた途端    静的だったダークの瞳に、激しい、青い炎のようなものが揺らめくのをは見たような気がした。

「勘違いしないでくれ。俺はそんなにできた人間じゃない」

初めて、見た。あの優しいダークが……こんな顔を、するんだ。
ダークはそのまま背中を向けて、ゆっくりと歩き出す。

「俺を聖人かなにかだと思ってるんだったら、考え直したほうがいいよ。自分の気持ちをそっちのけても、誰かのために犠牲になれるような……そんな人間、いるわけないからね。違うところばかり見てる彼女と一緒にいるのがつらかったんだ。ただ、それだけだよ」

その後ろ姿が、角の向こうに消えるまで呆然と見送って。
聞こえよがしに嘆息したシリウスは、こちらの腕を放して呆れたように呟いた。

、お前な、ときどき踏み込むんじゃいけないところに土足で踏み込むの、やめたほうがいいよ。せっかくエバンスのこと忘れかけてたかもしれねぇのに、わざわざダークの傷を抉りなおして」
「え、えぐる?わたし、そんなつもりじゃ……」

どうしても、信じられなくて。ひょっとしてダークがリリーのためを思って身を引いてくれたんだったら、ひとりくらいはそれを知っている人間がいたっていいじゃないか、いるべきなんじゃないかって。
でも、そうかもしれない。ずかずかと、自分の憶測を押し付けて……傷付けなくてもいい人を、不用意に傷付けたかもしれない。はすっかり項垂れて、シリウスのほうに向きなおった。

「うん……ごめん。気をつける」
「いや、俺に謝られても」

シリウスは困った様子で頬を掻いてから、の背中を軽く押してマクゴナガルのオフィスの方向を見やる。

「まあ、もうダークのことは放っといてやれよ。俺らが話しかけても嬉しくないだろうし。さっさとマクゴナガルの仕事終わらせて帰ろうぜ、最後の休みくらいゆっくりしたい」
「うん……そうだね、行こう」

シリウスと並んで歩きながら、ほんの少しだけすでに無人の廊下を振り返る。ダークも、悲しんだり怒ったり……時には憎んだり、するんだ。きっと。
だけど。

それでも私は、信じるよ。ダークがリリーのためを思って、身を引いてくれたんだって。
あなたはそれほど、優しい先輩でした。
ああ、焦がれるこの思いは    一体、どうして発散すればいい。

一曲を辛うじて踊り終えたあと、レジーナは僕を置いてすぐさまどこかへ行ってしまった。ああ、分かってたよ。想像してたさ、こんな結末になるくらい。パーティが始まる前からレジーナは僕の前で平気でレイブンクローの七年生がかっこいいだの、あろうことかシリウスが来られないなんて信じられない、華がないなんて言ってのけた。でもと一緒だから、シリウスはそんなにがっかりしてなかったよ。無意識のうちにそうした嘘をつくと、レジーナは疎ましげに顔をしかめてこう捲くし立てた。分かってるわよ、シリウスとが付き合ってるって!誰も割り込もうなんて思ってないわよ、でもみんな楽しみにしてたんだから、シリウスの正装!華やかなパーティにはそれこそ華が必要でしょう    
分かってる?分かってるんだろう。シリウスには、がいるって。それなのに、僕というパートナーがいるのに口にするのは相手がいるシリウスのことだけだなんて。傷付かないとでも思っているのだろうか?ひょっとして、僕が男だということに気付いていないのだろうか?
ああ、自分の空しい嘘に、ますます惨めな思いばかりが募っていく。

日本に行きたいと、シリウスが言い出したらしい。次の夏にみんなに来てほしい、歓迎するからとが言っている。僕は耐えられるだろうか?どうせ二人は……ああ、想像するだけで胃が捩れそうだ。

レジーナに振られたあと、大広間を抜け出すのは簡単だった。スターキーの歌とそれぞれのパートナーに酔い痴れて、誰もが自分たちの世界に浸りきってしまっている。生徒がひとり抜け出したところで、気に留める者は誰もいない。
帰ろうか、どうしようか。今戻っても……ああ、グリフィンドール寮にはあの二人しかいないだろう。二人きりの空間を邪魔してしまえばいい。けれどもこんなにも早く、たったひとりで帰ってくるなんて    そんな惨めな姿を、あいつの前に晒してたまるものか。

僕はしばらく城内をふらふらと彷徨ったが、壁にかかった絵画がしきりに話しかけてきたり、からかってきたりしたのでとうとう耐え切れなくなって寮に戻った。恐る恐る踏み込んだ空っぽの談話室にはかすかにご馳走の匂いが残っていて、あの二人がパーティの豪華な夕食をここで取ったのだろうということが想像できる。二人はいない……つまり、勝手に寮を抜け出したのでなければ、部屋に上がって、きっと今頃……。
少し、覗いてもいいだろうか。そうだ、あそこはシリウスだけじゃない、僕の部屋でもある。自分の部屋に好きな時間に戻って何が悪い。いつだって気を利かせるルームメートだなんて期待はしないでほしいものだ。僕がどんな思いであいつのベッドを見るか、どうせ知らないんだろう。たとえ知っていたとしても、気にも留めないんだろう。あいつはそういう男だ。自分にとって大切(、、)なもの    それ以外の何が、傷付いたとしても。

ゆっくりと、慎重に。足音を忍ばせて階段を上がる。ほんの少し、少しだけ。僕は自分の部屋に戻るだけなんだ。
声は、聞こえなかった。眠っているのかもしれない。だが、心を決めて少しだけドアノブを回したところで、僕はここ数年ホグワーツで流行している耳塞ぎの呪文というものの存在を思い出した。一瞬にして身体中の血が沸き立つようで、思わずノブを放してしまったが    あれだけの声をあげていれば、聞こえなかったろう。僕は自分の好奇心をこれ以上ないほどに呪いながら、急いで階段を駆け下りて談話室を横切り、太った婦人の肖像を飛び出してあてもなく走り続けた。何をしているんだ、僕は。分かっていたはずだろう。あの二人がそういう(、、、、)関係だって、まさか知らなかったわけじゃないだろう?

だが、思いもしなかった。彼女は    あんなふうに、鳴くんだ。縋って、善がって、あいつの腕に抱かれながら。

友達だと思っていたのに。掛け替えのない、仲間。それなのに、こんなにもあっさりと。

憧れていた。崇拝といっていいかもしれない。一目見て、単純にかっこいい。頭が良い、運動神経も優れていて箒を自在に操ってみせる。けれどもクィディッチで選抜チームに志願することはなく、何度かセオドアやオーセリーに誘われても「練習なんてめんどくさい」の一言で一蹴していた。いつもレイブンクローのきれいな上級生と付き合って……退屈そうにソファに座っているだけなのに、ただそれだけのことでいとも容易く女の子の視線を集めてみせる。憧れていた。ほんの少しでいい……彼の足元にだって、近付くことができたなら。
何がいけなかったのだろう。僕がを好きになったことか、シリウスがを好きになったことか、それともがシリウスを好きになったことか。いずれにしても僕は    ただでさえ常に劣等感と板挟みになっていたというのに、純粋にシリウスに憧れるにはあまりにのことを好きになりすぎていた。
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(08.10.05)