「……君たち、バカだろ?」
事態を知ったジェームズの第一声はそれだった。地図がない、シリウスとがいないということで二人がどこかに出かけたのだろうということは予想していたジェームズだったが、さすがにロンドンまで行っているとは思いもよらなかったらしい。はあのあと大広間に行く気になれなかったので、シリウスと一緒に厨房でもらってきたサンドイッチを彼らの部屋で頬張っていたが、どうにも食欲が湧いてこなかった。
「うっせぇ!んなこと分かってるよ、いちいち言うな」
「ばーかばーかぶわぁーーーーか!」
「やめてよジェームズ。私が悪いんだから……」
友人を強烈な蔑視の眼差しで見ていたジェームズが、そのまんまの表情でこちらを向く。はとてもその目を見返すことができなかったので、自分の歯型がついた手元のサンドイッチを見下ろして口を噤んだ。
「まったく、もだよ。いくらこいつに唆されたってロンドンまで飛んでくなんて何考えてるんだ?そりゃリンドバーグの顔見たいっていうのは分からないでもないけど、それで楽しみにしてたダンスパーティに行けなくなるなんてどうしようもないじゃないか!マダムもおかしい、こいつに甘すぎだ!」
「唆されたとか……やめてよ。シリウスは、フィディアスに会いたがってる私のためにロンドン行こうって……私がそれに乗っちゃったから……」
「全部俺が悪い。俺が全部考えたんだ」
「こんなところで庇い合っても仕方ないだろう?」
自分のベッドに横たわってジェームズのクィディッチ雑誌を読んでいたリーマスが、嘆息混じりに言ってきた。とシリウスはさらに自分の非を主張しようとしていた口を閉ざして項垂れる。リーマスはもうひとつ息をついて徐に上半身を起こした。
「ジェームズの言う通りだよ。せっかくドレスローブまで準備して……シリウス、と行けるのすごく楽しみにしてたじゃないか。君たちがリンドバーグを慕ってるのはよく分かったよ。でもね、、それって今日じゃないといけなかったの?実体が掴めないといっても、生死を危惧されるような呪いじゃないんだろう?一刻を争うような問題じゃないのに、ホグワーツを抜け出してまで会いに行くなんて……君たちもう少し、周りを見たほうがいいよ。ちょっと、盲目的になりすぎてるんじゃない?」
身体の奥を焼き尽くすような激しい羞恥に襲われ、は耳まで真っ赤になって下を向いた。リーマスの指摘はあまりに的を射ており、返す言葉もない。シリウスのことが大好きで、シリウスが自分のことを愛してくれているという自信に舞い上がり、驕り、そして何も見えなくなってしまっていた。ああ、こんな私を見たら、フィディアスはなんと言うだろう。
リーマスのきわめて辛辣な発言にジェームズとピーターはぽかんと口を開け、と同様に図星を突かれて赤面したシリウスはその目に今にも暴れ出しそうな危険な色を光らせたが、それが暴発する前にベッドを飛び降りてそのまま荒々しく部屋を出て行った。
「わーお、ムーニーてきびしーい」
「……いつかは誰かが言わなきゃならなかっただろ」
茶化すようなジェームズの声に答えて、リーマスはばつの悪い顔をしているのほうに向きなおった。
「君たちの付き合い方を批判してるわけじゃないんだよ。誰もが羨むカップルだと僕も思うし、シリウスにとっての君のあり方だとか、君にとってのシリウスのあり方だとか……僕にはよく分からないけど、でも理想的なんじゃないかと思うよ。だけど、シリウスはもう『大人』だし、君も、僕もジェームズもピーターも……みんなじきにそうになるんだ。周りに気を配れるような……そういう余裕をもった付き合い方も……いずれは覚えていかなくちゃいけないんじゃないかと……そんなふうに、思ったんだ。お節介かもしれないけど」
「……ううん。なんか……当たりすぎててびっくりしちゃって。言ってくれて、ありがとう。そうだね、私たち……もっと、『大人』にならなきゃいけないのかも。かも?ううん、ならなきゃ……こんなことで、いろんな人に迷惑かけるなんて……」
「ほんとほんと。友人として、これから君たちのこと二十四時間監視しなきゃいけないなんて御免だからね!君たちがあーんなことやこーんなことやってイチャイチャしてる間もずーっと……」
「やっ、やめてよジェームズ!!」
「ハハ、冗談だよ。だけどもう一度同じことがあったらさすがの僕も二十四時間体制で監視に臨むから覚悟しておきたまえ。君のエッチな声とかあいつの興奮した声とかからも逃れられず……」
「わーわーわーそういうこと言うのやめて!!もう一度同じこと、は……ないよ。それは絶対、ない」
尻すぼみに言ったの頭を、近付いてきたジェームズの手が無遠慮にクシャクシャと撫でた。
「よしよし、分かればいいんだよ分かれば。ま、仕方ないから明日はあいつとおとなしくしてなさい。そろそろ迎えに行ってやったら?」
「うん……ジェームズ、地図貸して」
「はいはい、どうぞ」
受け取った地図に杖を当ててが呪文を唱えるのを、ジェームズは嬉しそうににやにや笑って見ていた。
『シリウス・ブラック』
。
RESOLVE TO BE 1
夢
「あの……先生。です、お邪魔してもよろしいですか?」
扉の向こうから返事が返ってくるまで、いつもの倍以上はかかったと思う。ようやく、声だけではっきりと分かるほど不機嫌そうなマクゴナガルの「お入りなさい」が聞こえてくる。は深く吸った息をゆっくり吐き出してから、強張った右手でドアの取っ手を引いた。
いつもは生徒が立ち入ると仕事の手を休めて顔を上げるマクゴナガルだったが、今日ばかりは机の上に山と積まれた書類に羽根ペンを走らせたままちらりともこちらを見ない。はしばらくドアの前に突っ立っていたが、やがて寮監のデスクのほうに近付いておずおずと口を開いた。
「先生……あの、どうしてもお話したいことがあって。話しても構いませんか?」
徹底的に無視することを決めたのか
と思い始めた頃、マクゴナガルがやっと手を止めて、心底気だるそうに眼鏡の上からゆっくりとこちらを見上げた。寮監のこんなにも冷ややかな眼差しを見たことはない。それだけのことをしてしまったのだという思いが次から次へと溢れてきた。
「私……確かに昨日、ロンドンに行きました。どうしても、フィディアスの顔が見たくて……」
マクゴナガルは聞こえよがしに大きくため息をつき、肩を怒らせて腕を組んだ。
「私はあのときはっきりと言いましたね。ホグワーツの敷地外に出ることは禁止されている、リンドバーグに関して何か進展があれば必ずあなたに伝えますと。その上でホグワーツを抜け出して会いに行く、それだけの理由があったわけですか」
その言葉の端々から、はっきりと失望の音がにじみ出ている。はじくじくと痛む心臓を押さえつけながら消え入りそうな声で呟いた。
「……すみませんでした。でも……自分の気持ちを、確かめたくて」
不機嫌そうにマクゴナガルの眉が動いたが、興味は覚えたらしい。無言の一睨みでその先を促されているように思えたので、は戸惑いながらも言葉を続けた。そもそもこの部屋を訪れたのは、ただ平謝りするためだけではない。
「……先生から『例のあの人』が本当に存在するって聞いてから、ずっと考えてたんです。何でフィディアスがあんな目に遭わなきゃいけなかったのか、半年も経つのに何で魔法省は犯人を捕まえられないんだって。それで私、思ったんです。今のオーラーがそんな暴挙に出てる『あの人』たちを抑えられないんだったら
私が捕まえるしか、ないんじゃないかって」
マクゴナガルのビーズのような目が、不意を衝かれて大きく丸くなった。思わず両手を広げて訴えかけるように、
「でも……そのときはまだ、自分の気持ちがよく分からなくて。ほんとにオーラーになりたいのか……たとえ犯人を見つけて捕まえても、それで復讐できるわけじゃ
」
「復讐!、滅多なことを言うものではありません!復讐を企むような人間はオーラーになることなど決してできません」
「分かります……分かります、先生。ちょっと思っただけです……犯人を捕まえたって、復讐ができるわけじゃない。できたところでそれでフィディアスが目を覚ますわけじゃ……。それで私、どうしてもフィディアスの顔を見たくなって。彼の顔を見たら、分かるかもしれないと思ったんです。彼のために、私は何ができるのか。彼のために、自分が一体何をしたいのか」
こちらを見つめるマクゴナガルの唇は、彼女の口から「復讐」という言葉が出たときからずっとわなわな震えていた。一度、視線を足元に落として無音の深呼吸を挟んだあと
再び顔を上げて、告げる。
「先生、私、ヒーラーになりたいです」
ぽかん、と口を開けた寮監の顔はなかなか見物だったけれども、はもはや臆することなく先を続けた。
「今はまだ、フィディアスのために何もできなくて……犯人が憎いです、この手で捕まえてやりたいです。でもフィディアスがああいう状態でいる限り……回復の可能性はあると思うんです。たとえ今の聖マンゴのヒーラーに治せなくても、フィディアスは今も生きてるんです。だったら私が
復讐するよりも先にできることがあるって、昨日フィディアスに会いに行って……気付いたんです。先生、私はヒーラーになります。ヒーラーになって……フィディアスにかけられた呪いを、解いてみせます」
大きく見開かれたマクゴナガルの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちるのを見た。突然の事態に狼狽えるの目の前で、タータンチェックのハンカチを取り出したマクゴナガルが顔を覆ってワッと泣き出す。そ、そんなに感動的なことを言ったろうか?マクゴナガルはそのハンカチで思い切り洟をかんでからようやく喋りだしたが、泣き顔を隠そうとしているのか目線は下ろしたままだった。
「ええ、あなたのお母様とフィディアスは……とても、親しい間柄でした。ちょうどあなたとポッターのような……お母様があなたのその決心を知れば、さぞお喜びになられるでしょう。誇りに思われるでしょう。ですが同時に、本当にそれでよいのですか?あなたの未来はあなたのものです。それを、恩師といえども他人のフィディアスに捧げることに……あなたはそれで、後悔しませんか?」
ようやく顔を上げたマクゴナガルの潤んだ瞳がを捉える。はしばらく思考を巡らせたあと
静かに微笑んで、頷いた。
「はい。私はこの国で、癒療の道を目指します」
「……分かりました。あなたが癒者になれるよう……私も、全力でサポートします。もう二年を切りましたが、ひとまずNEWT試験を目指して精一杯取り組みましょう。ヒーラーは、非常に過酷な道のりです。辛抱できますか?」
「はい。よろしく
お願いします」
深々と頭を下げたが顔を上げたときにはマクゴナガルはもうハンカチを仕舞っていたが、いつものあの毅然とした態度を取り繕うとして、見事にそれに失敗していた。
「分かりました……ですが、あなた方が規則を破って無断外出したという事実はあります。一体どうやって聖マンゴまで行ったのですか?」
「先生、それは……こっそりホグズミードまで出て、それで……あるお店の暖炉を、勝手に借りたんです。だから……お店に迷惑をかけられないので……お願いです、罰則でも何でも喜んで受けますから……お願いです、それだけは……」
極限まで頭を下げて、懇願する。マクゴナガルは小さく洟をすすったあと、フンと鼻を鳴らしてまた腕を組んだ。
「二度とこのような真似をしないと誓えますか?」
「……はい、誓います。退学をかけてもいいです、二度としません」
「
いいでしょう、信じます。二度と私を失望させないでください、」
は心から頷いた。厳格な、けれども本当は心根の優しい寮監を自分の至らなさで傷つけたくはなかった。
「浅はかでした。あまりに身勝手でした、子供でした……こんなことは、二度と」
「よろしい。では、ブラックにも話があります。彼を呼んできてください」
シ、シリウス?みんなが夕方からのダンスパーティに向けて浮き足立っている中、おとなしく寮にこもってはいるはずだが……。
「あ、あの、先生……シリウスは、私についてきてくれただけなんです。だから、その……彼のことは、責めないでやってください、お願いです。私がわがままだったんです」
するとマクゴナガルは四角い眼鏡の向こうできらりと鋭い眼光を放った。
「、あなたとブラックがいかに信頼しあった間柄かということは夏の一件でよく分かりました。ですが信頼や愛と、何もかも庇おうとする姿勢とはまったく別のものです。城を抜け出したのはあなただけではないでしょう。寮監として、私からブラックにも話しておきたいことがあります。すぐにブラックを呼んできなさい」
「……はい、分かりました。でも昨日彼が嘘をついて、あんな言い方をしてしまったのは……私と、暖炉を使わせてもらったお店を庇うためで……それだけはどうか、ご理解ください……失礼します……」
マクゴナガルが言っていることはきっと、昨日リーマスが言っていたことと同じことで。それでも庇ってしまう自分がほんの少し情けなかったが、はそれだけを言って寮監のオフィスをあとにした。
リーマスは時に鋭い指摘を突きつけてくることがあるが、あんなにも辛辣だったことは俺が記憶している限り一度もない。なぜかふと、遠い昔に彼女がリーマスを好きだったことを思い出してひどく胸が掻き乱された。あいつの初恋はリーマスで、あいつは俺と違って『周り』を見ることができる。むしろ見すぎるくらいだ。自分を守るには、そうするより外にないと
。
「だーれだ」
「っわ!?」
いきなり後ろから何かに体当たりされて、シリウスはそのままバルコニーの手すりに倒れ込んだ。体当たりされたと思ったのは誰かが勢いよくしがみついてきたからで、脇の下を通って胸の前に回された二本の腕が甘く交錯して拘束する。首だけで振り向いて見下ろすと、バルコニーの天井についたランプに照らされてオレンジ色に染まったが、その手に持っていたグリフィンドールカラーのマフラーをこちらの首にかけてきた。
「寒いでしょう、シリウスのコートも持ってきたよ。はい」
言いながら、さらに腕にかけた黒いコートも広げてこちらの肩に載せようとしてくる。その顔は穏やかに微笑んで、先ほどのリーマスの言葉など気にも留めていない様子だった。
ああ、いつまでも子供なのは俺だけで、誰もが『大人』になっていく……。
「お前だって寒いだろ。早く部屋に戻れよ」
「シリウスが帰るんだったら私も帰るよ」
がそう言って笑ったので、シリウスは肩に載せられたコートの端を持ち上げて、中に彼女の細身を招き入れた。肩を抱き寄せて、その頭にそっと口付けを落とす。使っているシャンプーのものか
彼女の髪の匂いはいつも、胸の奥のくすぐったい部分に触れるような感覚だった。
まるで他人事のようにのんびりした口調で、言ってくる。
「リーマスの、痛かったねー」
そのわりにはちっとも痛くなさそうだが。しくしくしているのは、本当は俺だけなんじゃないか?
そんなこちらの胸中を察したのか、少し身体を離してが窺うように見上げてくる。小柄な彼女がまともに自分と目を合わせれば、上目遣いになるのは必至だった。もちろんそれも可愛いのだけれど、だからこそ容易に上下を逆転できる体位はなおさら興奮を掻き立てるのだ。
「シリウス……ごめんね。楽しみにしてたパーティ、行けなくなっちゃって」
どうしてお前が謝るんだよ。いつだってそうだ。俺が引っ張っておきながら、最後に頭を下げるのは引っ張られたほうの人間なのだ。
「……お前のせいじゃないだろ。俺が無理に連れてったんだ」
「違うよ。だって……シリウスがロンドン行こうって言い出したのは、私のためでしょう?シリウスが思い切ってくれるから、私だっていろいろ動けるんだよ。だから、感謝してるの。ロンドンまで行っちゃったのは……さすがにやりすぎだったけどね」
彼女はそう言って、ばつの悪い顔でぺろりと舌を出した。あー、いちいちやることが可愛いんだよな。はそれを自然と、嫌味なくできる女だった。彼女はまるで計算というものを知らない。
だからこそ、その発言もまた唐突だった。
「あのね、私、ヒーラーになる」
えっ?ヒーラー?ってひょっとして、癒者?この夏、が帰国している間、聖マンゴに通い詰めて否というほど見てきた。杖と骨がクロスした紋章を胸につけ、ライム色のローブを着て
院内をせっせと動き回っている。だがフィディアスの入院している隔離病棟はひっそりと静まり返り、ときどき現れるヒーラーは最低限の身の回りの世話だけをしてすぐにどこかへ消えてしまった。諦めている
彼らはフィディアスのことを、とうに見放しているのだ。治りはしないと。生ける屍に過ぎない。それでも、自分にはただ見守るしかできることがなかった。
はしっかりした目でこちらを見上げたまま、小さく微笑んでみせる。
「フィディアスのために何ができるか、ずっと考えてたの。それでしばらくもやもやしてたんだけど……フィディアスの顔見たら、思い切れた。また元気なフィディアスに会いたいって
だから私、ヒーラーになる。決められたのは、シリウスがロンドンまで連れてってくれたお陰だよ。ありがと」
そう言った彼女の笑顔はとても清々しかったけれど
俺は何を言えばいいのか、分からなかった。どんなに元気な素振りを見せても彼女がフィディアスのことでずっと思い悩んでいることは分かっていた。だが彼女がそんなにも大きなことを考えていたなんて……ヒーラーになると。フィディアスのために。俺だってリンドバーグのことは好きだ。家族のことを話してくれたとき、これまで教師には感じたことのない親しみを覚えたことも事実だ。フィディアスはの母親の友人だったというし、彼女が自分の知らない母を知るリンドバーグにどんなに興味を持ったか分からない。それでも
彼のために、そこまで?
そして、歩む道を決めた彼女がどんどん先に行ってしまうような気がして。そのことが何よりも、恐ろしかった。
「シリウス……大丈夫?」
ああ、心を決めたはずの彼女の顔を曇らせているのは。自分の頬に伸ばされた冷たい手を握り締めて、己のふがいなさにきつく瞼を閉じた。
「……ごめん。ほんと俺、情けねぇ」
「な、なんで?」
きょとんと目を開いたの表情はまるでなにかの小動物のようだ。変わらないな。どんなに大人びても彼女は出逢ったあの頃のままで、だが決定的にあの頃とは違うのだ。俺はどうだ?彼女の言うように本当に、少しずつでも……『大人』に近付いているのか?
「が、どっか遠くに行っちまうみたいな感じがして……なんか……ごめん……」
ああああ、俺ってバカだ!どうしようもない!何でこんなこと言っちまうかなー!!言われたは少し困った顔で笑い、こちらの首に伸ばした腕を回してぎゅっと抱き締めた。
「私、ちゃんとここにいるよ」
どうということのない、彼女の一言。当たり前の事実を、口に出して言ったに過ぎない。だがそれが今のシリウスには他のどんな言葉よりも熱く、燃え盛る胸を焦がした。だらりと落としていた両腕を持ち上げて
背伸びした彼女の身体を強く引き寄せる。肩に引っかかった厚いコートがそのまま下に滑り落ちたが、構わず身をうずめるようにしての小さな身体を抱き締めた。
「うん……ごめん、やっぱり俺、まだまだ子供みたい」
涙声でうめくと、が小さく笑う息遣いが寒気に晒された左の耳に触れる。くすぐったさに思わず息を吐いて、シリウスはそれをごまかすように指先に流れてきた彼女の髪を撫でた。
「焦らなくていいよ。私だって、無理して決めたわけじゃないもん。シリウスもいつか、自然とこうなりたいってものが見つかると思うよ。心配しないで」
本当は焦りだけが膨らんで、どうしようもなく不安になって……目に見えない大きな闇に、押し潰されそうになるときがある。俺だけがひとり、置いていかれているような気がして。けれどもそんな得体の知れない不安でさえ、の笑顔を見ているだけで
彼女の鼓動、肌の温もりを感じることで、ずっと和らいでいく。もう決して離れられない、無二の存在だった。
優しく笑って見上げてくるその前髪を軽く掻き分け、覗いた額にキスをする。
「ありがとう。お前がヒーラーになるの……応援してるから」
「ほんと?嬉しい、ねえ、授業で分かんないことあったら教えてね!ヒーラーってNEWTの主要科目で全部『E』以上とらなきゃいけないんだって。頑張って勉強しなきゃ!」
「頑張るのはいいけど、身体だけは壊すなよな?お前はもう十分頑張ってるんだからさ」
「十分じゃないよ!もっと頑張らなきゃ、だって人の命を預かる仕事だもん。一生懸命やる!だから、分かんないとこあったら手伝ってね」
「うん、分かった」
人の命を預かる仕事、か。擦り寄ってくる彼女の後頭部に手を回して、反芻する。聖マンゴのヒーラー。癒す者。
とまれ。
頑張り屋の彼女が倒れないように、これからはもっと目を光らせなければならない
何をおいてもシリウスが真っ先に決心したのはそのことだった。