玄関ホールに続く石の階段の下。同じように冷たく広がる石の壁に軽く背中を預けて、シリウスは振り向き様にニヤッと笑ってみせた。
「おかえり。ワットは置いてきたのかよ」
「……知ってたの?」
「夕食の時間にお前とワットがいなけりゃ、まー想像はできる」
本当は、授業のあと地図でずっとの位置を確認していたのだが。彼女がワットと一緒に談話室を出て、スラッグホーンの部屋に向かう様子を見ているときには、ワットのやつ帰ってきたらぶっ殺してやるとかなり本気で思っていた。まあ、二人一緒にいちゃいちゃしながら戻ってきたわけではないのでよしとするか(そもそも彼女を怒らせたのは俺だし、ワットならまだマシなほうだしな!)。
ゆっくりとこちらに歩み寄ってきたの顔は物憂げで、まだ授業中のことを怒っているのかと思った。ごめん、俺ほんとに反省してるんだ、今日相殺された分の点数は休み明けに絶対取り返すからさ!もうああいうこともしないし!と準備してきた台詞を口に出そうとしたところで、はまるで倒れ込むようにこちらの胸にしがみついてきた。この状況でそれは予想していなかったので、思わず上ずった声をあげながら反射的に周囲を見回す。誰もいない地下の冷え冷えした空間の中で、シリウスはようやくの背中に手を回して抱き寄せた。
「……どうした?」
「……もうやだ。やだ、やだやだ……もう何にも信じたくない。何がほんとか分かんないよ……もう、何にも聞きたくない」
「?どうしたんだよ。なあ、何があった?」
俯くの顎に手を添えて、そっと上を向かせる。こちらの顔を見上げる彼女の瞳は塞ぎ込んだ涙で潤んでいた。それは、あのときと同じ……。
「……何があった?もう何も、聞きたくないんだろう?だったら話して。俺に、何でも話してくれ。お前の話だったら何でも、いくらでも聞くから」
ゆっくりと瞬きした彼女の瞳から、一筋だけ大粒の涙がこぼれ落ちる。上からその瞼にそっと口付けて宥めてから、シリウスはひとまず彼女の背中を抱いて目の前の石段を上った。
through the Secret Passage
ホグズミードへ
は悩みに悩んだ挙げ句、ついに寮監のオフィスを訪れた。マクゴナガルは整理していたらしい書類の山をデスクの脇に寄せ、訝しげに眉をひそめながらこちらを見る。滅多に自分の部屋にやって来ることのない生徒が、しかも休暇中に現れたのだから無理もない。はおずおずとデスクの前に立って、ようやく口を開いた。
「先生、折り入ってお願いしたいことがあるんですが」
「お願い?」
ぴくりと神経質そうに片眉を動かして、マクゴナガル。は切り出し方を間違えたかもしれないと思ったが、今さら引き返せないので潔くその先を続けた。
「あの、今年はダンスパーティもありますし、休暇中ホグワーツに残るって申告したと思うんですけど……でも、やっぱりその、フィディアスが……ええと、リンドバーグさんのことが心配でたまらないので……一日でいいんです。ロンドンに行かせてもらえませんか?できれば煙突飛行とか使いたいんですけど……も、もしお許しいただけたら……」
「いけません」
マクゴナガルの返答は素早かった。ぴしゃりと、有無を言わせぬ強さで切り捨てる。が衝撃を受けた顔のままで固まっていると、マクゴナガルは急に表情を和らげて言い直してきた。
「あなたの気持ちは察します。ですがホグワーツにいる間は、生徒が許可なく敷地の外に出ることは禁止されています。そのことはしっかりと規定してあるはずです。休暇中とてそれは変わりません」
「でも……聖マンゴからも、それに魔法省からも何の進展も知らされないままじゃないですか。様子を見に行きたくて……一日とは言いません、数時間でいいんです。友達にも誰にも言いませんから、少しだけ……」
「二度同じことは言いません、。リンドバーグのことで何か進展があったという情報が入れば、私から必ずあなたに伝えます。今日はもうお帰りなさい」
「……はい」
やっぱりダメだった。肩を落としながら、踵を返しかけて
。
「……先生。ひとつ、お聞きしてもいいですか?」
「何ですか?」
マクゴナガルはすでに書類の整理を再開していたが、小さな眼鏡の上からちらりとこちらを見た。
「フィディアスの事件について……先生方は、一体どこまでご存知なんですか?」
羊皮紙を捲る寮監の手が、はたと止まった。初めからこうすればよかったのだ。何を迷っていたのだろう?
「魔法省からは満足な説明はありませんでした。あのときは、私も混乱してて……でも考えてみたら、分からないことだらけなんです。犯人が捕まるまで、事件の全貌は分からないと思いますけど
でも省は、分かっていることまで隠してたみたいに思えました。何も教えてくれなかったんです。先生はひょっとして……たとえば緑の髑髏のこととか……なにか、ご存知じゃありませんか?」
マクゴナガルは難しい顔をしてしばらく自分の手元を見据えていたが。やがて小さな吐息を鼻から抜き、再び書類を脇に退かして空いたスペースに組んだ両手を置いた。
「隠していても仕方がありませんね。ええ、そうです。あなたが現場で目撃したという髑髏、それはとある闇の魔法使いの印だとされています」
「『名前を言ってはいけないあの人』……ですか?予言者新聞で記事を読んだことがあります。純血が……魔法の血筋が尊いんだって、それでマグルだとか、自分たちに逆らおうとする魔法使いを……傷付けてるって。そういう魔法使いが……本当に、いるんですか?」
何かを振り払うかのように目を閉じて頭を振ったマクゴナガルは、再びその瞼をゆっくりと開いてを見た。
「おっしゃる通りです。あなたがまだホグワーツの存在を知らなかった頃、『例のあの人』は魔法使いによる魔法使いのための社会創設を目指して同志を集め始めました。そのためにはいかなる犠牲も厭わないと……たとえ、誰を傷付けることになったとしても。『あの人』とその支持者は、自分たちの所業の証としてあの印を打ち上げるようになりました。ですからリンドバーグも……『あの人』の支持者に襲われたのではないかと……魔法省は、その線で捜査を進めているのではないかと思われます」
「それじゃあ……本当なんですね?『例のあの人』っていう魔法使いは、本当にいるんですね?」
いくら新聞が書き立てても、スラッグホーンがひどく怯えていたとしても。それらはマクゴナガルの言葉ほどに信用できるものとはいえなかった。
重々しい動作で半分ほど瞼を伏せながら、マクゴナガルが頷く。それだけで、には十分だった。
「どうして……止められないんですか?魔法省は、その人たちを捕まえられないんですか?もう何年も前からずっと……その人たちが、事件を起こしてるわけですよね?」
「彼らは
『あの人』は、とても狡猾な魔法使いです。尻尾を掴むのは並大抵のことではないでしょう。ですが、だからといってそれが省が彼らに対抗できないということではありません。吉報を信じて……待ちましょう」
この件に関して、これ以上この場でマクゴナガルと議論したところで詮無いことだ。彼らを捕らえ、秩序を正すべくは魔法省であってホグワーツではない。
「先生。最後に、もうひとつだけ……」
「何でしょう」
はぎこちなく目線を彷徨わせたあと、覚悟を決めて四角い眼鏡の奥にある寮監の小さな両眼を見返した。
「フィディアスは、私に何か……母のことで、話したいことがあると言っていました。父も知らないことだって……先生、何か心当たりはありませんか?フィディアスが私に、母の何を話したがってたのか」
このときほど、マクゴナガルが嘘の下手な人だと感じたことはない。寮監ははっと目を見開いてから
それを覆い隠すように、右の人差し指でゆっくりと眼鏡を押し上げた。
「いいえ。フィディアスはと……あなたのお母様と学生時代から親しくしていました。あなたのお母様がお父様と出会ったのは彼女が高学年のときだったそうですし、お父様はマグルでしょう?ひょっとしたらあなたと、子供時代の思い出話がしたかったのかもしれませんよ」
マクゴナガルもまた、何かを知っているのではないか。そういえば組み分けをやり直したあのとき、最初の組み分けに疑問を呈したのはダンブルドアだけではなかったはずだ。
「先生、お忙しいところにお邪魔してすみませんでした。失礼します」
程なくして寮監のオフィスを離れ、グリフィンドール塔へと引き返す。誰もが何かを隠している。
けれどもそれがもしかしたら、『大人』になるための条件なのかもしれない。
フィッシャーとスラッグホーンの話を聞かせたあとも、シリウスは『あの人』の存在について半信半疑だった。だがマクゴナガルが確信をもってそのことを示したということが、彼の気持ちをも動かしたらしい。彼女が根拠のないことを気安く口にするような人間ではないということは誰もが信用していたからだ。もうシリウスは『あの人』が本当に
存在するかどうかという議論を一切持ち出さなくなった。その代わりというかなんというか……。
「よし。フィディアスに会いに行こう」
「うっえ?」
じたばたともがく蛙チョコレートを口に放り込んだばかりだったはおかしな声を出してしまい、慌てて口元を押さえつけた。だがシリウスはそんなことはまったく気にならなかったようで、勢いよくベッドから立ち上がって彼女の左手を掴む。は腕を引っ張られてそのまま腰を上げたが、部屋を出る前に精一杯シリウスの腕を引き返して止めた。
「ちょ、ちょっと待って?ダメって言われたんだよ、学校の外に出るの禁止されてるし、煙突飛行も使わせてくれないって」
「分かってるって。あ、ちょっと待って
」
言いながら、シリウスは空いた手でジェームズの枕の下をまさぐった。何かを見つけたのか、ニヤッと笑って鮮やかな手付きでそこから引っ張り出したのは四つ折りにされた何の変哲もない羊皮紙だ。
「何それ?」
「あとでたっぷり見せてやるよ。それより、遅くなる前に行こう。フィディアスに会いたいんだろ?」
「えぇ?行こうってどうするつもり?まさかロンドンまで行くの?煙突飛行も使えないのにどうやって?まさか箒とか言わないよね?何時間かかるか分かんないし、わたし体力持たないよ!」
「いいから俺についてこいって。な?」
わけが分からず首を傾げるのおでこに軽くキスをして、シリウスはその羊皮紙をズボンのポケットに忍ばせた。どぎまぎしている彼女の手を引いて寮の階段を下り、混み合った談話室を横切って廊下に出る。手を繋いで歩くことなんて滅多にないためは戸惑ったが、シリウスがあまりに明確な目的を持って突き進んでいるようだったので黙っておとなしくついていった。
シリウスは五階まで一気に階段を下り、周囲に誰もいないことを確認してから廊下の隅に置かれている大きな鏡の前に立った。
「誰か来ないか見てろよ。ディセンディウム、降下」
シリウスが取り出した杖でその縁を叩くと、鏡は一ヤードほど横にずれ、その後ろからかなり細身の人間ならば通れるくらいの割れ目が現れた。はぽかんと口を開けてその様子を眺めていたが、急いで廊下を端から端まで見渡し、オーケーの合図を出した。
「じゃあ俺が先に入るから、続けてついてこいよ?」
「ねえ、ちょっと待ってよ、この抜け道、一体どこに
」
だが聞き終えないうちにシリウスは穴の中に右足を突っ込み、そのまま身体を捻じ込むようにして割れ目の奥へと姿を消した。ちょっとーー!!
(もう……勝手なんだから)
けれどもどこか心地良いものを感じながら、はもう一度周囲を確認してシリウスと同じように狭い穴の中へと滑り込んでいった。
まるで永遠に続く滑り台を体験しているかのようだった。真っ暗な穴をかなりの距離すべり、ようやくたどり着いた地面に勢いよく尻餅をついて悲鳴をあげる。杖先にルーモス呪文で明かりをつけていたシリウスがしゃがみ込んでの腕を上に引っ張り上げた。
「いーたーいー!もう、何なのよここ!」
見上げると天井はかなり低く、周りは土のトンネルのようだった。きっとシリウスがまともに立ち上がれば頭をしたたかに打ち付けてしまうだろう。
「ここ?隠し通路」
「それは見たら分かるよ。一体どこに繋がってるの?」
「ホグズミード
ホッグズ・ヘッドの、裏の井戸」
ホっ、ホグズミード?ホッグズ・ヘッド?目をぱちくりさせるの目の前で、シリウスは自慢げに鼻を鳴らしてみせた。
「ジェームズたちと見つけた。ホッグズ・ヘッドの裏に、もう涸れてて使われなくなった井戸があるんだ。その中に通じてる」
「……ホッグズ・ヘッドってあの怪しげなパブでしょう?そんなとこに行ってどうするの?」
「そこから三本の箒に行く。あそこからだったら煙突飛行が使えるだろ」
三本の箒?その名前を聞いた途端、真っ先にロスメルタの顔が浮かんできては思わず下を向いた。分かっている。シリウスがあの人をそんなふうに見ているわけじゃないってことははっきりと分かっていた。けれども、こんなときにシリウスが彼女を頼ることを思いついたというのは、にとっては心穏やかならぬことだった。
「……こっち見ろよ」
シリウスは少し怒った声で言った。びくりとして視線を上げると、身を屈めてこちらの顔を覗き込んできたシリウスが眉間にしわを寄せて険悪に目を細める。なにか言おうとして開いた口を荒々しく塞がれ、はそのまま後ろの壁にきつく押し付けられた。ひんやりと湿った土の感触に、ぞくりとした悪寒が広がって身震いする。シリウスの灰色の瞳はもどかしそうにひどく苛立っていた。
「お前、またくだらないこと考えてんだろ」
「そ……そんなこと、ない」
「だったら何でそんな顔するんだよ。フィディアスに会いたくないのか?」
「そ、そんなわけないでしょ!でも……だってシリウスはマダムのお気に入りだし、シリウスだって……何だかんだでマダムのこと、けっこう頼りにしてるじゃない」
あああ、こんなこと言いたいわけじゃないのに。でも、でもでも、言わずにはいられなかった。それでいてシリウスに我慢しろなんて、よくもまあそんな厚かましいことが言えたもんだ!
シリウスはあまりにも厳しい形相でしばらく黙り込んだあと、の両の手首を掴んで後ろの壁に押し当て、慌てふためく彼女の首筋に噛み付くようなキスをした。こんな乱暴なキスは
しかも外から見える位置にされたことがなかったので、混乱して沸き立った頭を必死に振りながら悲鳴をあげる。
「や、やだ、シリウス……いや、お願いやめて!」
「いやだ。俺、どうしていいか分かんない。どうしたらお前が俺の気持ち信じてくれるか分からないから、こうやっていろんなこと試してみるしかないだろ」
「やだ!お願い、ごめん、私が悪かったから……おねがい、やめて……」
最後には、蚊の鳴くような涙声になってしまった。トップのボタンを数個外し、覗いたのデコルテに吸いついていたシリウスがようやく彼女の肌から唇を離して、ゆっくりと顔を上げる。は彼の目を見るのが怖くてきつく瞼を閉じ、弱々しく頭を振った。
「……ごめん。信じてないわけじゃないよ、シリウスが愛してくれてるの……ちゃんと分かってる。でも、シリウスのこと好きで、好きで好きでしょうがないから……ときどき、不安でたまらなくなるの。もしも、って……もしも、もしもシリウスが、他の女の人、好きになっちゃったら……」
ああ、こんなこと言ったらまたシリウスを怒らせてしまうかな。いつまでもうじうじしてる私のこと、嫌いになっちゃうかもしれない。いやだ、そんなの。ずっと、シリウスのそばにいたい。
「あのな……よく考えてみろよ。俺が今から三本の箒に行こうとしてるのは誰のためだ?俺だってフィディアスの様子、見に行きたい。でもそれ以上に俺が一体誰のためにロンドンまで行こうとしてるのか、それを考えろよ。そのためには頼れるものには頼るさ。なのにそのことで疑われるなんてあんまりだ」
「……ごめん。ごめんなさい、シリウス、ごめん……ごめん……」
シリウス……こんなにも言葉を尽くして、体当たりで思いを伝えてくれようとして。それなのにいつも心から、百を信じきることができないのは人の定めかもしれない。愛するが故に、不自由になる。それでも
信じようと努めることは、できるはずだ。目の前のシリウスの首に勢いよくしがみついて、きつく抱き寄せる。
「もういいよ。俺だってあんまりお前のこととやかく言えないしな。乱暴なことして……ごめん」
「ううん……わたしは、へーき」
本当は、痛くて、びっくりして、いつもは優しくしてくれるシリウスがちょっとだけ怖かったけれど。シリウスは打って変わって丁寧な手付きで、外したボタンを一つずつつけなおしてくれた。背中を折って立ち上がり、そっと右手を差し出してくる。
「行こう。きっとフィディアス、寂しがってるぞ」
「うん、行こ!」
その手を握り締めて温もりを確かめながら、は先ほどまでの不安を掻き消すように元気よく頷いてみせた。