「エバンス
ちょっと、いいかな」
マグル学の授業後、足早に教室を出ようとしたところで後ろから呼び止められた。速まる鼓動と、重々しく圧し掛かってくる痛みと。駆け寄ってきたポッターは他のみんながいなくなるのを待ってから、少しばつの悪い顔で視線を上げ、言ってきた。
「ごめん。僕、君の気持ちを考えもせずに。子供みたいに拗ねて、君に嫌な思いをさせたよね……ごめん」
「……気にしてないわ」
気にしていなかったわけ、ない。けれども、そう答えるしかなかった。心もち傷付いた顔をするも、ぎこちなく微笑んで、ポッター。
「うん、そうかもね。君の言う通りだ、僕はどうも自意識が過剰みたい」
「……そんなこと、言ったかしら」
「ううん、とにかく……君に一言謝りたかったんだ。嫌な思いをさせて、ごめんね。お節介かもしれないけど……ダークと、これからも仲良くやってくれ。それじゃあ、僕は先に帰るね」
最後に見せたポッターの笑顔が、いつまでも心に焼き付いて。
泣き出しそうになるのを、リリーは唇を噛み締めることでなんとか耐えた。
Seeing is believing
垣間見えた赤い瞳
「シリウス……話したいことが、あるんだけど」
右手に今朝の予言者新聞を握り締めて、は談話室のソファにのんびりともたれかかるシリウスに声をかけた。まだ無言呪文でうまく物を飛ばせないワットの練習に付き合っていたらしいシリウスは、彼女が話しかけるだけで嬉しそうに顔を綻ばせて振り返る。
「なに?」
「あの……その、ここじゃちょっと。他のとこで話せない?部屋、今日もジェームズがいるの?」
「いや、あいつならさっき出てった。それじゃ、俺の部屋くる?」
「えっ!シリウス、お前冷たいな!これが浮くまで付き合ってくれるって言ったじゃん!」
早々とソファから立ち上がったシリウスの背中にワットが非難めいた声をあげる。シリウスはめんどくさそうに顔をしかめて、テーブルの上に転がったワットの羽根ペン入れを呪文なしに持ち主の顔に容赦なくぶつけた。潰れた悲鳴を発して引っくり返ったワットが吼えるように怒鳴りあげる。
「シリウスお前ほんとにいやなやつだなーーー!!!、飼い犬はちゃんと躾けとけ!!」
「かっ飼い犬?」
飼い犬ってまさか、ワットはアニメーガスのことを知っているのだろうか。はぎょっとして飛び上がったが、男子寮の階段を上がりながらシリウスは「気にすんな。あいつ適当に言ってるだけだから」と暢気に言っただけだった。それならいいんだけど……。
「で
どうした?あらたまって」
空っぽの部屋に入るなり、すぐさま腰を抱き寄せて聞かれたので、はそういう気分になってしまう前にと急いで手元の新聞をシリウスの前に突き出した。四つ折りのそれを一瞥して訝しげに眉をひそめ、シリウス。
「何それ」
「今朝の予言者新聞。これ、見て」
彼はますますわけが分からないといった顔をしたが、受け取った新聞を広げて第一面を見るなり
その顔から、みるみるうちに血の気が引いていくのが分かった。やはりシリウスは、その印を……
そのことを、知っていたのではないか?
「昨日、ブリストルで魔法使いの老夫婦が殺されたって。その現場に……緑の髑髏が上がってたって。私が夏に見た……あの髑髏と、おんなじ。また、イギリスで
髑髏の犠牲者が出たって……『省は翻弄されている』」
は何も言わないシリウスの手から新聞を引き寄せて、蛇を吐く髑髏の写真が載った第一面を捲り、中ほどのページを開いてずらりと並んだ無機質な文字列を指差した。絞り出すようにして、声を出す。
「ここにあの髑髏……『闇の印』って呼ばれてる髑髏のことが出てる。それを使う魔法使いのことも、その人たちのトップにいる闇の魔法使いのことも。『死喰い人』
『名前を言ってはいけないあの人』」
早口に捲くし立てながら顔を上げたが、シリウスは意図的にこちらから視線を外してむっつりと口を噤んでいる。は彼の目線の先に回り込んで問い詰めるように聞いた。
「ねえ……シリウス、知ってたの?聖マンゴで言ってたよね、そういう集団があるって。知ってたんでしょう?この人たちのこと。フィディアスのこともちゃんと載ってるわ
七月にはダイアゴン横丁で、それに先月はカンタベリーで犠牲者が出てるって。ねえ、この人たちがフィディアスを襲ったの?ねえ……何で、教えてくれなかったの?なんで、ロングボトムも……私が何にも知らないと思って黙ってたの?私だって知りたいのに
何でフィディアスがあんな目に遭わなきゃいけなかったのか……私だって知りたいのに!」
「!」
鋭く囁いて、シリウスは唐突に正面からの両肩を掴んだ。驚いて新聞を落とし、思いの外強いその力にはたじろいで目を見開く。シリウスはいつになく真剣な面持ちで少しだけ顔を近付けてきた。それは確かに、あのときの
。
「……言っただろ?俺だってそんな話、信じていいかよく分かんないんだよ。だから不確かな情報をお前に話して混乱させたくなかった」
「でも……だってここに。みんな知ってるって……『例のあの人』はもう、何年も前からずっとこういう事件を起こしてるんでしょう?魔法の血筋が、尊いんだって……それで、これまでにたくさんの人たち……」
「、こっち見ろよ」
胸が潰れそうになるような思いで下を向いたの顔を窺うように覗き込んで、シリウスは厳しく目を細めた。ああ、そうだ。シリウスはこういう顔をするんだった。
「ああ、そういう連中はひょっとしたらほんとにいるのかもしれない。でも、『例のあの人』って何だ?そんな曖昧な名前ばっかりが一人歩きして、そいつの姿を見たやつなんて実際は誰もいないんだ。得体の知れない事件が続いて、みんなその恐怖を何かに擦り付けたかっただけかもしれない。『あの人』っていう強力な魔法使いがいて、それが諸悪の根源だって。そうすりゃ少しは落ち着けるだろ、だってそれだったらこれまでの不可解な事件も全部『あの人』を捕まえれば丸く収まるんだからな」
つらつらとまるで準備でもしていたかのように言ってのけるシリウスを見上げて、呆然と目をひらく。シリウスがそんなことを考えていただなんて、思いつきもしなかった。
「だから俺は、『例のあの人』なんて魔法使いが本当にいるかどうかも疑ってる。それに新聞記事がいつも正しいなんて思うな。所詮は人間の書いたもんだ、そいつの尺度が絶対に入ってる。その記事を書いたやつが『あの人』の存在を信じてるなら、そりゃあそういう記事になるだろ。それだけだ。そんな誰が書いてるかも分かんないような記事、鵜呑みにするなよ」
新聞記事を、信じるな?そりゃあ、それが絶対に正しいなんて私も思っていないけれど。でも端から疑ってかかろうとするシリウスのその頑なな態度には少し違和感を覚えた。
「シリウス、なにかあったの?その……新聞の、ことで」
恐る恐る問いかけると、シリウスは明らかに不機嫌な顔付きで小さく息をついた。さり気なく目を逸らして、
「……昔、魔法使いの血筋のことで予言者新聞が特集かなにかを組んで。純血主義の家はこれでもかってくらい持ち上げて、いわゆる『裏切り者』は虚仮にしまりくだった。ポッター家のことも反吐が出そうなくらいあることないこと書き立てて……その日の新聞は、日が暮れる前には燃やしてやった」
「そ……そう、だったんだ。『裏切り者』って、その……『血を裏切る者』って、こと?」
答える代わりに、さらに力強くの肩を引き寄せてシリウスはしっかりした声で言ってきた。
「俺の言うこと全部信じろなんて言わねーよ。でもそんな誰が書いてるかも分かんないような新聞記事を鵜呑みにするくらいだったら、俺のほう信じて。俺の気持ちだけは……疑わないでほしい。あのとき『あの人』のことを言わなかったのは
お前のことが、大事だったからだ。はっきりしないこと喋ってお前を混乱させるくらいだったら……ロングボトムの報告を待ったほうがいいと思ったんだ。だから」
そう語るシリウスの瞳は、あのときと同じようにどこまでもまっすぐだった。反駁の言葉はいつの間にか潰えて、そのまま目の前の大きな胸の中に飛び込む。その背中にきつく腕を回してしがみつきながら、は嗚咽混じりに囁いた。
「ごめん、シリウス……あなたの気持ち、疑ってたわけじゃないの。でも……ごめんなさい。ありがとう」
何を信じればいいか、分からない。純血主義を掲げる強力な魔法使い、『名前を言ってはいけないあの人』。彼に忠誠を誓う仮面の男たち、『死喰い人』。彼らのシンボル、蛇を吐く緑の髑髏……『闇の印』。
けれども。
何をおいても、こうしていつだってそばにいてくれる、抱きしめてくれるシリウスのことは
いつだって、信じていこうと思えた。
予言者新聞を床に落としたまま、シリウスのベッドで熱く身体を重ね合った。潤んだそのグレイの瞳に見つめられて湿った息を吐くと、身体の奥に届く彼の鼓動がさらに熱を持って疼く。シリウスは熱いものを吐き出してしまったあと、ぐったりした身体で必ず丁寧に口付けをして、優しい手のひらで抱きしめてくれた。この時間が、何よりも大好きで。そっと瞼を開いて見上げると、シリウスはまるで夢見心地な眼差しで幸せそうにこちらを覗き込んでいた。それだけのことで、頭の中が溶けてしまいそうなほどの温もりが広がっていくようで。
その日の予言者新聞には、昨夜ブリストルで殺害された老夫婦の事件と、現場に残されていた『闇の印』、それにまつわるここ数年の怪事件や、それらの犯人と考えられている、とある魔法使いの集団に関する記事が掲載されていた。ある日、まるで降って湧いたかのように忽然と現れた謎の魔法使い
『名前を言ってはいけないあの人』。『言ってはいけない』だけあって、その人物の名前は書かれていなかった。魔法界では名前というものには特別な力が宿ると信じられており、きっとそのことが関係しているのだろう。彼は純粋な魔法の血筋を重んじ、それが現代の鬱結した魔法界の風潮に適合して、次第に支持者の数を増やしていった。けれどもその思想は過激で、彼らはいつからか自分たちの考えに相反する主張を持つ人間たちを『力』で『捻じ伏せ』ようとするようになった
それが現在予言者新聞の描いている、シナリオ。
だがシリウスによると、その実体を目撃した人間は誰ひとりとしていないという。存在しないことを証明するすべはない。けれども信ずるに足る証拠が出ない限り、得体の知れない噂になど振り回されたくないというのがシリウスの考えだった。
(シリウスに乗っかるわけじゃないけど……そうだよね。噂なんて当てにならないってホグワーツでさんざん思い知らされてきたじゃない?)
思い出されたのは、もちろんあのお節介なハッフルパフ生のことだった。そういえば彼女は、魔法省に就職したのだっけ?箒とか絨毯とか煙突飛行とか、そういった交通関係だと言っていた。きっと省でもバーサ節が炸裂しているんだろうな。それこそお節介かもしれないが、あーあ、いつまで持つやら。省にいるならひょっとして……闇祓いから、なにか捜査の状況でも聞きだしてくれないだろうか。そんなことを考えながらふと視線を上げると、こちらの頭を抱いたシリウスがいつの間にかすやすやと眠り込んでいたので、も重たい瞼を閉じて襲いくる睡魔に意識を譲り渡した。そういえばフィディアスの初めての授業は、『睡魔』……サンドマン、だったっけ……。
ゆらゆら、ゆれる、やみのむこうには……。
「
!」
少し強く肩を揺さぶられて、ははっと目を開いた。すぐ目の前にシリウスの顔があって、ひどく当惑した様子でこちらを覗き込んでいる。は一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。ああ、そっか。シリウスたちの部屋。
「……シリウス。どうした、の?」
「どうしたってお前……相当うなされてたぞ。怖い夢でも見たのか?」
そう言っての頬を撫でるシリウスの指先は、いつもよりずっと優しい。まるで自分が触れることで彼女が壊れてしまうとでも言わんばかりに。
「……ごめん。なんでも、ないの」
「ほんとかよ?なんかすごい声出してた」
「すっ、すごい声?……へ、変な、こえ?」
「いや、なんていうか……その……うん、すごかった」
「それ説明になってない」
やだ、やだやだひょっとして寝言でエッチな声とか出してたらめちゃくちゃ恥ずかしいんだけど!
「ほんとに大丈夫か?顔色もちょっと悪い。ひょっとして……今日、気分じゃなかった?」
心配そうに、気まずそうに聞いてきたシリウスには慌ててかぶりを振った。
「ううん、そうじゃないの。そういうわけじゃなくって……うん、なんか変な夢、見ちゃった気がする」
「どんな?」
「……覚えて、ないよ」
しばらく目を閉じてそれを思い出そうとしたが、何も浮かんではこなかった。
いや、たった一つ、脳裏を掠めたのは。
「……赤」
「うん?」
「赤い、目。赤い目が、ふたつ」
「なんだそれ。ウサギ?」
「そんな可愛いもんじゃなかった気がするけど」
だめ。やっぱりこれ以上、思い出せない。きつく瞼を閉じて押し黙ったの唇にそっとキスをして、シリウスは撫でるように言った。
「無理して思い出さなくていい。たかが夢だろ、すぐ忘れるって」
「うん……でもなんか、押し潰されそう、だった」
思わずぽろりとこぼすと、シリウスはゆったりと腕を回して包み込むように抱き締めてくれた。シリウスの匂い。優しい、熱。身体中すべてで、愛してくれる。
「疲れてるんじゃないか?お前、いっつも頑張りすぎるんだよ」
「そんなことないよ。リリーなんか私やニースより早起きして勉強してたりするんだよ?その上、監督生の仕事もあるでしょ?心配なのはリリーのほうだよ」
「それはお前じゃなくてダークが心配すればいい。お前はもっと自分の身体を大事にしろ」
シリウスの、言葉のひとつひとつが愛しくて。その細長い指先で、優しくこの肌に触れられるたびに涙が溢れ出しそうになって。
けれども突然思い出された友人のことが心配で、はちらりと視線を巡らせて空っぽのジェームズのベッドを見た。シリウスもそのことには気が付いただろうが、とりたてて何か言ってくることはなかった。