ひとりでマグル学の教室に向かいながら、ジェームズは深々とため息をついた。
エバンスをダンスパーティに誘ってから、すでに一ヶ月が経過していた。週に二回、ごくごく少人数のクラスで顔を合わせるというのに彼女はイエスともノーともなかなか言ってくれない。勇気を振り絞って話しかけると、まるで何事もなかったかのような反応を返してくる。ひょっとして忘れられているのでは?という危惧を何度も抱いたけれども、は彼女が僕の誘いのことをずっと考えてくれているというので、それを信じてここまできたのだ。だが一週間ほど前から、肝心のさえまるで僕を避けるようになった。なんで?どうして?僕が一体何をした?
(あいつもさり気なく聞いてくれればいいものを……ほんとに友達甲斐のないやつだ)
クリスマスのダンスパーティ、そしてハロウィンのホグズミードを愛すると過ごせることになった相棒の幸せそうな顔を思い出して、小さく舌打ちする。ああ、掛け替えのない親友二人が実に幸せそうなのは僕にとっても嬉しいさ。嬉しいけれどもだからって悩める友人をこんなふうに惨めに放っておけるなんて!浮き足立ったお前の脳内はバタービールよりも弾けて周りのことなんてまるで見えないんだろう!シリウスはホグズミードのマダム・フレーザーでにぴったりのドレスローブを買ってやるんだと意気込んでいた。そーかい、せいぜい頑張ってくれたまえよ。こんなときだけはお偉い家に育ってそれなりにセンスが磨かれていることに感謝するんだな、なんて口には出さなかったけれど。
マグル学の教室にはすでに他の寮の生徒たちが来ていたけれど、エバンスだけはまだだった。ああ、そうか。さっきの変身術でマクゴナガルのところになにか聞きに行ってたな。顔見知りの同級生たちににこやかに挨拶だけしてから、ジェームズは窓際の席に座った。暗黙の定位置。エバンスはいつも、ここからよく見えるもう少し前の座席に着くのが常だった。
それからしばらくして、エバンスがやって来た。少し息を切らせながら教室を見回して、先生がまだなのを見てホッとしている。すぐ横の壁に背中を預けてゆったりとその様子を眺めていたジェームズは、いつものように彼女がこちら側に近付いてくるのを見て、さり気なく目を逸らした。
そう、エバンスはいつものように僕のそばを通って
通り過ぎて。
「ポッター」
声をかけようかどうしようか迷っていると、彼女のほうから話しかけてきてジェームズは仰天した。思わず椅子の上からずり落ちそうになるのを、椅子の背を掴んで踏みとどまる。こちらが何か言おうとするよりも先に、エバンスは少し声を落として言ってきた。
「後であなたに話があるの。授業が終わったら、申し訳ないけど残ってくれないかしら?」
「え?あ、うん……わ、分かった」
うわああああああ!ついに!!疑ったりしてごめんよ!!
込み上げてくる笑いを抑えきれず、にたにたと笑いながらジェームズはエバンスの後ろ姿を熱っぽく見つめた。ああ、彼女と一緒にダンスパーティに行けるのならばが一週間くらい僕に冷たく当たったって気にならないさそんなこと!ありがとう!きっと君がいろいろ諭してくれたんだよね?あああ、ありがとう!やっぱり君は最高の友達だ!
彼女がいつもの席に座るのを見届けたそのとき教授が慌しく教室に入ってきたが、ジェームズはまだしばらく夢の世界から抜け出すことができなかった。
BONDS OF DOGS
犬のことは『犬』が一番よく分かる
毎日、朝食の時間には決まってたくさんのフクロウが生徒たちに手紙や小包を運んできた。父からの手紙はいつも年に二、三通しかこない。それにこれまでそれなりに手紙を寄越してくれたフィディアスは意識不明の状態が続いていたので、は六年生になってからムーンが手紙を運んでくるのを見たことがなかった。九月の中旬から、捜査に少しでも進展があれば分かるようにと魔法界で最大手の日刊予言者新聞を定期購読していたので、配達の金目フクロウとはすっかり顔なじみになってしまったが。
「毎日ご苦労さま」
新聞を受け取って、胡桃を砕いてやる。ポ、ポと嬉しそうに鳴いてそのフクロウが飛び立つと、入れ替わりに他のフクロウがデザートの並ぶテーブルに突っ込んできた。がしゃーんと音を立てて銀の皿をひっくり返し、着地したムーンが誇らしげにその脚に括りつけた手紙を差し出してくる。だがそのテーブルに座って食後のスイーツを楽しんでいた同級生たちは迷惑そうに顔をしかめてこちらを見た。
「、あなたのフクロウはまともに着地もできないの?」
「ご、ごめん……久々の仕事だからちょっと興奮してたみたい。ムーン、次からはもっと静かに下りてきて」
手紙を外しながら非難がましく言うと、森フクロウはいたく機嫌を損ねた顔でさらにテーブルの上を引っ掻き回してから早々と飛び立っていった。新たにテーブルの上に現れたジャムに手を伸ばそうとしていたスーザンが、目標の瓶をまた吹き飛ばされてヒステリックな声をあげる。
「あんたいい加減にして!」
「私に言われても困るんだけど……」
気分屋のムーンは手紙を運んでくるときにこうして周りに迷惑をかけることがしばしばあった。そう、フィディアスの手紙を運んできたときだって何度も。
まさか
逸る気持ちで封筒を裏返すと、そこに書かれていたのは考えもしなかった名前だった。そう、だよね……まさかフィディアスが目を覚まして、私に手紙を書いてくれたなんて。そんな。だとすればそれよりも早く、私の耳にそのことが入ってきているはずだ。
『ハグリッドより』。久しぶりに見るあの不器用な文字で書かれたサインを確認してから、何事だろうとは急いでその封を切った。
「あれ
、どこ行くんだよ」
その日最後の授業、古代ルーン語を終えて教室を出たあと、寮ではなく階下へと爪先を向けたにシリウスは訊ねた。振り向き様に微笑んで、。
「ハグリッドのとこ。久しぶりにお茶しないかって手紙もらったの。見せたいものがあるんだって」
ハグリッド。ああ、そういえばマグル育ちの彼女は入学前あの森番の世話になったと言っていたし、ホグワーツに入ってからも度々その小屋を訪ねているようだった。
まさか人の良さそうなあの大男が彼女に何か仕出かすなんて考えたわけではないけれど
だがまだ入学したばかりの頃、彼女と一緒にいた自分がブラックの人間だと分かると、彼が隠しもせずに顔をしかめてみせたことを忘れたわけではない。そりゃあ、俺だってもしも自分が『ブラック』と無関係の、何のしがらみもない生まれの人間だったとすれば同じ反応をしたかもしれないが。誰だって自分の友人があの腐った家の人間と付き合っているだなんて、とてもいい気分はしないだろう。
「一緒に行く?」
問われて、思わず眉間にしわを寄せていたことに気付いて振り切るように頭を振る。少し心配そうに覗き込んできたの大きな瞳を見返して、シリウスは慌てて聞き返した。
「俺が行ってもいいの?」
「うん。ていうか……実はもう一年前のことなんだけど、最後にハグリッドの小屋に遊びに行ったとき、私ちょっときついこと言っちゃって。謝らなきゃって思ってたんだけど、結局そのまんまになってたの。だからハグリッドのほうから誘ってくれて、嬉しい気持ちもあるんだけど……ちょっと気まずくって。シリウスが一緒に行ってくれたら……心強いなーって」
が、心もち甘えるような声で言ってくる。お前にそんな風に言われたら、断れるわけないだろ?
「分かった……じゃあ、お言葉に甘えて」
「ほんと?ありがとう!あ、ハグリッドのとこ行ったらちょっと変な食べ物でもてなされるけど慣れたら意外と大丈夫だから安心して!」
「はっ!?おい、変な食べ物って……」
「へーきへーき!大抵は堅くて噛めないロックケーキだから!あーでもトカゲのサンドイッチは私には無理だったな……まあいいや、行こう行こう!」
トカゲのサンドイッチ?まあいいやってお前。こいつの変に図太いところはひょっとしたらあの森番に培われたのかもしれないと危ぶみながら、シリウスは意気揚々と歩き出した彼女のあとに続いた。
「ハグリッド?ハグリッド、きたよ。だよ」
小屋の扉をノックしても、しばらくは反応がなかった。留守なのかな。放課後、遊びにこないかって言ったのはハグリッドのほうなのに。やや間があって、開いた扉の隙間から顔を覗かせたハグリッドはの横にいるシリウスを見て少し驚いたようだった。
「、よう来たな。それから……えー、確か『シリウス』、だったか?」
「うん、そう。さっきの選択授業で一緒だったの。シリウスも一緒にいい?」
「あー……その……お前さん、動物は好きか?」
曖昧に喉の奥で唸ったハグリッドが、出し抜けにシリウスに訊いた。シリウスは訝しげに眉をひそめたあと、嫌いじゃないと答える。
「シリウス、動物好きだよ。飼育学でもけっこう何でもすぐ馴れさせちゃうし、ムーンやホワイトスター
あ、ジェームズのフクロウだけど
とか、他にも友達のペットに意外と好かれてるし」
「意外とって何だよ」
すかさず突っ込んできたシリウスに、はごめんごめんと苦笑いを返した。ハグリッドはどういうわけか、ちらちらと小屋の中を振り向きながら心配そうな顔をしている。
「どうしたの?」
「あ、いや……まあそれなら、大丈夫か。いいか?驚かさんように、そーっと入ってくれよ?」
「え?何を……」
わけが分からずは首を傾げたが、ハグリッドが静かにたち二人が中に入れるほど広くドアを開くと、奥の大きなベッドの下から黒い何かが覗いているのが見えた。可愛らしい二つの目がときどき瞬きして、不安げな色を浮かべている。
「ハグリッド?あの犬、どうしたの?」
「しーっ。あいつは少し神経質になっちょる。怖がらせんように……おーい、ファング。話しただろう?が遊びにきてくれたぞ。そんなとこに隠れとらんと、こっちに出てこいや」
だがファングと呼ばれたその黒い子犬はぶるぶると震えるばかりでベッドから出てこようとはしない。ハグリッドは小さく息をついてこちらに向きなおった。
「ちょっとずつ慣れてきてたんだが……さっき散歩に出たとき、森でケンタウルスのちょっとばかし気性の荒いやつに会ってな。それからずーっとあの調子だ」
「ハグリッド、いつから犬なんて飼ってたの?見せたいものってあの子のこと?」
「ああ、そうだ。一ヶ月くらい前、ノクターン横丁の裏路地で拾った。まだこーんなちっこいのに、ひどい目に遭ってきたんだろうな……ひどく敏感で、何でもかんでも怖がるんだ。でもようやくここでの生活にも慣れて、元気になったかと思ったんだが」
「ふーん……そうなんだ」
ハグリッドがどうして悪名高いノクターン横丁に行ったかは気になったが、今はそれよりも目の前で縮こまって怯えている犬のほうが気がかりだった。ファングは、ハグリッドのようにすごく優しそうな目をしているのに、恐怖で竦んでしまっている。どうすれば怖がらせずに近付けるだろうと考えていると、それまで黙り込んでいたシリウスが唐突に言った。
「よし。ハグリッド、俺に任せてくれ」
「うん?お前さんにか?」
意表を突かれて目をぱちくりさせるハグリッドに、シリウスは自信たっぷりに告げる。
「俺、猫はともかく犬なら分かり合える」
ちょっ!何それ、けっこう危険な発言じゃない!?慌てるを尻目に、シリウスは飄々と言葉を続けた。
「だからしばらくファングと二人だけにしてもらえないか?と外で待っててほしい。但し、小屋の中は絶対に覗かないでくれ」
「ちょっ……シリウス?」
諌めるように呼びかけたが、シリウスはニヤリと笑って、大丈夫大丈夫と軽く流した。ぽかんと口を開けて疑問符を浮かべているハグリッドの脇を通り抜けてそのまま中に入っていく。ハグリッドは不可解な顔をしながらも、言われた通りに外に出てそっと小屋のドアを閉めた。
「奴さん、えらく自信満々だったがそんな特技があったのか?」
「えっ?え、そのー……あはは。うん、犬の気持ちはものすごくよく分かるみたい。きっといい友達に……なれるんじゃ、ないかな」
まさかまさかこんなところで変身するつもりじゃないよね?あああ、誰か来たらどうするのよ!心臓が破裂しそうな思いで、はしきりに周囲を見回して城のほうから誰かが現れないか注意深く見守った。もう、こんなにハラハラさせないでよ!そりゃあ、確かに『犬』は『犬』同士のほうが仲良くできるかもしれないけど。
「あー……、その……悪かった」
白んだ空を見上げていると、隣でハグリッドがもごもごと囁いた。意味が分からず目を開くに、ばつの悪い面持ちで言ってくる。
「ずっと気になっとった……お前さんの言う通りだ。俺はお前さんに、何にも話さんと……でも分かってくれ。俺が話すには荷が重過ぎるんだ。いつかきっと、ダンブルドアが」
「何のこと?」
が素知らぬ顔で聞き返すと、ハグリッドは虚を衝かれて呆然となった。そんな彼の顔をちらりと見てからまた視線を上げ、静かに目を閉じて微笑む。
「いいの、もうそんなことは。昔の話だもん、忘れちゃった」
「……」
「私がスリザリンに組み分けされたことなんて、今はもうどうでもいいの。グリフィンドールを選んで、結果的に正解だったと思ってるし。もし組み分けの儀式のとき、それぞれの寮の特性を知ってたら、私はそのとき自分でグリフィンドールを選んでたと思う。きっとそのことが分かったから、やり直させてくれたんじゃない?帽子は初めから、私がどこの寮でもやってけるだろうって言ってくれてたし。私、グリフィンドールに入って……こんなに、幸せだよ」
もしもあのときそのまま、スリザリン寮の敷居を踏んでいたら。たとえジェームズとの友情は続いたとしても、他の友人たちとはきっと今のような関係を築けなかった。リリーもニースも、リーマスもピーターも。みんなみんな、私がグリフィンドールを選んだから。そしてシリウスとも
だって彼は、血のしがらみを想起させるスリザリンの人間とはこれまで決して交わろうとしなかった。
「私のほうこそ、ひどいこと言ってごめんなさい。これからも……友達でいてくれるよね?」
「……当ったり前だろ。そんなこと」
なぜか今にも泣き出しそうな顔で笑ってみせたハグリッドが水玉のハンカチを出してずるずると洟をかんでいると、小屋の扉が中から開いて胸を張ったシリウスが顔を見せた
その腕に、一抱えほどのコロコロした子犬を持ち上げて。
「ほーら、見てみろ。犬の気持ちは犬が一番よく分かるってもんだ」
またそういう際どいこと言って!だがハグリッドはシリウスが本当にファングを宥めてみせたことに驚いて、そんなことは一切気にならないようだった。シリウスを見る目が一気に変わって、誇らしげな彼を嬉しそうに中に招き入れる。はくすくす笑いながら、彼の腕の中で垂れた尻尾をしきりに振っている子犬の顔を覗き込んだ。
「ファング、私、ハグリッドの友達でっていうの。よろしくね」
ワン!と高らかに鳴いたファングはまるで、あの『パッドフット』の弟のようにも見えた。