から、目が離せない。
もともと、可愛い女の子だった。東洋系のあどけない顔立ちで、大きな黒い瞳は表情豊かにころころと変わる。その愛らしい眼差しに笑いかけてほしいと願う男子の、いかに多くいたことか。それでも僕は、自分の思いに気が付かなかった
あの人に指摘される、そのときまでは。ただ、眩しい友人のひとりだと。
ラルフと付き合い始めたとき。少し、可愛くなった。女の子らしくなった。ママが教えたメイクというものを、ときどき実践するようになった。もとから大きな目がぱっちりと、より印象深く。シリウスと付き合い始めたときも、微笑む彼女の顔に浮かぶ穏やかな幸福感に癒される人間はたくさんいた。
そして、この夏休み明け。今までのが『女の子』だとすれば、再びホグワーツに戻ってきた彼女はどこか大人の雰囲気をまとって艶やかに笑うようになっていた。何が変わったかと聞かれても、うまく答えられない。化粧が派手になったわけでも、意図的な色っぽさがあったわけでもないのに。どこまでも彼女は素朴で、愛くるしくて。
ある日の放課後、僕は談話室の隅で監督生会議に出て行ったリーマスの帰りを待っていた。NEWTレベルのクラスはどれも難しすぎて、課題をこなすのも命懸けだ。新しい変身術の教科書と睨めっこしながら、彼は深々と嘆息した。五年生までの科目をすべてそのまま継続しているなんて信じられない、異常だ。
広げた教科書の上に突っ伏して目を閉じると、しばらくして隣のソファに座ったらしい上級生の話し声が自然と耳に入ってきた。
「なあ、あいつらって縒り戻したの?」
「ああ、うん、そうらしいよ。こないだフローリシュ&ブロッツでふたりでいるとこ見た」
「なーんだ、マジかよ。あ、ひょっとしてそのせいか?あいつ急に女っぽくなったよなー。いいよなー俺も一回くらいとやってみたい。声とかすげぇいいと思う」
どうということのない口振りでそう言った友人に、もうひとりのほうが慌てて声をかけた。
「こんなとこでそういうこと言わないほうがいいんじゃないか?シリウスに聞かれたら、お前殺されるぞ
お、噂をすれば……」
噂をすれば?僅かに首を動かして突っ伏したままこっそり目を開けると、肖像画の穴を通って談話室に入ってきたのはとエバンスだった。エバンスはもともと大人っぽい美人タイプだったし、ますますきれいになったがその横に並ぶと文句のつけようがないほど華やかな二人組になった。しかもふたりともどこかさっぱりしたところがあって、同性からも広く好かれている。裏返せば、それだけ妬まれているとも言えるだろうが。
どきどきしながらゆっくりと身体を起こすと、談話室を見渡したがちょうどこちらに目を留めてぱっと顔を輝かせたところだった。
「ピーター
ワームテール!」
えっ!?急に名前を
しかもルームメート以外には決して呼ばれたことのない名前を口にされ、心臓が跳ねた。何人か
主に男子生徒だったが
が振り向いて注目する中を、まったく気にした様子もなくがこちらに向かってくる。エバンスはそのまま先に女子寮に上がっていった。
「ねーねーピーター!ちょっとお願いがあるんだけど今いい?」
「えっ?あ、うん……どうしたの?」
つい先ほどまでたちの話をしていたパトリックとダークも、の後ろから盗み見るようにこちらを覗いている。『俺も一回くらいと』
急にパトリックの言葉が思い出されて、ピーターは身体の奥が熱く疼いてくるのを感じた。
ソファの背もたれに上半身を乗せて、びっくりするくらい顔を近付けてきたが声を落として言ってくる。
「あのね、シリウスには聞いてみたんだけど教えてくれなかったの。『ワームテール』
どんなのか、よかったら見せて!」
アニメーガスの姿を、っていうこと?アニメーガスはすでに五年生のときに完成していたが、例の三人以外には当たり前だが一度も見せたことがなかった。調子が悪かったり、シリウスたちにからかわれて上がったりすると失敗することも稀にある。そうした中で、彼女を前にうまく変身できるだろうか?もし、失敗したら……。
だが彼女のきれいな瞳に見つめられて無下に断ることもできなかったし、そして何よりこれは比類ないチャンスだと思った。もしもここで成功させて……もしも……。
「そ、それじゃあ、ここじゃ駄目だから僕らの部屋に来てもらえる?」
「ほんと?ありがとう!」
嬉しそうに笑ってみせた彼女からさり気なく目を逸らして、独りごちる。もしも僕が、彼女の恋人だったら。こんなにも無防備な彼女からきっと、ほんの一瞬たりとも目を離したくないだろう。(僕なら目を離さない。)
PASSION
幸福な受難
を連れて戻った部屋の中は空っぽだった。リーマスがまだ帰っていないことは分かっていたし、シリウスとジェームズがフィルチに一杯食わせてやると言って出かけたことも知っていた。を中に導いてから、ドアにしっかり鍵をかけて向きなおる。ざっと部屋を見渡した彼女が目を留めたのはシリウスのベッドで、そこにはグラビア雑誌が一冊ぽんと放り出されたままだった。
「あ……ああいうの、あんまり気にしないほうがいいよ。男なら誰でも一冊くらい持ってるし」
「そうなの?ピーターも?」
「えっ?あ、ぼく?」
「ごめん……答えなくていいよ」
苦笑混じりにかぶりを振って、がこちらを向く。僕だってああいった雑誌は何冊か持っているけれど、シリウスとは違っていつもちゃんと見えないところに仕舞ってあるんだ。
「ねえ、見せてほしいなピーターのアニメーガス!プロングスは名前で分かったんだけど……ワームテールは見当つかなくて」
「そ、そうかな?シリウスのアニメーガスはもう見た?」
「うん、見せてもらったよ。マクゴナガルのアニメーガスもすごかったけど、あんなに本物の動物と見分けがつかないもんなんだね!」
彼は曖昧に笑って、自分のベッドのほうに歩み寄った。まだドアの前にたたずんだに顔を向けて、
「じゃあ、……ちょっとここに座ってみて」
「え?そこ?」
「そう」
座らせる必要はなかったが、無意識のうちに自分のベッドを示して、そう口に出した。この状況を利用しない手はない
今のならばきっと、疑うことなく僕の言うことを聞く。
ベッドの縁に浅く腰かけたの隣に自分も座り込んで、ピーターは高鳴る鼓動をごまかすように何度か静かに深呼吸した。
「あー……それじゃあ、その……やってみせるからちょっと、目、閉じてくれない?」
「へっ?」
不審に思ったのか、目をひらいてが瞬きする。破裂しそうな心臓を押さえて、なんとかその先を続けた。
「その、見られてるとちょっと、緊張するから……」
「あ、そっか。そうだね、ごめん」
あっさりと頷いて、はすぐに目を閉じた。ふたりきりの空間で、少し手を伸ばせば抱き寄せられる距離。無防備に瞼を伏せた彼女の睫毛はきれいに整って、ほんの少しだけひらいた唇は必死に衝動と戦い続ける僕を誘惑した。この唇に、ラルフが口付けるのを見たことがある。図書館の隅、本棚と本棚の、ごくごく僅かな隙間から偶然にも垣間見えた。深く舌を絡めながら、何度も、吸い付くように。
シリウスは、彼女にどんなふうにキスをするのか。もしも僕が今この瞬間に口付けたら。考えただけで、頭の中が溶けてしまいそうだった。が今、僕の目の前でこんなにも無防備な姿を晒している。
不意に揺れた彼女の黒髪からほのかに香る爽やかな匂いに、とうとう我慢できなくなって吸い寄せられるように顔を近付けた。もう、少し。彼女のきめ細かい肌の繊維ひとつひとつが、見えるほどまでに近付いて。
「もういい?」
唐突にひらいた彼女の唇が言葉を発して、僕は慌てて身体を後ろに引いた。汗ばんだ額を拭い、乱れた息を必死になって整える。
「ごっ、ごめん……ちょっと調子が悪いみたいで。も、もう少しだけ待って。あと十秒」
「十秒?分かった、いーち、にー、さーん……」
素直に頷いて、ゆっくりと数を数えていくから顔を背けてきつく目を閉じた。いけない、僕は一体何をしようとしていたんだ?集中しろ、は僕の変身を楽しみにここまでついてきたんだ。
変身は
なんとかうまくいった。信じられない、奇跡だ。ジェームズたちの前ですら数回に一度は失敗して中途半端な大きさになったり変な尻尾を生やしたりすることがあるのに(人間の姿のまま尻尾だけが生えたときに『ワームテール』という不名誉な称号を与えられた)、こんなにも大好きなとふたりきりで、こんなにも心臓がどきどきしているというのに。僕だってやればできるんだ!と叫びながら(もちろんチューチューとしか聞こえない)、数を数えながら目を閉じて待っているの膝に飛び乗った。スカートの上からちょんちょんとつついた彼女の太ももはびっくりするほど柔らかい。
こちらを見下ろしたは初め飛び上がらんばかりに驚いて言葉を失っていたが、すぐにあの明るい笑顔になって、すごい!すごいよ可愛いなるほど『ワームテール』かあ!と楽しげに声をあげた。僕の変身した姿を見てこんなにも喜んでくれる
僕はそのことを素直に嬉しいと思った。自分の行為で好きな女の子が喜んでくれる。こんなにも嬉しいことがあるか?その喜びを、僕は生まれて初めて身に染みるほど味わった。ひょっとしてリーマスのことなんてどうでもいい、僕はこのときのためにあんなにも苦しい時間に耐えてきたのではないかと。
は僕を手のひらに載せて顔の近くまで持ち上げた。彼女の頬にかかる黒髪からはやはり爽やかな、まるで風呂上りの石鹸のような香りが漂ってくる。僕は思わず
そう、これは明らかに事故だが
彼女の手のひらに載せられたまま、うっかり変身を解いてしまった。
「っわーーーーちょっと!!」
こんなときに色気もへったくれもない悲鳴をあげるのはいかにもらしい。図らずも彼女をベッドに押し倒してしまった僕は自分の熱いところがの太ももをかすっていることに気付いて飛ぶように後ろに引き下がった。慌てて彼女のほうから身体を離しながら、
「ご、ごめん……わ、わざとじゃないんだ!ごめん、つい……戻っちゃって……ごめん」
「……びっくりし、た」
は僕のベッドに横たわったまま、少し紅潮した自分の頬を撫でた。
「ううん、調子悪いって聞いたのに変身させた私も悪いんだし。ごめん、ピーター。でも、すごかったよ」
まだ弱々しく微笑んでみせる彼女もいじらしいが、こんなシチュエーションで理性を保てる僕だって十分にいじらしいじゃないか?皮肉混じりに、独りごちる。後先を考えずにすむのなら、誰がこんなときにこのまま好きな女の子に手を出さないって?まったくこんな無防備な恋人を、あいつはどうしてひとりなんかにしておけるんだ?
はゆっくりと起き上がって乱れた髪を手櫛で軽く整えた。すぐに落ち着いた様子でこちらを向いて、
「ねえ、どういうふうに変身するの?ちょっとだけ、コツ、教えて?」
「えっ?もアニメーガスになりたいの?」
「ちょっとだけね。でもシリウスに言ったらまた怒られるかもしれないし」
ああ、なにかあるごとにシリウス、シリウス、だ。分かってるよ。君があいつを大好きだってことも、あいつが君から離れられないということも。僕たちはみんな、変わらぬ友達だと思っていたのに。なにも考えずに純粋な『友達』でいられたのは、なにも知らない子供だった頃だけだ。
「それじゃあ……これ、君にあげようか?」
僕は自分の枕の下に置いていた羊皮紙の束を引っ張り出して、惜しみなく彼女のほうへ差し出した。驚いて目を丸くする彼女に、
「も見たことあるでしょう?ジェームズたちの作ったマニュアルだよ。僕らはもう必要ないから」
「でも……いいの?私、本気ってわけじゃなくてちょっと興味本位だし」
「うん、いいよ。ただし、シリウスたちには内緒にしてくれないかな。僕が君にそれ渡したって知ったら……ほら、ね?」
「それはもちろん言わないよ。ありがとう……じゃあ、ちょっとだけ借りるね。もしもだけど、もし仮に成功したらピーターに一番に見せるから!」
マニュアルをぱらぱら捲りながら、は明るくそう言った。それが僕の心をどれだけ掻き乱すかなんて、知りもしないで。ああ、この時間が永遠に続けばいいのに。何物にも脅かされない、僕たちだけの。
うきうきとページを繰っていく彼女の横顔をぼんやり眺めていると、その後ろに見えるドアが突然ドン!と大きな衝撃音とともに勢いよくひらいた。そこに立っていたのはこれ以上ないというほどに険しい顔をしたシリウスで、あまりに強力なアロホモラ呪文を放ったと思われる杖を脇に仕舞いながらずんずんと部屋の中に踏み込んでくる。は不意をつかれて持っていたマニュアルを落としてしまったし、僕は驚いた拍子にベッドから無残に転がり落ちた。な、な、ななな……。
「なんだこれは」
シリウスはが拾い上げるよりも先に足元のマニュアルを引っ手繰って掲げた。わざとらしく、表紙の文字を一字一句読み上げていく。
「どうぶつもどきかんぜんまにゅある……ふーん、何でがこんなもん持ってるわけ?」
「そ、れは……ごめんピーター、私がこっそりくすねようとしたの!」
「そうか、お前もう動物もどきは諦めるって俺に約束したよな?それを……ふーん、約束も守れない悪い子にはお仕置きが必要だな」
「べっ別にアニメーガスになろうとしたわけじゃないもん!ただちょっとどうやるのかなーって、理論とか役に立つかもしれないし!それだけだよ、別に本気でなろうとしたわけじゃ……」
「ピーター。俺はに話がある。外せ」
「ち、違うんだよシリウス、それ僕がに貸したんだ、どういうふうにやるかちょっと興味あるっていうから」
「いいからお前は出て行け!」
吼えるように怒鳴りつけて、シリウスは凄まじい形相でこちらを見た。心臓が止まりそうになるくらい、僕の苦手なあの眼差しで。数秒ほど凍りついたあと、僕はようやく立ち上がってよたよたとドアのほうに近付いていった。
横を通り過ぎるときにちらりと見たシリウスのズボンの後ろポケットからは、丸めた羊皮紙の一部が覗いていて。
(……どうしよう)
あいつは地図で、僕らの名前を見つけたのかもしれない。ひょっとしたら僕らの点が重なり合っているところを見たかもしれない。そう思うとほんの一瞬だけ輝かしい優越感が湧き上がってきたが、それもすぐに空しく萎んでいった。彼女はなんと言い訳するだろう。そしてそのあと、あいつはお仕置きだといって彼女を好きにするのだろうか。僕がどれだけ葛藤しても人間の姿では指一本触れられない彼女の身体を、獣のように蹂躙して。
そして僕は、ますます惨めな思いであいつと向き合わなければならないのだ。