「、準備はできた?忘れ物はない?」
「はーい、大丈夫……だと、思います。たぶん」
ベッドの上に広げたトランクに詰めたものを確認しながら、は部屋に入ってきたジェームズのおばさんに向きなおった。おばさんはその手に小さな紙袋とストライプのディスペンサーをふたつ抱えている。
「ねえ、これ頂き物なんだけど使ってもらえないかしら?ジェームズもシリウスもこういうのは女の子が使うもんだっていうし、うちにこれ以上あっても仕方ないから」
近付いてきたおばさんが差し出してきたのは、も見たことのあるロゴが入ったシャンプーとリンスだった。ぎょっとして、慌ててかぶりを振る。
「だってこれ……高いんでしょ?友達が使ってたの見たことあります、ちょっと貸してって言ったら怒られて」
「そんなこと気にしなくていいのよ。頂き物だって言ったでしょう?うちの人も使わないし、私ひとりじゃいつまで経っても使いきれないもの。あなたがもっときれいになったらシリウスだって嬉しいでしょ」
「おっおばさん!」
瞬時に真っ赤になったを見てからからと笑いながら、おばさんはベッドのふちに腰かけてこちらの髪に手を伸ばしてきた。梳くように撫でられて、思わずどきりとする。おばさんはどこか慈しむような眼差しで言ってきた。
「ねえ、。わたし、嬉しいのよ。あの子が
シリウスが、こんなにいい子に巡り合えて。あの子、あなたも知ってると思うけど、ああいう家庭環境の中で育って……ずいぶんつらい思いをしてきたと思うわ。愛情には、きっと誰が思っているよりも貪欲なのよ」
「……はい」
「シリウスに、ジェームズに
手のかかる子たちだけど、、これからも面倒みてやってね」
はつんと鼻を刺す切なさに瞼を伏せながら、ゆっくりと頷いた。
「私のほうこそ……ふたりにはいつも、助けてもらってばかりで。私なんかで、役に立てるんだったら」
「そんなふうに言わないで、。シリウスはあなたに夢中みたいだし、ジェームズったらいつも楽しそうにあなたの話ばっかりするんだから」
その場面を思い出したようにくすくす笑って、おばさんは脇に置いた紙袋のほうを持ち上げた。
「それから、これは私が焼いたカボチャパイなの。もしよかったら、ホグワーツ特急の中で食べて」
「わ!ありがとうございます、おばさんのパイ、美味しくて大好き!」
「まあ嬉しいこと言ってくれるわね。いつでもいらっしゃい、こんなものでよければいつでも焼いてあげるわ」
がもらったものをトランクに入れてふたを閉じている間に、おばさんは満足げな顔で立ち上がった。こちらに背を向けて、先に部屋を出て行きかけたとき。
「
」
「はい?」
トランクを床に下ろしたところで、はきょとんと目をひらいて顔を上げた。首だけで振り向いて、おばさんが微笑んでみせる。
「わたし、ほんとは娘も欲しいなって思ってたの。もちろんジェームズもシリウスも、大事な息子だけど。だから、あなたと仲良くなれて、とっても嬉しいわ。あなたの家だと思って、いつでも気軽に寄ってね」
おばさんの姿が扉の向こうに消えて、その足音が遠ざかっていっても。
また新しい『家族』ができたような気がして、の心はじわじわと温かく、溶けていきそうだった。
本当はお母さんに、あんなふうに。
Unstable Equilibrium
平衡
「結構ですね」
六年生それぞれの新しい時間割を作っていたマクゴナガルは、の提出した申込書とOWL試験の結果を照らし合わせて、言った。
「結構、。あなたの成績には私もとても満足しています。ですが、天文学、魔法生物飼育学、呪文学、闇の魔術に対する防衛術、古代ルーン語、薬草学、魔法史、魔法薬学、変身術……これらすべての科目をNEWTレベルで受講するというのは、ずいぶんと負担になるかと思いますが」
「でも……まだ進路が決まってないと、自分で選択肢を狭めるのは得策じゃないと先生がおっしゃいました」
「ええ、その通りです。ですが、たとえばNEWTレベルの魔法史や天文学というのは……そうですね、よっぽど専門的な分野でなければ必要ないと思いますが?」
「でも、やっぱりまだいろんな仕事を探してみたいので……」
「分かりました、ではこれで
ただし、負担が大きいようでしたら時間割の変更を勧めますので私に相談してください。ああ、それから前に話していた日本の職業パンフレットですが、まとめて談話室に置いておきますのでぜひ参考にしてください」
「はい。ありがとうございます」
マクゴナガルとはフィディアスが襲われたあの日、聖マンゴで会ったのが最後だったので、は彼女と目を合わせるのが少し気まずかった。手渡された時間割を俯きがちに受け取って、先に玄関ホールで待っているリリーのところへ急ぐ。途中、自分の後ろにずらりと並んでいたグリフィンドールの同級生たちに何度も声をかけられた。
「なあ、は何の授業とった?」
「私?私はねー、天文学でしょ、飼育学に呪文学、防衛術にルーン語、それから薬草学に魔法史、あと……」
「は?ちょ、っと待て?お前いくつとる気なんだ?」
「え、九つだけど」
「はあー!?、バカじゃねーの?」
「そうだよ、お前死ぬ気なの?」
「失礼な!だって進路もまだ決まってないしさーどれも捨てられないんだよ」
「魔法史とか絶対要らないって」
「ルーン語なんか何に使うつもり?」
友人たちに呆れ顔で口々に馬鹿にされ、はむっとして頬を膨らませた。
「なによ!ひょっとして私が歴史学者とかになりたくなったらどうしてくれるの!」
「歴史学者!にあわねー」
「そんなの分かんないでしょ!」
「こいつに将来何が合ってるかなんてお前が決めることじゃないだろーが」
声を荒げてディックを睨み付けたところで、後ろからやけに冷ややかな声がしてはぱっと振り向いた。すでに時間割を受け取ったシリウスが、ジェームズたちと一緒にいつの間にやらすぐ背後にきていた。
「俺だって九個とるし。バカで悪かったな」
「いや、べつにシリウス、お前に言ったわけじゃ……」
「に文句があるなら俺に言え」
ぶふー!と思いっきり噴き出したジェームズがシリウスの後ろで腹を抱えて大笑いした。そちらを鋭く睨んでから、戸惑うの手を引いてシリウスがずんずん大股で歩き出す。玄関ホールまであっという間に連れ出されて、はようやくそこでシリウスの手を振り払った。
「シリウス!ああいうことやめてよ、私はただ友達と話してるだけなのに」
「どうしたの?」
階段の下で待っていたリリーがこちらに駆け寄ってきて訊いた。そちらには、何でもないよ、と答えて、ふて腐れた顔のシリウスに向きなおる。リーマスやピーターと一緒に遅れてついてきたジェームズが、けらけら笑いながら口を挟んだ。
「心配なんだよなーシリウス。、この夏で絶対きれいになったからさ、変な虫がつかないようにって。ああ、もちろんエバンスはずっと前からきれいだよ!」
こんなときでもリリーへのフォローは忘れないジェームズに少し感心しながらも、は声の調子を落とさずにさらに続けた。
「変な虫って!だってシリウスたちだってよく知ってる同級生じゃない、友達なのに!」
「友達ってお前が思ってるだけで向こうはそう思ってないかもしれない」
「そんなこと言ってたら友達なんかできないじゃない!こんなことあんまり続くんだったら、もうシリウスなんか知らないから!」
一気にそう捲くし立てて、はぷいと顔を逸らした。そのままリリーの腕を引いて、早足で階段を駆け上がる。シリウスが愛してくれること。身体中で求めてくれたこと。幸せで、愛しくてたまらなくて。
けれどもこれまでのようにホグワーツで、他の友人たちとも変わらぬ友情を育みたかった。写真の中で永遠に笑い続ける、母のように。それを制限されるほどに、束縛されるのだとすれば。
だが談話室に戻って改めて時間割を見てみると、なんとも間の悪いことに一時間目は古代ルーン語だった。
「ねえ、私って間違ったことしてる?」
一時間目は空き時間だというリリーと一緒に寝室に上がって、はルーン語の準備をしながらイライラと声をあげた。リリーは天文学と魔法史、魔法生物飼育学をやめて、全部で六科目を受講する予定だ。
「ほんの少し立ち話してただけなんでしょう?それはブラックがもっと大人になるべきだわ」
「でしょう?ダイアゴン横丁に行ったときだって、ダークがちょこっと社交辞令言ってくれただけで拗ねちゃって」
は新しい羊皮紙を一巻きトランクの奥から引っ張り出そうとしていたので、背後のリリーが僅かに頬を染めたことに気付かなかった。
「でもその後は仲良く手つないで帰ってたじゃない。ちょっとびっくりしちゃった」
「だってあれは……だから、シリウスが拗ねちゃったから」
あのときは、ジェームズにさんざん囃し立てられて、逃げ出したいくらいに恥ずかしかったけれども。少し汗ばんだシリウスの手のひらが、今でもこの肌に焼き付いているようで。
「でもブラックも、あなたが大好きだから妬いちゃうのよ。ちょっとやりすぎだとは思うけど、頭ごなしに怒るのはやめてあげて?」
「………」
リリーがまさかシリウスの肩を持つなんて思わなかった。口を尖らせながらもほんの微かに頷いて、は前髪を留めたクローバーのヘアピンに触れながら黙って部屋を出て行った。
ルーン語の教室には、すでにシリウスがきていた。けれども他の生徒はまだひとりもおらず、居心地の悪い思いでそこから少し離れた前のほうの座席に着く。シリウスも先ほどの一件で機嫌を悪くしたのか特に何も言ってこなかったので、は真新しい教科書を広げてまったく気にならない振りをした。早くラナたちこないかな!
けれども他の同級生がひとりも現れないうちに、が机上に置いたフィディアスの懐中時計は授業開始時間を告げ、いつものようにそれから少し遅れて担当のバブリングがやって来た。
「おはようございます、皆さん。まずはおめでとうと言うべきでしょうか、皆さんがOWLにて優秀な成績を収めて再びこの授業に戻ってきてくれたことを心から歓迎いたします」
「ちょ
っと待ってください先生!」
間髪容れず、は身を乗り出して右手を挙げた。いきなり何事かと片眉を上げたバブリングに、
「あ、あの、『皆さん』って……ひょっとしてNEWTレベルのクラスは、私たちふたりだけですか?」
「はい、、そしてブラック、あなたたち二人です。去年のOWL試験は例年より少し難しかったですからね、合格レベルまで達した生徒が半数、その中から継続を希望したのはあなたがただけです」
えええええ!!うそ!?だが、冗談でもなんでもないらしい。バブリングは出席簿を広げるまでもなく「OK」と呟いて、とシリウスに教科書を出すように指示した。
その時間はOWL明けの初回授業ということもあり、教科書の一番最初に出ている基本的な事項を確認しただけだった。ときどきバブリングがその場で作った練習問題を解かされたが、それもさほど難しいものではない。授業は三十分も前に終わり、バブリングは満足そうな顔で「この一年も頑張りましょう」と言って去っていった。
はあ……手強いルーン語の授業に、シリウスとふたりきりなんて。シリウスは大好きだけど、気分屋のシリウスのこと、今までの事例を考えてみても、重々しい気持ちで臨まなければならない状況も十分にありえそうで。
ふたりだけ、はさすがにきついよ先生!
「なあ、」
机に突っ伏してだらりと横になっていると、後ろからシリウスの声がしてはゆっくりと起き上がった。シリウスも自分の座席に座ったまま、横柄に肘をついてじっとこちらを見つめている。
「なに?」
「ふたりだけだって」
「うん、聞いたよ」
「後悔してる?」
「……なんで?」
聞き返してこちらもふて腐れた顔をしてみせると、シリウスは肘の奥に目元を隠しながらまるで独り言のような声音で言ってきた。
「……きれいだ」
え?なにを言われたのか、分からなかった。呆然と目をひらいて瞬きするの視線の先で、躊躇いがちに顔を上げたシリウスの瞳がまっすぐにを捉える。
「
きれいだ」
「……へ?あ、えっ?その……どうしたの?」
いきなり、何を言い出すんだろう。どきどきと高鳴る鼓動がそのまま脳にまで響いてきて。身体中が、沸き立ちそう。ベッドの上、明かりを小さくした部屋の中でまったく同じことを言われたのを、急に思い出した。恥ずかしそうに目を逸らしながら、シリウスが囁く。
「さっきは……ごめん。でも俺、不安なんだ」
そして握り締めた手のひらに額を押し付けて、震える声で、言った。
「……俺のこと、見放さないで」
その声があまりにも痛切に響いてきたので、は思わず泣きそうになった。ジェームズのおばさんの言葉が、生々しく思い出される。愛情に対して、誰よりも貪欲で。そしてきっと、誰よりも脆くて。
は静かに席を立って、シリウスのところまで歩いていった。ひとつ前の座席に後ろ向きに腰かけて、項垂れるその頭に、そっと手を伸ばす。
「大好きだよ、シリウス。だからそんなに、心配しなくていいよ」
窺うように瞼を持ち上げたシリウスに、は困ったように微笑みかけた。
「好きだよ、シリウス。でも、私だって人間だから、悲しんだり怒ったり……いろいろあると思うけど。でも喧嘩したって、離れたくはないもん。だからこうやって、きちんと話して……これからもずっと、一緒にいたいよ。信じて?」
しばらくして小さく頷いたシリウスは、不安だらけの幼い子供そのもので。宥めるように二、三度軽く頭を叩いてから、少し潤んだその瞳を覗き込んだ。苦笑する。
「でももうちょっとだけガマンって言葉、覚えてほしいかな。私だって……ガマンしてるんだよ?」
「……ほんとに?」
「ひどい。シリウスだって他の女の子と話すことあるじゃない。私だってガマンしてるの」
「お前以外の女だったら、別に話さなくてもいい」
なんの迷いも見せずにそんなことを言ってのけたシリウスに、どきりと心臓が跳ねるのを感じたが。
慌てて首を振って、
「いいわけないでしょう?私たち、私たちだけで生きてるわけじゃないんだよ」
また僅かに表情を曇らせたシリウスの頬を両側から摘んで、小さな子供がそうするように軽く引っ張る。その整った顔が奇妙に歪むのを見ては声を立てて笑った。
「へんなかお」
「ひょっひょへよ」
「ん?なに、聞こえない」
「ほっとけよ!」
無理やり大きく口をひらいてシリウスが叫んだので、は仕方なく手を放した。代わりに、摘んでほんの少し赤くなった部分を指先でつつく。くすぐったそうに顔をしかめるシリウスのほうに、机越しに身を乗り出して軽く触れるだけのキスをした。
「こういうこと、私がシリウス以外の男の子にすると思う?」
「それは……思わ、ない」
「だったら話するくらい、ガマンして。私だって友達と好きに話したいし、シリウスにもいろんな人と話してほしい」
そして今度は耳元に唇を寄せて、今までにないくらい声を和らげる。その繊細な部分を、傷付けないように。
「ふたりだけのときは、ガマンしなくていいから」
相手の顔が見える程度に身体を引いて見上げると、その熱っぽい眼差しがすぐ間近で見つめてきていた。こちらの髪を留めたヘアピンを愛しげに撫でながら、
「じゃあ……もっとキスして、」
甘えるような声を出して瞼を伏せたシリウスの唇に、そっと口付ける。何度も角度を変えながら、ふたりは啄ばむようにして、長い長いキスをした。