夢を、見た。芝生の敷き詰まれた広い公園。中央の噴水には幼い子供たちが群がり、日傘を差した母親たちが少し離れたところから優しく見守っている。そのときひとりの少女がちょうど噴水の水浴びから脱して、木陰で呼び寄せる母親のもとに駆け戻ったところだった。

「あら、ったらこんなにびしょ濡れになって。風邪ひくわよ、こっちいらっしゃい」
「だって聞いて、お母さん!ひどいんだよ、トムが思いっきり頭から水かけてきたの!だから私もトムのズボン引きずりおろしちゃった。トムのパンツってペンギンさんだったんだよ!」
「あら、それで大喧嘩してたのね?いらっしゃい、お母さんがきれいにしてあげる」

おかしそうにくすくす笑う母親の膝の上に、ちょこんと飛び乗る。母はバッグから取り出したタオルで優しく髪の水分、そして濡れた肌を拭ってくれた。ブラシで肩口まで伸ばした娘の黒髪を梳かして、整える。

「はい、できあがり」
「お母さん、ありがとう!ねえ、お父さんとムーンは?」
「ムーンがあんまり急かすから、ふたりで先に行っちゃったわよ?」
「えー!うそ、ひどいひどい!待っててって言ったのに!ひどい、なんで止めてくれなかったの!お母さんきらい!」
「ひどい……お母さんはこんなに好きなのに、はお母さんのことが嫌いになっちゃったのね。お母さん悲しい……に嫌われちゃったらお母さんどうやって生きていけばいいのかしら」

逆にさめざめと泣かれてしまって、少女は目に見えてうろたえていた。流しかけた涙は目の縁でとまって、あたふたと辺りを見回しながら声をかける。

「お母さん、泣かないでよ、うそだよ、冗談!お母さんすき、だいすき!でもお父さんきらい、だいっきらい」
「そうね、お父さんが悪いわね。戻ってきたらたっぷりお説教してあげましょう。ね、?」
「誰が悪いって?」

唐突に後ろから不機嫌そうな声がして、振り向く。そこにたたずむ若い父親と、その手に握られたリードに繋がれた、白い大きな    

伸ばしかけた手は暗闇の中で空を切って、通り抜けた。何が起きたのか分からずに慣れない視界で必死に瞬きを繰り返して、気付く。耳のすぐ傍で、規則的なシリウスの寝息が聞こえてきた。
夢、か。宙に浮いた右手で軽く拳を握りながら、ブランケットをかぶりなおす。

犬。シリウスのように大きな、けれどもその毛色はまったく対照的な、鮮やかな白。
変身したシリウスの体躯を抱き締めたとき、確かに彼女はその感触を知っているような気がした。

(ムーン……)

ただのデジャヴ?それとも。
ねえ、あなたは一体何物なの?

Time lost cannot be recalled

振り向いても

見慣れぬフクロウが運んできた一通の手紙をひらいて、散らかった机の上に突っ伏す。部屋の窓から見える水平線には橙の光が揺らめいて日没までのカウントダウンを始めていた。
彼女の手を離れた羊皮紙には、短い英単語が羅列している。
「なかなかいい成績じゃないか?」

折り目のついた羊皮紙を覗き込んだ父が言ってくるのを、はイチゴジャムを塗りたくったトーストをかじりながら顔を上げて聞いた。口腔のものを飲み込んで、

「でしょう?今年は倒れそうになるくらい頑張ったもん。実際倒れた友達何人もいたしね」
「頑張ったな。でも来年からはもっと難しくなるんじゃないか?」
「……うん、そう思うよ」

げんなりとうめいて残りのトーストを全部飲み下してから、は向かいで空っぽのコップに牛乳を注いでいる父を恐る恐る見やった。

「それでね……進路のこと、真面目に考えろってマクゴナガル先生が」

父は一瞬だけ手を止めたが、何事もなかったかのように千切った食パンの耳をコップの牛乳に浸してから口に運んだ。そういうことやめてって、何度言っても聞かないんだから。

「どうしようかなって思って。やりたいことはまだ見つからないんだけど……とりあえず向こうで就職するか、それともこっち戻ってくるか」
「こっちに戻ってくる?」

鸚鵡返しに聞き返して、父は訝しげに眉をひそめた。

「向こうの魔法学校に七年も通って、そのあと日本に戻ってきて働くっていうのか?」
「ま、まだ分かんないけど……ホグワーツの学歴でもこっちで就職できるっていうし、私の故郷は日本だよ。だからそういうのも、選択肢のひとつっていうか」

なんだろう。まさか戻ってきてほしくないなんていうわけじゃないだろうけど。父はしばらく下を向いて黙り込んでいたが、思い切るように残った牛乳を飲み干すとひどく真面目な口振りで言ってきた。

「父さんのことなら、気にしなくてもいいぞ」
「え……でも」
「お前のやりたいようにやりなさい。時々顔を見せてくれれば父さんはそれでいいから。それに向こうで、大切な友達もできたんだろう?」

言われて、思い浮かぶ顔はたくさんあった。シリウス、ジェームズ、リリー、ニース。リーマス、ピーター、スーザン、メイ、マデリン……数え上げればきりがないほど、わたしは多くの『家族』とも呼べる友達を持っている。それは勇気をもって踏み込んだ世界で得た、かけがえのない宝物の数々。
ありがとう、と言って、は心持ち椅子の上で姿勢を正した。

「でもお父さんだって、私にとっては大事な家族だよ。だからいろいろ考えて……それから、決めるね。ありがと」

言い終えたあとに父の顔を見るのはあまりに照れくさかったので、彼女はそのまま自分の食器を片付けて、ごちそうさまと席を立った。
フィディアスが襲われてから一週間ほどで、はイギリスを離れることにした。快復の兆しがまったく見えないこと、魔法省も闇祓いの警護を解除したこと、とうとう家出したシリウスがポッター家に居候させてもらう手筈が整ったこと。様々な事由が重なり、ある日、漏れ鍋の客室でシリウスから切り出したのだ。

「そろそろお父さんのところ帰ってあげたら」

いつかは帰らねばと、当然のことながら思っていた。だがひょっとしたら明日にでも、フィディアスが目を覚ますかもしれない。もしくは最悪の場合、その逆が起こることも。呪いの実体が分からない以上、次の瞬間には彼の身に何が起こるかそれは誰にも分からなかった。死に至る呪いではなかろうという癒者たちの見解も、あくまで推量に過ぎない。

「でも……」
「お前がリンドバーグのこと心配してるみたいに、お父さんだってお前のこと心配してると思う。俺が代わりに毎日様子見に行くから、だからお前は帰ってあげろよ」

ベッドのふちに並んで腰かけ、不安げに顔を上げた彼女の前にシリウスは小さな黒い布袋を差し出した。

「昨日ジェームズが貸してくれた。これ、持ってけ」
「……これ?」

中には予想通り、両面鏡の片方が入っている。彼は自分のものをズボンのポケットから取り出して安心させるように笑んだ。

「なんかあったらすぐ連絡する。だからこっちのことは心配すんな」

シリウス。手中の鏡をきつく握り締めて、その大きな胸に身体を摺り寄せた。横柄で、気分屋で、すぐにかっとなるところはいかにも子供らしいと思っていたのに。いつの間にか『男の人』になって、こんなにも大きな支えに。
日本に戻る直前に訪れた、フィディアスの病室で。
やはりシリウスが捨てたあのブラック氏のアレンジメントがあった窓際には、今はパステルカラーの小振りの花をつけた植物が置かれていた。母親が家の庭で育てているものの一部を鉢に移し、先日ジェームズが持ってきてくれたのだ。
コップに汲んだ水をやって陽のよく当たるところに移動させたところで、は病室のドアが開く音を聞いて振り向いた。ソファに腰かけたシリウスも、慌てた様子でそちらを見やる。現れたのはあの日マクゴナガルの肩を借りて黙って泣いていた、魔法法執行部のジェーン・ベンサムだった。
    フィディアスの……元、奥さん。

「こんにちは。魔法法執行部のベンサムです。お伝えしていた通り、移動キーをお持ちしました」
「あ……わざわざ、ありがとうございます」
「三時ちょうどに発動するようになっています。ご注意ください」

ベンサムは無表情で淡々と説明し、懐から取り出したコルクのようなものをすぐ傍にいたシリウスに手渡した。

「それでは、私はこれで」
「あの    ちょっと待ってください」

用件だけをすませ、素っ気なく踵を返そうとしたベンサムを、呼び止める。彼女は半分ほど振り向いて、気だるそうに聞いてきた。

「なにか」
「あの……少し、お話したいんですけど」
「話?」

まるで初めて聞かされる言葉だと言わんばかりの調子で、繰り返す。はひどく居心地の悪い思いをしながらも、なんとか顔を上げて問いかけた。

「ベンサムさんは……フィディアスとご結婚されてたんですよね?どうして別れたんですか?あのとき、泣いてらっしゃいました。フィディアスのことが嫌いになって別れたんじゃ……ないですよね?どうしてですか。どうして……ずっとここにいてあげないんですか?」

ドアノブを掴んだベンサムの右手が、きつく歪んで離されるのをは目撃した。苛立たしげに眉根を寄せて、ベンサムが呟く。

「仕事がありますので。失礼します」

が次に口をひらこうとしたときには、ベンサムは素早く扉の向こうに消えてしまっていた。足音がつかつかと遠退くのを聞きながら呆然とたたずむ彼女に、手中のコルクを見下ろしたシリウスが言う。

「仕方ねえよ。本人にしか分からない事情ってもんがあるんだろ」
「……そうかもしれないけど」

いまだ眠り続けるフィディアスの顔を覗き込んで、唇を噛む。ベンサムはちらりとも、彼のほうを見なかった。
家族なのに。家族だったはずなのに。誰もいなくて、ひとりぼっちで。

こちらの気持ちを察したのか、立ち上がったシリウスはすぐにの背を引き寄せて撫でた。

「俺が毎日くるから。少なくとも新学期が始まるまでは俺たちがついててあげられるだろ?その間に、目を覚ますかもしれない。そしたらまたクロス・プレスの有能なリンドバーグ記者の復活だ」

あのときだったら、また反発していたかもしれないけど。
弱々しく微笑み返して、は彼の温もりに応えるようにその大きな背中をそっと抱き返した。
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(08.08.15)