トランクを括りつけた箒に二人乗りというのは、あまり快適な旅とは言えなかった。ふらつきながら飛ぶたちの周りをすいすい動きながらジェームズがニタニタと笑う。

「それにしても見たかったなぁ、がシリウスの両親吹き飛ばしたってとこ!」
「ついでに俺も飛ばされたけどな」
「だからごめんって言ってるじゃないー」

後ろからしがみついたシリウスの耳元で声の限り、怒鳴る。シリウスの身体がふらつくと箒まで不自然に揺れるので、はさらに強く彼の背に縋りついた。かなり上空を飛んでいるため吹き付ける風が冷たく肌を刺す。

「それより私どうしたらいい?杖は使ってないけどなんか魔法使っちゃったっぽい!ねえ、これってなんか法的措置がとられるんだっけ?」
「まだ一回目だろ?警告ですむんじゃない?」
「警告!?ねえ、何回たまったらレッドカード?」
「レッドカードって何だ?」

不思議そうに聞いてきたシリウスが振り返ろうとしたので、また箒が揺れては悲鳴をあげた。

「シリウスあんまり動かないで!」
「何だよ、俺の腕を信用してないのか」
「そういう問題じゃなくて!だってこれ漏れ鍋の古い箒でおまけにシリウスのトランク重すぎるから!」
「あーあーほんと十七まで魔法使えないなんて最悪だよなー。こんなもんすぐに軽量化できるのに!」
「それなら警告覚悟で今のうちに軽くしちゃえばいいんじゃない?」
「あ、それもそうだな。ジェームズ、いいこと言った!」
「やめなさいってば!」

本気で杖を取り出そうとしたシリウスの手を叩いた拍子にまた箒がぐらついては泣きそうになった。ここから落ちたら……確実に死ぬ。ロンドンの町並みは遥か彼方、家々の明かりはまるで夜空に瞬く星のように彼女たちの足元に散らばっていた。でも、シリウスが元気になってよかった。ジェームズと合流して箒で空に飛び上がったあと、シリウスは屋敷での騒動が嘘のように嬉しそうだった。まるで自由に飛びたてることを初めて知った、鳥のよう。生き生きと、目を輝かせて。
このまま、三人でどこか遠いところに飛んでいけたらいいのに。

「ねえ、シリウスって箒上手なのに何でクィディッチチーム入らないの?」

ふと疑問に思って問いかけると、シリウスは怒られない程度に首を捻ってきょとんと瞬きした。

「なんだ、今さら持ち上げたって何にも出ないぞ」
「もう!そういうことじゃなくて!」
「じゃあ聞くけどピッチに立ってる俺って想像できる?」

逆に聞かれて、ははたと動きを止めた。ユニフォームを着て、歓声に沸くピッチに降り立つシリウス……。

「……できない」
「だろ?そういうこと」
「もったいないよなー!僕とタッグ組めばそれこそ最強だと思うんだけど!なあシリウス、今年は僕とビーターなんてやってみない?」
「うっせぇ俺はプレーには興味ねーの!それよりあれが欲しい。なんだ、あれ……えーと、ヒューに借りたあの雑誌の!マグルの、あれ!」
「オートバイ?」
「そう、それ!」

興奮した様子で振り向いたシリウスのせいでまた箒が左右に揺れた。

「ぎゃー!もうシリウス、動かないでって何度言わせるの!」
「落ちねえってそんなに心配すんな」
「ぐらぐらするのが怖いって言ってるの!」

高らかに声をあげて笑うジェームズと、時々わざと振り向いては揺れる箒の上で彼女の反応を楽しむシリウスと。 最高の友人たちと、こうして心から笑っていられること。

数え切れないほどの奇跡の重なりに、遠い星を見上げて感謝した。

(自転車もいいけど、箒はもっといいかも!)

I LOVE YOU

溢れる、夜

ジェームズは漏れ鍋の暖炉からそのまま実家に戻っていった。トムに借りていた箒を返して、シリウスといつものように二階の客室に上がる。シリウスは部屋に入るとトランクを脇に置いて、真っ先にベッドの上に大の字になって横たわった。気持ち良さそうに目を閉じて、黙ってを手招きする。

「ご機嫌だね」
「俺、今これまでの人生の中で最高に気分がいい」

がベッドに座って覗き込むと、瞼を開いた彼はにやりと笑って身体を起こした。

「ジェームズに感謝しないと」
「あんなに怒ってたのに?」
「だってそのおかげで    思い残すことなくあの家を出られた。お前があいつら吹っ飛ばしてくれたから、すげー気持ちよかった」

あれはわざとじゃないってば!と言い返したの唇を少し乱暴に塞ぐ。だがすぐに身体を離して、シリウスはポケットから何やら小さな箱を取り出してみせた。薄いブルーのリボンで飾られた、シンプルな。

「これ……遅くなったけど。前に言ってた、誕生日プレゼント」
「私に?」
「これで他の人宛てだったら俺ってひどい間抜けだな」

冗談めかして笑うシリウスに微笑み返してはその小箱を受け取った。軽い。なんだろう。

「ありがとう!ねえ、開けていい?」

少し照れた顔でシリウスが頷く。は逸る気持ちを抑えて、丁寧にリボンを解いた。箱の中から出てきたのは、それよりもっと小さな白い紙の包みがふたつ。なんだろう……すごく、どきどきする。そのうちのひとつを開けてみると、現れたのは四葉のクローバーをモチーフにした銀のヘアピンが二本。

「かわいい!シリウス、ありがとう!ねえ、ちょっとつけてみていい?」

今度はシリウスの答えを聞く前に、ベッドから飛び降りて鏡台の前に座る。何十分かの箒飛行でひどく風に吹かれたので髪はだいぶ乱れていたが、軽く手櫛を通してもつれた部分を解いてから、眉にかかった前髪をピンで留める。髪が邪魔なときはいつも百均で売られている黒いピンしか使わないので少し気恥ずかしかったが、はすぐに後ろからついてきて彼女の背後に立ったシリウスに呼びかけた。

「ねえ、似合う?」
「俺が選んだんだ。似合うに決まってるだろ」
「もう、真面目に答えてよ!」

拗ねた顔を作って鏡越しにシリウスを見上げる。彼は嬉しそうに微笑んで、後ろから彼女の首にそっと両手を回して抱き締めた。

「似合ってるよ」

その声が、眼差しが。抱き締められた熱が肌を伝って彼の鼓動を直接の胸に響かせる。どきりとして思わず目を逸らしてしまったは、慌ててもうひとつの包みを見下ろして尋ねた。

「ねえ、こっちも開けていい?」
「うん?ああ……あの、そっちはさ。嫌なら……返してくれて、いいから」
「え?」

視線を上げて見やると、鏡面に映るシリウスの顔がどこか気まずそうに歪んでいる。聞き返そうかと思いつつ先に包みを開くと、中から出てきたのは星を模った一対のイヤリングだった。

「かわいい!すごくきれい、ありがとう!……でも似合うかな。私こういうの着けたことないし……」

シリウスからの、プレゼント。嫌なわけないのに。こちらの喜ぶ顔を見て安堵したのか、シリウスは表情を緩めての手からイヤリングを取り上げた。

「絶対似合うって。着けてやるよ」

片方のイヤリングを摘んだシリウスの指先が、頬にかかる髪を掻き上げて右の耳朶に触れる。それだけでびくりと身を強張らせるを見て、シリウスは悪戯っぽく笑いながらあっという間に両のイヤリングを着け終えた。自分の耳元で、きらきらと反射しながら揺れる銀がまぶしい。けれどもどこからどう見ても、童顔の自分に似合っているとは思えなかった。

「……気に入らなかった?」

不安そうな声で聞かれて、かぶりを振る。自分の動きに合わせて激しく揺れたイヤリングが軽く頬を撫でた。

「ううん、そんなことないよ!すごくきれいだし、星型もかわいいし大好き。でも……ひょっとして、もっと大人っぽい人向きなんじゃないかなーなんて思っちゃって……」
「そんなことないって。似合ってる……と、俺は思うけどな」

の髪に指を通して後ろに流しながら、シリウス。彼はしばらく鏡の中にまっすぐの瞳を見つめていたが、やがてその頭に顔をうずめて小さく嗚咽し始めた。

「シリウス?」
「……

消え入りそうな声で、名前を呼んで。後ろから彼女の肩を抱き締めて、シリウスは囁いた。

「ありがとう」

それだけで。その一言だけで、愛しさが溢れ出てくるような。
肩に回されたシリウスの手をそっと握り締めて、は噛み締めるように静かに目を閉じた。
身体の隅々を、時間をかけて優しく刺激されて。一番熱いところにシリウスの脈打つ鼓動を感じたとき、はじきに訪れる激痛を覚悟して彼の背中にきつく腕を回した。異物を押し込まれて悲鳴をあげる身体が快感を覚えるにはまだ早すぎて、今はただ痛みをこらえるのに必死だけれど。
一生懸命感じさせてくれたシリウスのことがたまらなく愛しくて、彼にももっと感じてほしくて。ときどき動きを止めて、大丈夫?と聞いてくれる彼の思いやりに、涙が溢れそうになるほどの幸せを味わった。シリウスだから、安心できる。信じて、すべてを委ねられる。シリウス……。

……」

不意に顔を近付けてきたシリウスが、唇を合わせながら絞り出すようにして言った。

「愛してる」

そんな言葉を聞いたのは初めてだったので、はこれまでのものとは違う熱がまた身体の芯から込み上げてくるのを知って、思わず熱い息を吐いた。その潤んだ灰色の瞳を覗き込んで、答える。

「……私も」
の言葉で聞かせて?俺のこと……愛してる?」

彼がこんなにはっきりと念を押すのは珍しい。
はそっと伸ばした手で汗ばんだ彼の頬をなぞりながら、微笑んだ。

「うん……愛してるよ、シリウス」

どうしてこんなに、素直になれるのだろう。シリウスがこんなにも傍にいて、抱き締めてくれる。今まで知らなかったシリウスのこと、もっと身体中に感じて。
どれだけ言っても足りないくらい    私、シリウスのことが。
「ねえ、前から気になってたんだけど」

二人してぐったりと眠り込んだあと、どちらかが先に起き上がって相手の寝顔を夢見心地で眺める。そして相手が目を覚ましてから、のんびりとふたりで話をする。している間も好きだけど(感じてるシリウスの顔がすごく好き)、こうして終わったあとにゆったりとふたりで過ごす時間も、大好き。

「『パッドフット』って何?」

聞くと、彼は暗がりの中でこちらの顔を覗き込んだまま、意味ありげに目を細めた。

「何だと思う?」
「最近ちょくちょく使ってるよね?あだ名。ジェームズたちと四人で、ええと、何だっけ?パッドフット、プロングス、ムーニーと、あとそれから……」
「ワームテール?」
「あっそうそう、それ!リーマスだけは分からなくもないけど……でもそんなあだ名つけちゃっていいのかなってずっと思ってた」
「まーな。でも俺たち、満月の夜は笑い飛ばすことにしてるんだ。ほんとはお前にもちゃんと言いたかったんだけど……その、しばらく話せなかったから」

ばつの悪い顔で笑ってから、ブランケットの中で軽く上半身を起こす。

「なあ、五秒でいいから目閉じて」
「え?なんで?」
「いいから、五秒」

小さな子供が急かすようにして言ってくるので、仕方なくは横になったままそっと目を閉じた。いーち、にー、さん、しー、ご……。

「もういい?」

返事がない。しばらく待ってもシリウスは何も言わなかったので、不審に思いながらもはゆっくりと目をひらいた。すると。
先ほどまで確かにシリウスがいたところに、大きな黒い何かが丸まって鎮座していた。な、何これ!

「えっ……シ、シリウス?」

シリウスが、いない。起き上がったはブランケットで露出した肌を隠しながら、迷子になった子供のように辺りをきょろきょろ見渡したが、不意に目の前からワン!と吠え声が聞こえたので初めてその黒い物体が犬であることに気付いた。犬……まさか?

「シ……シリウス、なの?」

手を伸ばして枕元のランプをいじりながら、問いかける。少し明るくなった室内でベッドの上に座り込んだ黒犬はがやっと抱えられるほどに大きく、そのふさふさの尻尾を嬉しそうにぱたぱた振ってこちらを見上げてきた。きれいな黒い毛並み、すっとした体躯、灰色の瞳……それは確かに、紛れもなく。

「すごい!ほんとになれたの?すごい!ぱっと見ても全然分かんない、ううん、よく見たらシリウスだけど……でも、分かんない!すごい!」

ますます嬉しそうに尻尾を振って、黒犬が突き出した鼻先をの口元に寄せる。その細かな毛が鼻の下を撫でて、彼女はあまりのくすぐったさに零れるように笑った。

「シリウス、すごい!犬ってぴったりかもね。うわーすっごい気持ちいい」

伸ばした腕でその大きな身体を抱き締めると、滑らかな毛の流れが皮膚を心地良くすべる。しばらくその背中を撫でていると、急に熱い舌で左の耳朶を舐められては小さく悲鳴をあげた。

「もう、びっくりするじゃない!ちょ……やめてってば!ねえシリウス!」

必死に訴えかけても犬だからということなのかまったくシリウスは聞く耳を持たず、しきりに彼女の耳元を舐めてついにはその大きな肉球でを布団の上に押し戻した。
だが、変身というものはほんの一瞬で完了するらしい。次に瞬きしたときにはこちらの身体に覆い被さっているのはあの大きな犬ではなく変身前と同じシリウス・ブラックその人だった。

「なあ、俺の変身完璧だった?」
「か……んぺきだったかもしれないけど、犬にあんなふうに押し倒されるなんて人間としての尊厳を傷付けられた気分。ひどい」
「ごめん。でも俺だから」
「分かってるけどだって犬だったもん」

ふて腐れた顔でそっぽを向くの頬に口付けて、シリウスはもう一度ごめんと繰り返した。

「他のみんなも完成したの?」
「ああ。ほんとは俺とジェームズはもう何ヶ月も前からできるようになってたんだけどさ。ピーターのやつがなかなかうまくいかなくて手こずってた」
「でもできるようになったんだ?すごい……ねえ、ジェームズは何になった?ピーターは?」
「当ててみろよ。ジェームズはプロングス、ピーターはワームテールだ」

うーん……何だろう。プロングス。プロング。爪、角……。

「分かった、鹿だ!」
「当たり。それじゃあワームテールは?」

ワームテール?ミミズの尻尾……ミミズ……。

「ま、まさか、ミミズ?」

恐る恐る問いかけると、まるで犬がじゃれつくようにこちらの顔のいたるところに鼻先を押し付けていたシリウスは隠しもせずに噴き出して笑った。

「ミミズ!まああれくらい単純な組織だったらあいつでももっと早く完成してたかもな」
「そんな言い方したら可哀相だよ。ねえ、分かんない。ピーターは何?」
「当てらんなかったからそれはお預け。そのうち見せてくれるかもよ。ま、あいつ緊張したらあがりやすいから失敗覚悟でな」
「えー、何それ。いいじゃない教えてよ」
「だってそれじゃ面白くないだろ?」
「けち!シリウスなんか嫌い。だいっきらい」

覆い被さるシリウスに舌を突き出して言い放つと、彼は少なからずむっとした様子でこちらの顎を掴み、顔を背けようとする彼女の口を塞いで深く舌を絡めた。ぞくりとするような艶のある声で、

「なあ、二度と俺のこと嫌いなんて言えないようにしてやろうか?」
「……お望みなら何回でも言ってあげる。きらい、シリウスだいっきらい。きらい、きらいきらい」
「言ったなこのヤロ」

もう一度唇を重ねたシリウスがブランケットの脇から手を滑り込ませて剥き出しの肌をなぞっていく。声を出したら負けだと思い、はきつく目を閉じてひたすらに嫌い嫌いと唱え続けた。
シリウスが好きと言わせようとむきになっているのが可愛くて抗い続けたのかもしれないと気付くのは、もう少しあとになってから。
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(08.08.06)