「ね、ねえ……僕、気付かれなかったみたいだけど一体どうしたらいいかな?」
「お前は死んどけ、クソ眼鏡」
冗談ではなく本気でそう呪いながら、シリウスは嘆息混じりにうめいた。こんなところでにキスされるとは思ってもみなかったので一瞬意識が飛びそうになったが、考えてみればそれどころじゃない。だぞ?マグルボーンでないにせよ魔法界の常識に欠けたところのある彼女をうちの両親が認めるはずはないし、そもそもロジエールの馬鹿の話を鵜呑みにしてすでに母親は彼女のことを九割方マグルボーンだと思い込んでいる。帰ってきたときに母親と大喧嘩したのも彼女の生まれや育ちはたまた奔放な性癖(と母親が勝手に思い込んでいる)に焦点が当たったからで、あのクソババアはしきりに、穢れた血にたぶらかされて勝手に家を留守にするなんてとんでもない、どうせあの手この手で我らがブラックの名声と財産を狙っているのだろうまったくどうしようもない女狐だそんな女に引っかかるなんてブラックの息子として恥ずかしくないのか骨肉の恥めとのたまった。これで家出するなというほうが無理じゃないか?
自分のことならばとっくに慣れていた。俺だって自分が寛容だなんて言うつもりはないが、自分を蔑まれるだけならまだ耐える術をいくらか身につけていた(そうでなければこんなところで二ヶ月も過ごせるはずがない)。けれども彼女を、この俺が何に替えても護りたいと思えたをあれだけぼろくそに言われて耐えられるものか。ただでさえリンドバーグのことで彼女はダメージを受けている。こんなことでこれ以上彼女を苦しめてたまるか。
(お前にだけは会わせたくなかったのに……)
もう一度嘆息して、シリウスは扉の向こうで所在無くたたずむジェームズを鋭く睨みつけた。
「とにかくあいつのことは俺が何とかする」
ぎこちなく頷いてみせた相棒に、さらに、
「だからお前はどっかそのへんで待ってろ。必ずと一緒に行くから」
Point of No Return
さらば
通された地下のキッチンは粗い石造りの壁で、真ん中に置かれた長い木のテーブルには二人の人物が座っていた。入り口でを迎え入れたブラック氏が、その二人を示して紹介する。
「妻のヴァルブルガに、息子のレグルスだ。レグルスはひょっとしたらホグワーツで会ったかもしれないね」
「……はい、何度か。レグルス、お久しぶり」
弱々しく笑いながら声をかけると、鋭い眼差しでこちらを睨みつけていたレグルスはすぐさま目を逸らした。その向かいに腰かけた中年女性は、あからさまな嫌悪と侮蔑の色を浮かべてじっとを見据えている。食器はすでに片付けられて二人の前には銀のゴブレットとティーカップが置かれているだけだった。
「こちらはシリウスのお友達でミス・。リンドバーグ氏の縁だそうで今日の見舞いのお礼にとわざわざお越しくださった。レグルス、父さんのお客様だ。悪いが少し外してくれないか」
「はい……分かりました。失礼します」
立ち上がったレグルスは母親と父親とに慇懃に挨拶して、こちらに向けて歩き出した。すれ違う寸前に一瞬だけを横目に睨んでから、そのまま厨房を立ち去る。妻だけが残ったテーブル、先ほどまでレグルスが座っていた椅子の隣にを誘って、ブラック氏はしもべ妖精を呼び寄せた。
「クリーチャー、お客様にお茶とケーキをお出ししなさい。ああ、それともバタービールのほうがいいかな?」
「いえ、お茶で結構です。お気遣いありがとうございます」
パチンと音を立てて現れたクリーチャーは、まるでブラック夫人と同じような目をしてを睨みながらも、主人の命には背けずにおとなしく紅茶とチョコレートケーキを出した。うわ、さすがしもべ妖精……すっごく美味しそう!
「ありがとうございます。あの……今日は本当に、素敵なお花をありがとうございました。これは、ほんの気持ちですが」
「ああ、いや、こちらこそほんの気持ちばかりで。どうもありがとう」
テーブル越しにが差し出した紙袋を受け取ったブラック氏は、やはり口元だけで笑いながらそれをしもべ妖精に手渡した。恭しく受け取ったクリーチャーは再びパチンという音とともに姿を消す。ブラック氏は妻の隣の椅子にゆったりと腰を下ろした。
「それで、リンドバーグ氏の容態はどうなのかね。退院の目処はしばらくつかないと聞いているが」
少しミルクを入れた紅茶に口をつけたはそっと瞼を伏せながら首を振った。
「はい……呪文性疾患だそうですが、まだ原因も掴めないそうです。しばらくは無難な処置を続けて、様子を見るしか」
「そうか、それは心配だね」
さほど心配でもなさそうな声音で、ブラック氏。はどうもこの家の人たちとは仲良くなれそうにないとこの時点ですでに痛いほど感じていた。けれど、ここで諦めたらジェームズの気遣いもシリウスをやきもきさせてしまったこともすべて無駄になる。なんとかシリウスの話をするきっかけが掴めれば。
「ときに、えー……ミス・?」
敢えて名前を間違えようとして間違い損ねたような奇妙な間をとって、ブラック夫人が話しかけてきた。ひどいプレッシャーを感じて、は乾きかけた喉に紅茶を流し込んで顔を上げる。相変わらず蔑むような目付きでこちらを見据える夫人の黒い瞳と目が合った。
「……はい」
「リンドバーグ氏の縁ということですけど、どういった?リンドバーグは、まあそれなりにしっかりした魔法使いの家系だと認識しておりますが?」
そうだったの?きょとんと目を開いたを見て、夫人はますます嘲りの色を濃くした。そんなことも知らなかったのかとばかりに肩をすくめてみせる。これが本当にシリウスの家族かと訝り、戸惑うがようやく口を開こうとしたとき、キッチンのドアが乱暴に開け放たれた。
「リンドバーグは俺たちの先生だった。慕って何が悪い。のお母さんはホグワーツでリンドバーグの同級生だったんだ」
「シリウス、彼女は今は私のお客様だ。お前は外しなさい」
「嫌だね。俺の同席を許さないっていうんなら俺は今すぐをここから連れ出す」
戸口に立ったシリウスは断固として動かない姿勢を見せ、呆れたように嘆息したブラック氏は掛けなさいと投げやりに言った。フンと鼻を鳴らして、後ろ手に扉を閉めたシリウスがこちらに近付いてくる。彼はの左隣の椅子を引いて座り、視線だけはまっすぐに眼前の両親を見据えたままテーブルの下でそっと彼女の手を握った。どきりとして見上げると、少しだけこちらを向いて微笑みかけてくれる。シリウス……ごめんね。私の勝手でこんなところまで踏み込んできて、こんなにも心配させて。握るシリウスの手が、微かに震えている。それを包み込むように握り返して、は前を向いた。ほんの僅かに見せていたお愛想程度の夫人の笑顔はもはや見る影もない。
「はい、息子さんのおっしゃる通りです。リンドバーグは死んだ母の同級生で、彼は私のことも何かと気にかけてくれていました。彼にはもう家族はいません。だからせめて私が……傍にいてあげられたらと思って」
「でも日本にはお父様が待ってらっしゃるんでしょう?えー、あー……確か、マグルの?」
口にするのもおぞましいとばかりに顔を歪めて、夫人が言う。さすがにむっとして眉をひそめると、シリウスの手が力強くの左手を握り締めて彼は声を荒げた。
「お父さんにはちゃんと伝えてある。俺が責任を持って日本に帰らせるって約束した」
「まあ、シリウス!あなたマグルと話をしたの?よくもまあそんな
」
「マグルだから何だってんだ。のお父さんはあんたたちなんかよりずっとできた人だ!」
「まあ……よくもそんなことが……」
「『責任』」
怒りに声を震わせてうめいた夫人の声を遮ったのは、どこまでも落ち着いた様子のブラック氏だった。歯痒そうに唇を噛んで、夫人は口を噤む。ブラック氏は冷ややかな視線を長男に投げつけて嘲笑った。
「『責任』
その言葉の意味をお前が知っているとすれば驚きだな」
「……何?」
「お前はブラックの嫡男として果たすべき責務からずっと逃げてきたではないか。責任などという言葉は果たすべきものを果たした者だけが口にするべきだ。そうは思わんかね、ミス・?」
まさかここで矛先が向いてくるとは思わなかったのでは驚いて顔を上げたが、シリウスの手の力がさらに強まって彼女に発言を許さなかった。
「ブラックの嫡男として果たすべき責務?知ったことか。あんたたちは何もかも押し付けるばかりで俺の言うことは何ひとつ聞いてくれなかったじゃないか」
「話を聞いてもらいたければまずは教えたはずの口の利き方を思い出せ。そんな野蛮な言葉しか知らんとあってはどこにも紹介できないだろう。私はそのための言い訳にいつも苦労しているんだ」
「……俺は見世物にされるために生きてるんじゃない!」
溜め込んでいたものを吐き出そうとしたのか。吠えるような低い音を出してシリウスが怒鳴り散らした。その衝撃がそのまま胸を揺さぶるようで、は彼の手を握り締めたまま横を見たが、シリウスの潤んだ瞳はまっすぐに両親を捉えて瞬きもしない。眉間にしわを刻んだブラック氏はそこで初めて憤りを声に表した。
「無駄に吠えることしかできん若輩が、知った口を利くな。自分が常に正しいと思い込むのは愚かな獅子の悪癖だな。自分は見世物ではないと?何のために生きているかということは与えられた責務をこなした上で後になって初めて理解できるものだ。お前に生の意味を説く資格などあるか!」
雷に打たれたような顔をしてそのまま言葉を失ったシリウスを見て、とうとうは耐えられなくなった。僅かに身を乗り出して、声をあげる。
「待ってください!シリウスは……息子さんは、ただ認められたかっただけなんです。考え方は違っても、家族でしょう?どうして分かり合えないんですか?認め合えないんですか?認められればシリウスだってもっと、違う接し方があるかもしれないのに」
「穢れた血が我が家の事情に口を挟むなんて、まったくどこまで図々しいのかしら!」
「をそんなふうに呼ぶな!」
空気を震わすような怒声で叫びながら、シリウスは椅子を蹴散らして立ち上がった。同時に離された両手を握り締めて、はシリウスと彼の両親とを交互に見やる。夫人は怒りでその白い顔を染めながらこちらを睨みつけて怒鳴った。
「いいえ、言わせてもらうわ。こんな非常識な時間にアポもなく突然訪ねてきて、穢れた血がブラックの屋敷を蹂躙した上に家庭の事情にまで図々しく口出しして!」
「のお母さんは魔女だって何度言えば分かるんだこのクソババア!」
「お黙りシリウス!それも所詮は卑しいマグル生まれでしょう。お前が騙されるくらいだからさぞや見栄えだけはいい娘だろうと思ったけどこれではね!まったく、お前には何から何まで失望させられるわ」
「
黙れ!は俺には過ぎた女だ。これ以上の女は後にも先にも絶対に現れない。の良さが分からないなんて可哀相な連中だな!」
「シリウス……やめて!私のことはいいから……そんなことどうだっていい」
シリウスの言葉が嬉しくて。けれどもますます悲しくなって。彼の手をきつく握り締めて、必死にかぶりを振った。
額に手を当ててうんざりと息を吐いて、夫人がうめく。
「こんな女にここまで心酔するなんて……こんなことになるくらいなら、お前なんて初めから生まなきゃよかった。高貴なブラックの汚点を、まさかこの私が作ることになるだなんて!」
ひらいたシリウスの目が呆然と見開かれたそのとき、の中で膨れ上がった何かが噴き出して突然キッチンに強大な旋風を巻き起こした。浮き上がったテーブルがそのまま向こうのブラック夫妻を薙ぎ倒して転倒する。そのあまりの風力にシリウスの手を繋ぎとめておくことができず、は彼もまた吹き飛ばされて後ろの壁に激突するのを見た。自分でも何が起きたか分からずあたふたと周囲を見渡したが、頭を打ち付けたらしいシリウスが床に倒れ込んで唸っていたので急いでそちらに駆け寄る。いつの間にか風は収まり、あとに残ったのは横転した木のテーブルと数々の椅子、割れた食器、そして息子と同じく床に倒れたブラック夫妻だった。
「シリウス……大丈夫?ごめん、私……何がなんだか……」
「いっ、たたた……いや、大丈夫、大丈夫だ。それより今の
お前が?」
「……わ、分かんない。急に……私、ガマンできなくて……ごめん……」
生まなきゃよかったなんて、そんなの。そんなのってない。シリウスは確かに生まれて、今もここにこうして存在しているというのに。覗き込んだ彼女の頬を、倒れたままのシリウスが手を伸ばしてそっと撫でたとき、は初めて自分が泣いているということに気付いた。
夫に支えられてなんとか上半身を起こした夫人が、信じられないものでも見るように転んだテーブル越しにこちらを見据える。
「な……今のは、まさか……分かっているのでしょうね?ホグワーツの外で魔法を使ったらどういうことになるか」
「そんなことどうでもいい」
吐き捨てるように切り返して、は涙のにじむ瞳でブラック夫人を睨みつけた。
「お腹を痛めて生んだ子供に……よくそんなことが言えますね。魔法の血筋がどれだけ尊いものかなんて私には分かりません。でも子供の幸せも祈れないようなそんな母親なんて、息子の生き方をとやかく言う権利なんかないと思います」
「な、何ですって?穢れた血の小娘
よくもこの私にそんな……」
「母親を名乗りたいなら子供にとって何が幸せなのか一緒になって考えるべきでしたね。シリウス、行こう!」
「行こうって……おい」
度肝を抜かれた様子で瞬いたシリウスの手を引いて、立ち上がる。ボロボロになったキッチンに背を向けて歩き出したところで不意に何かを感じ取って右に避けると、ちょうどそこを赤い光線が過ぎて目の前の扉を直撃した。
床に座り込んだまま杖を掲げた夫人が、大きく喘いで声をあげる。
「行かせないわよ、女狐……我がブラック家をここまで掻き乱して、ただですむと思っているの?」
「このクソババア、に怪我でもさせたら俺が許さねーぞ!」
「ヴァルブルガ、奴らの好きにさせればいい」
夫人が再び杖を振るおうとしたとき、それを遮ったブラック氏が冷ややかに呟いた。そのときの驚いた表情を見て、は一瞬シリウスと夫人が確かに親子なのかもしれないという思いに囚われた。
「でも、あなた
」
「これ以上ここにいてもあいつがこの先どうにかなるとは思えん。この屋敷を出たいというのならお前の好きにしろ。ただし、金輪際ここには戻ってくるな。ブラックの庇護を受けることは二度とないと思え」
振り向いたシリウスは一瞬言葉を失って立ち尽くしていたが、やがて決然とした面持ちで言い返した。
「そんなもの、こっちからお断りだ。、行こう」
こちらの手を取って厨房の扉をくぐったシリウスの指先は、もう震えてはいなかった。石の階段を上がって玄関ホールに上がり、そこに置かれていたの箒と、どうやら準備していたらしいトランクを持って玄関口に立つ。そこで振り返ったシリウスは生まれ育った屋敷を感慨深い思いで見渡しているのかと思ったのだが、彼はすぐに乱暴な声をあげてあのしもべ妖精を呼んだ。
「おい、クリーチャー!」
パチン、と音を立てて現れた屋敷しもべは二人の姿を見るなり凄まじい形相になったが、それを隠すように頭を下げて「ご用でしょうかシリウス様」とぼそぼそ呟いた。
「俺の杖を持ってこい」
「つ、杖でございますか?シリウス様の杖は奥様がお持ちになっていらっしゃいます……」
「知ってる。だがそもそも俺の杖だ。いいからすぐに持ってこい」
「ですが……」
「いいか、俺の名前はまだ家系図に載ってる。俺だって今はまだお前のご主人様だ。いいか、もう一度だけ言うぞ
最後の命令だ、今すぐ俺の杖を取ってこい」
「は、はい!」
怯えた様子で一礼して、すぐさましもべ妖精は姿くらましした。静まり返った玄関ホールで、はシリウスの顔を見上げる。
彼は弱々しく微笑みながら、の頬を冷たい両手で包み込んだ。
「そんな顔するなよ、」
「だって……ごめん、ごめんなさい、シリウス」
溢れ出す涙を止めることができずに、瞼を閉じる。すぐ目の前のシリウスの胸に縋って、彼女はかぶりを振った。
「ごめん……話し合えば分かるって、私、ずっと口ばっかりで。シリウスの苦しみ……何にも、分かってなかった。シリウス、ごめん……ごめんなさい」
「
。前にも言っただろ?俺、お前に話聞いてもらえるだけで、それだけで気持ちが軽くなるんだ。だから、そんなふうに言うな。お前が来てくれて……俺も、思い切ることができた。ありがとう」
言いながら、顔が見えるように少し身体を離したシリウスはの涙を拭ってからその口をそっと塞いだ。しばらく静かに唇を重ねていると、程なくしてパチンと音がして再びしもべ妖精が現れたので慌てて身体を離す。クリーチャーは醜いものでも見るように顔を背けながら、その手に掴んだ杖を渋々と差し出した。
「シリウス様の杖でございます」
「ああ……そうだ、これだ」
引っ手繰るように受け取った杖をポケットに仕舞いこむと、シリウスはもう思い残すことはないとばかりにドアノブを引いて足を踏み出した。そこへ駆ける足音を聞いて振り向くと、息を切らせたレグルスが玄関ホールの先に立ち尽くしている。シリウスもまたそちらを見たが、何も言わずに目を逸らそうとした。
「兄さん」
弟の、消え入りそうな声を聞いて。俯いたシリウスは、振り返らずに、ただ短くこう呟いただけだった。
「じゃあな」
そしてとうとう扉の向こうに飛び出した彼を追って、もまた振り切るようにして外の通りへと駆けていった。