父と共に兄が戻ってきたときの母の剣幕といったらなかった。最上階の僕の部屋まで怒鳴り声が聞こえてきたほどだ。だが兄は兄で負けじとまるで獣が吠えるような声を出して言い争ったので、僕はもう少しで部屋の扉に耳塞ぎの呪文をかけてしまうところだった。穢れた血、色づいた小娘などという単語が聞こえてきたので、争点は例のあのグリフィンドール生らしい。僕はうんざりと嘆息して、ティータイムの紅茶とスコーンを運んできてくれたクリーチャーに顔を向けた。
「兄さんはあの女とずっと一緒だったの?」
するとクリーチャーはいつもそうするように、深々と頭を垂れて少し興奮した様子で喋りだす。
「はい、レグルス様!ある魔法使いの見舞いで聖マンゴ病院に通っているというという穢れた血とご一緒であられたようです!奥様はお怒りになってシリウス様の杖をお取り上げになりました!」
「リンドバーグのことだね?」
「申し訳ありませんレグルス様、その魔法使いの名前をクリーチャーめは聞いておりません!」
「ああ、いいんだ。僕は新聞で読んだから」
教科書の山と一緒に机の上に置いていた大判のノートを持ち上げて、一番新しいページを捲る。そこには二日前の予言者新聞の第一面を切り抜いて貼り付けてあった
『ついに魔法省のお膝元ロンドンで髑髏に喰われたのは、ホグワーツで二年前に闇の魔術に対する防衛術を担当していた、フィディアス・リンドバーグ(34)。かの由緒あるクロス・プレス社の中でも最も名高い記者のひとりであり、その才能は各界から惜しまれている。一命は取り留めた模様だが、現在、聖マンゴ魔法疾患傷害病院の長期療養病棟にて治療中。』
ふん。あの頃から、いけ好かない男だと思っていた。どうでもいいようなところで加点したかと思えばどうしてここで点をくれないのかと疑問に思うところは放置したりする。レイブンクローの出身だと聞いたが絶対に嘘だ。どうせつまらない主張とやらをして『あの人』の不興を買ったのだろう。不思議なのは、杖まで奪っておきながらどうして命は捨て置いたかということだ。だがそれもきっと明確な意図があってのことに違いない。
魔法の血の尊さを掲げ、高らかに革命の始まりを謳い上げた卿
。
いつか必ず、この手をもってすべてを捧げる日を夢見て。
Grimmauld Place, London
シリウスの生家
まさか
だろ?手の内の鏡には、もう彼女の瞳は映っていない。胸騒ぎを覚えて、彼はその両面鏡をこれ以上ないほどに強く握り締めた。ただひんやりした痛みが返ってくるだけだと知っていても。
(私が行くまで絶対そこにいて)
『私がそこに行く』?あいつ今、何て言った?あいつが来る?ここに?
冗談じゃない。どうしてあいつがこんなところに来るっていうんだ?おれはこの屋敷で生まれた。育った。この腐りきった空間で、純血が、ブラックという魔法の誇りが最上のものだと信じて。その過ちに気付かせてくれたのはジェームズだ。血統を守ることよりも、ずっと大切なことがある。
ハーフブラッドのジェームズは、小さい頃から憧れの存在だった。何物にも囚われず、自由に羽ばたいて。そしてそんなジェームズとあっという間に打ち解けてしまった彼女もまた、マグルの父親との混血で魔法の存在すら知らずに育ち、ある意味でマグルボーンといってもいい。けれども二人とも、俺にとってはただただ眩いばかりの太陽のような存在だった。生まれ、育ち?そんなものはどうでもいい。俺に必要なのはむしろ、自分という存在そのものを認めてくれる人間だった。この屋敷の人間にとって俺は、もう自慢のシリウス坊やではない
。
(あいつがここに来るって?)
冗談じゃない。幾度となく繰り返して、彼はイライラと唇を噛んだ。・。ジェームズの親友。少し小柄で華奢な日本人。マグル育ち。変身術と闇の魔術に対する防衛術が得意で、魔法史と魔法生物飼育学、それに古代ルーン語が好き。けれども五年生のときはOWL対策で途端に難しくなった教科書と毎日のように格闘して、よくふらふらになっていた。どんなときでも、一生懸命になれる女の子。
俺の
大切な。
女なんて、正直なところ連れ歩くためのブランドとしか思っていなかった。もしくは欲望を満たすためだけの身体。どうせ誰にも分からない。俺の心を蝕むこの孤独を誰にも分かってもらおうなんて思わなかった。心ももっと近付きたいのだと、言ってくれた女がいた。だがそう言われると、急に重苦しくなってくる。そしてブラックの名を挙げて持ち上げようとした女には、その場で別れを告げた。
何かを満たすために女を抱くのだ。だが吐き出してしまったあとに残るのはいつも、胸にぽっかり穴の開いたような空しさばかり。自分が何をしているのか分からなくなった。そんなときはジェームズたちのところに戻って馬鹿みたいに騒いで、自分が確かにここにいるのだということを身体中で確かめていた。
けれども、彼女だけは違った。一年生のときから、いろいろあったがいつもそれなりに近くにいた。近すぎず、遠すぎず。どうして気付かなかったのか
だがそれだけの時間を、無意識に傍にいたという事実が俺に素直な気持ちと自信をつけさせてくれた。彼女にならば聞いてもらいたいし、彼女ならば聞いてくれると心からそう信じた。そして信じた通りに耳を傾け、受け止めてくれた彼女のことを初めて愛おしいと思った。
それからというもの彼女のことが頭から離れなくなって、もっと知りたい、彼女の傍にいたいと。こらえきれなくなって抱き締めたあのときも、彼女の反応は他のどんな女とも違ったものだった。嬉しかった。とならば、この先もずっと一緒にいたい
たとえそれが、どんな形になったとしても。
初めて彼女を抱いた、あの夜。こんなにも緊張するものかと驚いた。久しぶりだったからとか、そんなことじゃない。彼女のことは、大切にしたいといつも思っていた。だからずっと我慢してきたし、リンドバーグのことでショックを受けてひどく疲れていた彼女を抱きたいなんて、夢にも思っていなかった。俺が耐えればそれですむ。けれどもまた俺の家族の話を聞いて宥めてくれた彼女が、我慢せずに泣いていいと言ってくれたときはもう抑えられないと思った。彼女のことを知りたい
その小さな身体の、奥まで。
初めてだからちょっと怖い、と言った彼女に、最後の理性を振り絞って「だったらやめる?」と尋ねると彼女は恥ずかしそうな顔で首を振った。それがあまりにも色っぽく、俺の知っているではないようで。小指の先ほどに残った理性と愛しさとでブレーキをかけながら、怯える彼女の身体に少しずつ指先を滑らせていった。
あまりの痛みと羞恥に涙を流して喘ぐの顔を覗き込んで、後ろ暗さを感じなかったとはいわない。大切な彼女が苦しんでいるときにこんなことをすべきではなかったのではないか?けれどもそれ以上に昂ぶった欲望が俺の肉体を支配して、濡れた彼女の目尻に唇を寄せながら腰を動かした。そしてすべてを終えたあとに俺の腕の中で丸くなって眠る彼女の表情が幸せそうに緩むのを見て、俺は絶対に彼女を失いたくないと思った。彼女を傷付け、そしてつらい思いは絶対にさせたくないと。子供のように泣き出した俺を彼女が包み込んでくれたように、彼女がつらいときには必ず俺が包み込んであげられたら。
彼女が俺のことを思ってこの屋敷に送り返したのだということは分かっている。彼女はいつだって家族は分かり合えるはずだという信念を持っていて、俺もいつの日かこの『家族』に受け入れられるはずだと思っている。俺だってそう思いたかった。口ではもう諦めたと言っても、本当はいつか子供の頃のように迎えてくれるのではないかと。けれども、よく分かった
もうこの家で、誰も俺には期待をかけていない。存在しないも同然なのだ。いや、いっそ本当に存在しなければ。
(俺には無理だったんだ、)
でも、それでいい。俺にはお前がいてくれるから。がいれば、そしてジェームズがいてくれるなら。俺をこの孤独から掬い上げてくれた、あの二人がいてくれるのならば。だから杖を取り戻して必ず帰る。お前の、ジェームズのいるところに。だから。
(お前のほうこそ早まるな、馬鹿!)
意を決して彼は机の前から離れた。とりあえずはいつでも飛び出せるように、覚悟を決めて荷造りをしなければならない。
「……ねえ、本気で押しかけるつもり?」
「嫌ならどうぞ先に帰って。私ひとりでも行くから」
「冗談!君を置いてひとりでのこのこ帰れないよ、本気であいつに殺されちゃう」
真っ青な顔でかぶりを振ったジェームズはの後ろで重々しく嘆息して冷や汗のにじむ額を撫でた。ふたりはそれぞれ漏れ鍋で借りた古い箒を手にして、すっかり暗くなった小さな広場の中に立っている。周囲の家々はあちこちの窓ガラスが割れていたり、ドアのペンキが剥げかけたりしていてかなり廃れた様子だった。魔法界の名家『ブラック家』ということで、は広々した豪華な屋敷を想像していたのだが、一見してそれらしい家は見当たらない。
「こんなところに『ブラック家』があるの?」
「うん、まあ、ごみごみしたロンドンに住もうと思ったらこういうところしかないさ。魔法使いは魔法使いとして生きるならマグルからは隠れて住まないといけないっていう規則があるから。見てて」
ジェームズは広場を出て目の前の細い道路を突っ切り、とある家と家との境に立った。後ろから追いかけてきょとんとしているを振り返ってニヤリと笑ってから、
「十二番地」
十二番地?はもう一度瞬きしてから周りの家を見渡した。ジェームズが立っているのは、十一番地と十三番地の間。そこにはつまり、何もない。
どういう意味?と聞き返そうとしたところで、再び前に向きなおったジェームズが一歩、二歩と足を踏み出した。すると十一番地と十三番地の間に、まるで両側の家を押しのけて膨れ上がったかのように、どこからとこなく古びた重厚な扉が現れた。あまりの出来事にぽかんと口を開けて固まったの手を引いて、ジェームズが磨り減った石段を上がる。
「ブラック家の屋敷はここにこうして隠されてるんだ。十二番地にある、そのことを知っている魔法使いしかここにはたどり着けない」
な……なんて魔法。黒いペンキが塗られた扉には訪問客用のドアノッカーがついていて銀の蛇がとぐろを巻いた形だ。もともと爬虫類は苦手だが、どういうわけかはそれを見て胸の奥がずきずきと疼くような気がした。
ドアノッカーに手をかけようとしたジェームズを見て、思わず声をあげる。
「待って」
「えっ?」
虚を衝かれた様子で振り向いたジェームズに小さく首を振って、
「用事があるのは私よ。私が先に行く」
「でも……」
「ポッターなんて言ったら鼻先で追い返されるのがオチじゃない?私は一応、言い訳があるから」
言いながら、箒とは逆の手に握った紙袋を掲げる。ジェームズはしばらく不安そうな顔をしていたが、そうかもねと言っておとなしく後ろに下がった。
「だけど僕も一緒に入るよ?君ひとりになんて行かせられないから」
「ありがとう。そうしてくれると……心強いよ」
弱々しく笑い返して、はあらためて扉に向きなおった。ドアノッカーを見やると、再びぞわぞわするような奇妙な感覚を覚えるが、振り払うように息を吐いて手を伸ばす。そして掴んだそれを、力を込めて二度、鳴らした。
ああ、やってしまった!でも……落ち着け、。家出しようとするほど、シリウスは追い詰められているのだ。おめおめと漏れ鍋なんかで待っていられるものか!
やや間があって、返ってきたのは想像だにしなかったしゃがれ声だった。
「はい、どちら様でしょう?ブラックの皆様はただいまお食事中でいらっしゃいます」
なっ何者!?口振りからして召使いとかそういった人物だろうか。さすが、由緒ある名家は違う。
「屋敷しもべだよ。ほら、ホグワーツの厨房にもいるだろ?」
戸惑う彼女の耳にこっそりとジェームズがささやいた。ああ、あの。一度だけジェームズとシリウスに連れられて覗いたことがあるが、こんなにも年寄りじみた声は聞いたことがなかったのでまったくイメージが結びつかない。不自然な間が空いてしまったことをごまかすように咳払いしてから、は言葉遣いに気をつけて名乗った。
「夜分に失礼します。わたくし、と申します。本日知人のお見舞いにブラック様よりご立派なお花を頂戴しまして、ささやかですがお礼にと。このような時間になってしまい本当に申し訳ありません」
すると、警戒するようにゆっくりと、ほんの少しだけ開いたドアの隙間から顔を覗かせたのは、コウモリのような大きな耳からふわふわした毛を生やした禿げ頭のしもべ妖精だった。その灰色の目は不審に満ちて、上から下まで何度もじろじろと、そしてその背後のジェームズを見やる。
「ブラックの旦那様はただいまお食事中でございます」
「あ……そのようですね。ですがぜひ直接お会いして、お礼を申し上げたいと存じます。取り次いでいただけないでしょうか?」
「『』……穢れた血……奥様が仰っていらした……なんと非常識な……」
「はマグル生まれじゃないし、二度とそんな口を利くな、クリーチャー」
しもべ妖精の小さな身体がひょいと宙に持ち上げられたかと思うと、扉の隙間から垣間見えたのは嫌悪に歯噛みするシリウスの姿だった。思わず呼びかけると、彼はクリーチャーという屋敷しもべを無遠慮に後ろに放り投げて、凄まじい剣幕で眼前の扉に手をかけた。
「馬鹿、何しにきたんだ!ジェームズてめぇ余計なことしやがって!」
ひっ、と悲鳴をあげてジェームズがそそくさとの背中に隠れる。はシリウスのほうに身を乗り出して負けじと眉間に力を入れた。
「だってシリウスが馬鹿なこと考えるからでしょ!ちゃんと話し合ったの?諦めないで!」
「ジェームズ、だからこいつには言うなってあれほど……」
「や、いやでもシリウス、きっとなら事後報告でも同じことをしたと思うね、うん」
「それが言い訳かコラ」
シリウスが険悪に舌打ちして再び口を開きかけたとき、さらにその奥からどっしりしたあの声が聞こえてきては息を呑んだ。
「これはこれはミス・、このような僻地にお越しくださるとは。シリウス、わざわざ御足労くださったお嬢さんを戸口で追い返すほどお前は無作法なのかね」
「あんたには関係ないだろ。こいつはすぐに帰る、だからあんたもさっさと下に
」
「ブラックさん。私はあなたにお礼が言いたくて参りました。素敵なお花、気付きませんで大変失礼をしました」
目を丸くしてこちらを見やるシリウスは無視して、告げる。ブラック氏は面白そうに目を細めて大仰に腕を広げてみせた。
「聞いた通りだ。シリウス、彼女は私のお客様だ。歓迎しよう、ミス・。我々はたった今食事を終えたばかりだが夕食はお済みかな?」
「ありがとうございます。食事は先ほど済ませてまいりました」
「では何かプディングでも出させよう。クリーチャー、頼んだよ」
ブラック氏の後ろに控えたしもべ妖精はまるで今すぐ水に飛び込んで死ねと言われたかのような顔をしたが、すぐに深々とお辞儀してパチンと姿くらましした。
「さあ、どうぞこちらへ。シリウス、お嬢さんの箒をお預かりしなさい」
「
」
ブラック氏に導かれてようやく玄関に入ったは、箒を受け取ったシリウスが小声で呼びかけるのを聞いてふと足を止めた。ブラック氏が背中を見せている間に、シリウスの唇にほんの一瞬だけ口付けてささやく。
「お願いだから一度だけ、あなたのご両親と話させて」
そして父のあとに従って歩き出した彼女を、シリウスはもう呼び止めることはできなかった。