部屋に入る前にブラック氏が闇祓いに渡していたという薔薇のアレンジメントを、窓際に飾る。フィディアスの倒れたところに落ちていたものは白で統一したシンプルな花束だったが、淡い赤やピンク、紫などでシックに仕上げられたそれはこの質素な病室の中で明らかに浮いていた。
(これお父さんからだって知ったら、捨てろとか怒るのかな……)
物言わぬフィディアスが静かに眠り続ける部屋を見渡して、小さく息をつく。あの日からずっと、ひと時も離れずシリウスと一緒だった。あの瞬間を思い出して泣き出しそうになると強く抱き締めてくれたし、時には一緒に涙してくれた。シリウスを身体中に感じてからというもの、これまでにないくらい強くなれたような気がしていたのに。
彼がいなくなった空間は、こんなにも悲しい。
「私、シリウスがいないとだめなのかな」
冷たいフィディアスの手を握り締めて、ささやく。それともこんな状況だから、今はただ縋りたいだけ?帰ってと頼んだのは、私なのに。きっと、傷付けただろうな。本当は片時も、離れたくはないのに。
だけどあなたに、家族というもののありがたさを知ってほしかった。手を伸ばせばあなたにはまだ、抱き締めてくれるはずのお母さんがいる。そして私には永遠に分からない、兄弟という存在。自分ではない、けれども確かに同じ親から生まれた、もうひとりの。憎み合ってほしくない。手を取り合って、やがては。
(お父さんだって……あんな言い方しても、ほんとはシリウスのこと)
だから、お願い。冷静になって、一度まっすぐ向き合ってみて。
だけど私の心は、こんなにも。
over the two-way mirror
そこまでいくから
ジェームズが病室を訪れたのは、橙の空が次第に暗んで影を落としかけた頃だった。これまでは二回ともリリーと一緒だったのだが今日はひとりだ。彼は窓辺のアレンジメントを見て少し驚いたようだったが、すぐにフィディアスに顔を向けて苦々しげに目を細めた。
「リンドバーグ、なにか変化はあった?」
「……ううん、特に」
そう、と小さく呟いてから、ジェームズは弱々しく微笑んでみせた。
「気長に見守るしかないよね。これだけを独り占めしてるんだからまったく幸せ者だよ、彼は」
「はは……そりゃどうも。ジェームズも、また来てくれてありがとう」
「あ、そのことなんだけど……今日は君に用があって来たんだ」
気まずそうに切り出したジェームズに、きょとんと目を開いて首を傾げる。けれども彼女は、どこかでそれを予感していた自分にも気付いていた。
ベッドの周りを回って窓際に近付いてきたジェームズが、薔薇のアレンジメントを見下ろしてささやく。
「華やかだね。誰かのお見舞い?」
「あ、うん……シリウスのお父さんが来たの。それで……」
まったく驚かなかったところを見ると、やはり知っていたのだろう。ふうん、とだけ呟いて、ジェームズはこちらにゆっくりと向きなおった。
「あいつから連絡があったんだ。今日は……戻れないかもしれないから、のこと頼むって」
……シリウス。
あなたは本当に、もう十分すぎるほど私を包み込んでくれたのに。ここを離れてまで、私のことなんか気にしなくてもいいのに。
「だから、君さえよければ今夜は僕の家に来ない?まあ、頼めばエバンスのところでもいいと思うけど……エバンスはマグルの家で煙突飛行ネットワークが通ってないから、ここからはちょっと面倒だと思う。うちのママとパパ覚えてる?なら大歓迎さ」
「ありがとう……でも私、漏れ鍋に荷物置いてるし、部屋も取ってるから。私は、ひとりで大丈夫」
「そう言わないでよ、君をひとりで帰らせたなんて知ったらあいつ怒るからさ」
困ったように笑いながら、ジェームズ。
「漏れ鍋に帰って必要なものだけ持ってさ、それから僕の家においでよ。あいつ、のパパに君のこと責任持つって約束したんだろ?ほんとは今すぐ戻りたいのに、約束果たせなくてつらいって言ってた」
シリウス……あなたは、どこまで。は泣き出しそうになるのをこらえてベッド脇のスツールに腰かけた。何もかも、私の我侭から始まったことなのに。
「ジェームズ、私ってこのままシリウスと一緒にいていいのかな」
「え……どういうこと?」
不安そうに瞬いたジェームズから、目を逸らす。どれだけ問いかけても、フィディアスは答えてくれない。
「シリウスは、私には想像もできないような大きな名前を抱えて生まれてきて。身分違いだなんて思わないけど、だけどシリウスには……その重みを理解できるような人のほうが……」
「」
発されたその言葉は、厳しさとどこか呆れた響きがにじんでいた。恐る恐る横目で見ると、ジェームズのハシバミ色の瞳がまっすぐにこちらを見下ろしている。
「そういうこと、あいつの前では絶対に言わないでほしいな」
「……でも」
「あいつのパパに何言われたかは知らないけど、一番大事なのって何だと思う。血筋なんかじゃなくて、あいつ自身の心だって思わないか?あいつに必要なのは血の重みを理解できる女の子じゃない。そんなものを度外視して気持ちひとつであいつを愛せる、そういう女の子なんだよ」
「でも
だってシリウスは!」
思わず、声を張り上げて。突然のことに目を見張るジェームズに背中を向けて、はツンと痛む鼻先を押さえ込んだ。
「だって……『家族』なんだよ?一番近くにいて、一番長く一緒に過ごして……一番分かり合えてもいいはずなのに、ちょっと考え方が違うからってあんなに撥ね付け合うなんて。……私のせい?こんなときにずっと一緒にいてくれて、ほんとに心強かった。シリウスのこと、大好きだよ。でも私のせいでシリウスが何日も家に帰らなくて、あんなふうに冷たい言葉かけられてって……あんなの目の当たりにしたら、考えちゃうに決まってるじゃない。幸せって、何?家族にあんなふうに言われて……幸せなわけ、ない……」
思い出すだけで、身が捩れそうになるほど、つらい。お前に期待などしていないと言われたときのシリウスは、傍目にもひどくショックを受けていた。傷付くのは、まだ
諦めていないからだ。
顔面を覆ってきつく目を閉じたの肩に手を置いて、ジェームズが聞いた。
「、僕が同じことで悩まなかったとでも思う?」
「……ジェームズ」
「君のせいじゃない。きっかけを作ったのは紛れもなくこの僕だ。あいつがママに確かに可愛がられてたときのこと、僕は知ってる。それを壊してしまったのは僕だ。君のせいじゃない。だからって僕がこの先、そんな理由であいつから離れることがあるとでも思う?」
「………」
答えは、否。同じことをジェームズが言ったとしたら私はきっと、彼とまったく同じことを言い返してやっただろう。確かに、その通りだった。でも……このもやもやした気持ちは、きっと晴れない。
「どっちかが折れなければ一緒にはいられないとすれば、一緒にいるにはどちらかが折れないといけない。どちらも折れないとすればそれはつまり、一緒にはいられないってことだ」
そんな言葉遊びのようなつまらないフレーズが、今のには深々と突き刺さった。どちらかが折れなければ一緒にはいられない。どちらも折れないとすれば一緒にはいられない。
「本当は君には言うなって言われてるんだけど、あいつ、家を出るつもりだよ」
「え?」
「今日屋敷に連れ戻されてから、親とこっぴどく喧嘩したらしい。それで、まあ……ママがね、ずいぶんとひどいことを、いろいろ言ったらしいよ」
「だからって……」
「リンドバーグも学生時代に家出したんだって。知ってた?」
フィディアスが?振り向いても、目の前に横たわる彼は何ひとつ語らない。うそ……ねえ、あなたの家族に何があったの?あなたのお兄さんは今、一体どこに?
本当に、私はあなたのこと、まだ何も知らないんだね。
「ほんとは今すぐにでも家を出たいらしいんだけど、その……杖を、取り上げられたみたいで。今は杖を取り返す機会を窺ってるところなんだって」
「家出なんてだめだよ。きちんと話し合ったの?私たちまだ子供なんだよ?家出なんかしてどうするの?たったひとりでこれからどうやって生きてくっていうのよ、私たちにはまだ家族の支えが必要でしょ?」
感情が高ぶって一気に捲くし立てると、ジェームズは何も言わずに懐から何かを探り出して、こちらに差し出してきた。小さな、丸い
両面鏡。
「そんなに言うんだったら自分の口で言えばいい。僕はあいつを止めないよ」
どこか突き放すような、口振りで。は項垂れながら恐る恐るその鏡を受け取った。まだ鏡面には何も映っていない。呼びかければ、その姿を現す。
はそれを握り締めたまま、しばらくスツールの上でじっとしていた。シリウス。家族と離れてほしくない。でも本当は、今すぐにでも会いたくて。だけど、でも。
ようやく意を決して、鏡の中を覗き込む。自分の黒い瞳が見つめ返すそこを見据え、一度だけゆっくりと深呼吸してからその名前を呼んだ。
「シリウス」
鏡の中の線が、微かにぶれた。けれどもすぐに元に戻って、こちらを見つめるその瞳がまさしく自分のものになる。しばしの沈黙を挟んで、再び名前を呼んだ。
「シリウス。気付いて、シリウス。お願い、顔を見せて、シリウス」
会いたい、シリウス
。するとまた鏡の中の風景がぶれて、現れたのはあの灰色の瞳だった。
「……?」
「シリウス……会いたかった」
ほんの何時間か前に別れたばかりだというのに。胸が締め付けられるほど、嬉しくて。シリウスもまた顔を綻ばせたが、すぐに表情を曇らせて瞼を伏せた。いや。もっと、その優しい目を見せて。
「ごめんな、。今日はもう行ってやれそうにない」
「ううん、そんなこといいの。私のことはいいから……それよりお願い、早まらないで」
訴えかけると、シリウスはしばしポカンとしていたが
すぐに事情を察したらしい。恨めしげな眼差しをこちらではないどこかに投げつけ、苛立たしげに眉をひそめた。
「ねえ、お願いだから。喧嘩したんでしょ?だったら仲直りだってできるはずだよ。お願い、早まらないでもう一度話し合ってみて
」
「もうたくさんだ」
吐き捨てたシリウスの顔があまりにも疲弊していたので、思わずどきりとして心持ち身体を引く。だがそれはどうやら自分に向けられたものではないようだった。
「話し合えるだけの土台すらないんだ。あいつらは上から抑えつけることしか知らない。もうこんなところに押し込められてるのはたくさんだ。杖を取り返して、俺は必ずこの家を出る」
「だめ!そんなことしてこれからどうやって生きてくっていうの?できるわけないよ、私たちまだ子供じゃない」
必死になって繰り返すを鏡の向こうから苦しげに見据えて。シリウスは悲しそうに、呟いた。
「……そんなに俺を、この家に縛っておきたいのか?」
そんな顔を、しないで。泣きそうになるのをこらえながら、は力なくかぶりを振った。
「違うの……シリウスに、そんな顔させたいわけじゃない。でも私、羨ましいの。私は一人っ子だし、母さんも小さい頃に亡くして……お父さんもお母さんも兄弟も、みんないるシリウスのことが羨ましい。話そうと思えば話せる距離にいることを、大事にしてほしいと思ったの。お父さん、あんなふうに言ってたけどほんとはシリウスのこと思ってるって私は思ったし、それにレグルスだってシリウスのこと……きっと、好きだよ。だから私のこと、あんなふうに睨んだりするんだと思う。ほんとは思い合ってるのに、それが通じないのって一番悲しい」
シリウスは一瞬言葉を失って目を見開いたが、すぐに瞼を下ろして目元に落ちた前髪を乱暴に掻き上げた。
「それは……お前の思い違いだ。あいつらに一番大事なのは、この血を絶やさないこと
ただそれだけだ。俺みたいな異分子は、ほんとはいないほうがいいんだよ」
そんなふうに、言わないで。こらえきれなくなって一筋の涙をこぼしたは、気付かれないうちにそれを拭い去って鏡の中のシリウスに呼びかけた。
「シリウス、そのままそこにいて」
「え?」
「いいから、何があっても私が行くまで絶対そこにいて」
「へっ、は?」
「つべこべ言わずにそこにいなさい!」
一方的に怒鳴りつけて、鏡をポケットの中に押し込む。まだ当惑したシリウスの声が聞こえてきたような気もしたが、は無視してやはり度肝を抜かれた様子のジェームズに向きなおった。
「ジェームズ、シリウスの家は知ってるんだよね?」
「えっ?あ、それはまあ……知ってることは知ってるけど……」
「今すぐ連れていって」
「ちょ、ちょっと待って?急にそんな……ど、どうするつもり?あいつの家は礼儀にうるさいよ、突然押しかけたって入れてもらえるわけないしそれにほんと一体何するつも
」
「あら、だってあんなに素敵なお花もらったんだもん。お礼を言わないなんてそれこそ礼儀知らずだと思わない?」
ジェームズは返す言葉に迷ってしばし目線を彷徨わせていたが、文字通り頭を抱えてしゃがれた奇妙なうめき声をあげた。
「うああああ……そ、そんなことしたら……僕、シリウスに殺される」
「だったら私が護ってあげる」
はあっさりと言いやって、ほとんど声の調子を変えずに続けた。
「それとも私に殺されたいならそれでもいいよ。シリウスがお葬式くらい挙げてくれるかもね」
「ちょ、ちょっと待って!あれ……おかしいな、君ちょっと見ない間に性格変わったんじゃない?」
そうかな。そうかもしれない。フィディアスが襲われて、二度と目を覚まさないかもしれないという状態に陥って。泣きじゃくる私のもとにいの一番に駆けつけてくれたシリウス。優しくも激しく、抱かれたあの夜。
シリウスのためならば、何でもできるような気がしていた。
嘆息混じりに頭を掻いて、ジェームズが独りごちる。
「分かったよ……君がそんなに命知らずとは知らなかった。まったく」