シリウスの腕の中で眠り込んだあと、ふと目を覚まして顔を上げると、こちらの肩を抱いたシリウスが額を摺り寄せて覗き込んできたところだった。起きてたの?と聞くと、ついさっき、と答える。薄いブランケットの中で身体を寄せながら、ふたりは静かに語り合った。学校のこと、友人たちのこと、家族のこと    フィディアスの、こと。

「これね、フィディアスが私に用意してくれた誕生日プレゼントなの。カードがついてた」

枕元に置いておいた銀の懐中時計に手を伸ばして、それを胸元に引き寄せる。

「フィディアスが倒れてたところに……あの薔薇の花束と一緒に、落ちてたの」

パチンと音を鳴らしてふたを開けると、丸い小さな文字盤には針が七本。通常の時間を刻む三本の他は、どういった役割を果たしているのかにはよく分からなかった。

「去年はぬいぐるみ、くれたんだ。これくらいの、クマの。マグルのゲームセンターで取ったんだって、あのフィディアスが。笑っちゃった」

あの頃はまさか、こんなことになるなんて想像もしていなかった。いつでも会える、いつでも話せる。それが、当たり前のことだと。

「……時計?」

こちらの髪を撫でながら黙って話を聞いていたシリウスが、不意に声をあげてその手の動きを止めた。

「どうしたの?」
「あ、いや……大したことじゃない。ただ、魔法界では時計っていうのは、普通成人になった証にプレゼントするものなんだ。まあ、古い慣習だけどな」

成人になった証?日本のマグル界は二十歳で成人だが、イギリスの魔法界では十七歳で一人前と認められるらしい。それにしたって、あと一年もあるのに。
シリウスもしばらく不思議そうにこちらの手の中の時計を見つめていたが、やがて。

「……そっか」
「ん?」
「リンドバーグ、なにかお前に打ち明けようとしてたんだろ?」

枕の上で軽く肘をついたシリウスは、こちらの肩を抱いたまま暗がりの中でぼんやりと浮かび上がる洗面台の白薔薇を見やった。

「何を話したがってたかは知らないけど……でもリンドバーグは、法律がどうとかじゃなくてさ。お前のこと大人って認めて……大事なことを、話したがってたんじゃないか?なんか……そんな、気がするよ」

大人    その、証。思わず込み上げてきた涙をこらえるために目を閉じたの額に、シリウスはそっと唇を寄せてささやいた。

「俺もお前に、渡したいものがあるんだ」
「え?」
「ごめん……急いで家を出てきたから、今ここにはないんだけど」

遅くなって、ごめん。そう言ってシリウスは、もう一度の前額にキスをした。

「誕生日おめでとう、

FATHERHOOD 1

父として

フィディアスが襲われてから、捜査は何の進展もなくすでに三日目を迎えていた。毎日交代で闇祓いが警護に訪れたが、それもさほど身が入っているとは思えない。二日目にやって来たオリファント曰く、犯人は杖まで奪っていったのだから止めを刺そうと思えばいつでも刺せたはず、意図的にそうしなかったのだからわざわざ公の場に再びフィディアスを襲いにくる可能性はほとんどないだろうということだった。一週間ほどで警護も解く予定らしい。そしてフィディアスの容態もまた、見守るやシリウスのことなど知らずにまったく変化を見せなかった。

「魔法使いっていっても、できることとできないことがあるんだね」

いつものように漏れ鍋で朝食をとったあと、シリウスと聖マンゴを訪れたは、闇祓いから相変わらず進展のない捜査状況を聞いて肩を落としながら病室に入った。不思議そうに目を開くシリウスに弱々しく笑いかけて、告げる。

「当たり前だよね。でも、ほんとに魔法があるって知らなかった子供の頃は、『魔法』っていったら願い事が何でも叶う万能の呪文だと思ってた」

五年も魔法学校で勉強してきて、そんなことはとっくの昔に分かりきっていたはずなのに。昨日再びジェームズと共に聖マンゴを訪れたリリーに、遅くなってごめんなさいと渡された誕生日プレゼント    シンプルなボーダーのハンカチで、僅かに汗ばんだフィディアスの額を拭いながら、

「空を飛んだり、瞬間移動したり……不思議なことはいろいろできるはずなのに、フィディアスがこの先目を覚ますかどうかは分からない。フィディアスをこんなふうにした犯人も、見つからないままで……」

呪いの実体が解明されなければ手の施し様もないと担当癒は渋面で語った。もちろん全力は尽くすが、回復を約束することはできないと。それでも、少しでも傍にいたかった。もしかしたらまたその目を開けて、微笑んでくれるかもしれない。いや、きっとそうしてくれる。フィディアスは、約束を守ってくれるはずだと。

シリウスは何も言わずに、そっと肩を抱き寄せてくれた。その胸に縋って、ゆっくりと目を閉じる。シリウスがいてくれてよかった。ひとりではあまりにつらくとも、ふたりならば、信じて待てる。そう、強く思えた。
だから    帰ってきて、フィディアス。私と一緒にシリウスが来ていることを知ったら、驚くだろうか。それとも、やはりそうかと笑うだろうか。なんとなく、後者のような気がした。

シリウスに促されて、ベッド脇のスツールに並んで腰を下ろす。そのとき、ドアの外から今日の警護担当の闇祓いが誰かと話をする声が聞こえてきた。担当癒ではない。聞き慣れない、低い男性の声。
けれどもこちらの背を抱いたシリウスの腕が、びくりと小さく動くのが分かった。

「どうしたの?」
「……いや。ごめん、黙って」

わけが分からずは目をぱちくりさせたが、シリウスの緊張が皮膚を通じてまっすぐに伝わってきたので、言われるままに口を噤んでただじっと彼の横顔を見ていた。強張ったシリウスの唇が少し戦慄き、うっすらと開きかけたそのとき。
病室のドアが、重々しく一度だけノックされた。

「……はい?どうぞ」

見舞いには、フィディアスの友人や知人が日に何人か訪れた。それなのになぜか緊張しながら、答える。すると二呼吸ほどの間を置いて、ようやくゆっくりと扉が開いた。そこから、姿を見せたのは。

「連絡もせずに突然押しかけて申し訳ありません、お嬢さん」
「いえ……あの、失礼ですけど、フィディアスのお友達ですか?」

現れたのは、どこか重厚な雰囲気を持った中年の魔法使いだった。年頃からいえばフィディアスより少し上くらいだろうか。だがそのたたずまいや顔立ちを、はどこかで見たことがあるような気がした。
シリウスの手をそっと離して立ち上がりながら、尋ねる。男性は戸口に立ったまま、静かに微笑んでみせた。

「いえ、残念ながら直接お目にかかったことはありませんな。ですがお噂はかねがね伺っておりました。クロス・プレスはヨーロッパでも歴史がある意義深い雑誌ですからね。中でもリンドバーグ氏の記事は定評があった」
「……はあ。ええと、その、どうもありがとうございます」

私がありがとうと言うのはちょっとおかしい気もするけれど。フィディアスって、そんなに評判のいい記者だったんだ。一昨日やって来たクロス・プレスの編集長という魔法使いも、フィディアスがこんな状態になってしまったことは我が社にとって大いなる痛手だと泣きじゃくっていた。

「私は、フィディアスにいろいろと面倒を見てもらっていたといいます。母が、フィディアスの古い友人で。よろしければ、お名前を伺ってもよろしいですか?目が覚めたら……彼に、伝えたいので」

彼はまったく病室に踏み込んでくる気配も見せずに、相変わらずドアのところにたたずんで、何でもないことのようにさらりと言ってきた。

「失礼。ブラックと申します。オリオン・ブラックです    ミス・

……あ。
はっとして、は急いでシリウスを見た。彼は戸口に背を向けたまま、膝の上できつく結んだ拳を小刻みに震わせている。そうか、分かった    見覚えがあるはずだ。もう五年も、ずっと傍にいて見つめてきたのだから。本当に……若い頃はきっとこうだったのだろうなと思わせるほど、至るところがシリウスによく似ている。そしてもしかしたら、彼が遠い将来、こんなふうになるのかもしれないと。

「シリウスの……」
「お嬢さん、愚息が大変世話になっているそうだね。遅ればせながら、御礼を申し上げよう」
「何の用だ」

それは、唐突に。握った両の拳を見つめたまま、シリウスが吐き捨てた。慌てふためいてブラック氏を見たが、父親は顔色ひとつ崩さずに静かに微笑んでいる    だがそのグレイの瞳は息子のものと違い、まったく笑ってはいなかった。

「お嬢さん、どうか許して欲しい。礼節はそれなりに教えたつもりだったのだが」
「何の用だって聞いてるんだ」

より強い口調で繰り返しながら、シリウスがやっとのことで振り向いた。父親を激しく睨み付け、その視線だけで貫こうと奮闘している。だがブラック氏は変わらず微笑むばかりだった。

「恥ずかしいな、シリウス。いつまでも子供のように吠えることしか知らんとは」
「用がないなら帰れ。ここはあんたが来るようなところじゃない」
「シリウス!ごめんなさい、お父さん    シリウスは……息子さんは、私のためにこうして……ごめんなさい、私が悪いんです。私がシリウスに、一緒にいてほしいって頼んだから……」
「お前が謝るな!」

それこそ吠えるように怒鳴りつけて、シリウスは椅子を蹴散らして立ち上がった。思わずびくりと身体をすくませて、親子のあまりにも冷え冷えした対面を見つめる。もともと気の短いシリウスだが、彼がこんなにも憤ったのを見るのは、の記憶ではジェームズがクィディッチでレグルスに敗れたとき以来だった。

「お嬢さん、君を責めにきたわけではないよ。愚息の非行を他人になすりつけようとは思わない」
に話しかけるな。言いたいことがあるなら俺に言えばいいだろ」
「そうか、というのか。きれいな名前だね」

あくまで冷静さを保って話し続けるブラック氏に、シリウスは噛み締めた奥歯をぎりぎりとひくつかせた。改めて息子に向きなおって、ブラック氏が告げる。

「母さんが心配しているぞ。今すぐ父さんと一緒に帰るんだ」
「笑わせるな。俺がいてもいなくても同じことだろ。だったら俺は俺のいたいところにいる、それが悪いことか」

息もつかずに、シリウスは一気に捲くし立てた。そこで初めて    ブラック氏の口元から、すっと笑みが消える。その表情はあまりにも冷淡で、は彼がシリウスの父親であるということを信じられなくなっていた。それともふとした瞬間に、シリウスがこんな顔を見せることもあるのだろうか……?

「シリウス、もう私はお前に期待などしていない。だが、この病棟に入るとき、私の名前を使っただろう」

え……今、なんて。いくらなんでも、そんなこと……そんな言い方、するなんて。
もうお前に期待はしていないと言い放ったブラック氏の眼差しは、こちらが泣き出したくなるくらいに冷え切っていた。咄嗟に盗み見たシリウスの横顔もまた    そこまではっきり突きつけられるとは、思っていなかったのだろう。あまりの衝撃に固まり、身動きがとれなくなっていた。こんな……こんなのって。

「ホグワーツで晒しているというお前の業恥には目を瞑ってきた。だがこんなところでまで私の顔に泥を塗るつもりなら黙ってはいないぞ」
「だったらどうするっていうんだ。俺をあの陰気な屋敷に閉じ込めておくか?ずっとこの名前のせいで面倒な思いをしてきたんだ。こんなときに利用させてもらって何が悪い」

いまやシリウスの顔には嫌悪が、ブラック氏の顔には侮蔑の色がありありと浮かんでいた。そんな……こんなの。たまらなくなってはシリウスの腕を掴んで揺さぶった。

「シリウス、やめて……家族でこんなふうにいがみ合ってるの、悲しすぎるよ……」
、でも俺は    

振り向いたシリウスは咄嗟に何かを言いかけたが、の目を見てその先を断念した。項垂れながら、深々と息を吐く。ブラック氏はその様子を見て僅かに目を見張ったが、すぐに咳払いを挟んで冷ややかに言い放った。

「とにかく、今日は私と一緒に家に帰るんだ。お前はまだ未成年だ、私には保護責任がある」
「断る。どうしてもというんだったら、杖尽くで連れ帰るんだな。俺はここを離れない」
「シリウス    お願い、やめて。私は大丈夫だから……だからお願い、今日だけは帰って。お願い」

泣きそうになりながら懇願すると、シリウスは脳天を石で殴られたかのような顔をしてこちらを見た。違う、ちがうの。ほんとは一時も離れたくない、だけど。

「シリウスがいてくれて、ほんとに感謝してるの。でも私、私のせいでシリウスが家族といがみ合うの……やだ。だからお願い、今日はもう帰って……一度家族で、ちゃんと話し合ってほしいの。お願い、そうして?お願いだから……」

『話し合うことなんてない』    シリウスは苦々しげに眉をひそめたが、必死に見つめるの眼差しに根負けして、怒らせた肩を落とした。拍子抜けした様子で目を見開いたブラック氏に見せ付けるようにの腰を引いて、抱き寄せる。そして狼狽える彼女の唇に噛みつくように口付けてから、父親の脇をすり抜けて荒々しく病室を出て行った。
あんなふうにキスされるのは、初めてで。胸が高鳴って、けれどもどこか、悲しくて。彼の足音が乱暴に遠ざかっていくのを聞きながら。こちらに背を向けたブラック氏が、思い出したように振り向いて言ってきた。

「あいつが君に惚れ込んでいるのはよく分かった。だが、今一度考えてみてほしい。血統がどうのというのは古くさい考えだと思うかもしれないが、我々はそうした定めの下に生まれた家系なのだよ。我々が最も恐れているのは、この尊い血筋を自分たちの代で絶やしてしまわぬかということだ。何十代と続いてきたこの流れは、君が思っている以上にずっと重い。何が本当にあいつのためになるのか    君がもしもあいつのことを想っていてくれるのなら、それをよく考えてみてほしい。それでは、邪魔をしたね。お大事に」

何が本当に、シリウスのためになるのか。
ブラック氏の姿が扉の向こうに消え、途端に静まり返った部屋の中で。は身震いしながら、そっとフィディアスのほうに向きなおった。

「フィディアス……私、分かんないよ」

何が本当に、シリウスのためになるのか。血統がどうのと、そうした定めの下に。
誰もがその血を選んで生まれてくるわけではない。けれども確かに、彼はそうした定めの下に生まれた。思い出されたのは、あのときロジエールに突きつけられた言葉だった。
何十年も何百年も保ち続けてきた、高潔な印。純血の痛み。重み。シリウスの    本当の、幸せ……。

「フィディアス……ねえ、どうしたらいいか分かんないよ……」

シリウスのお父さんにあんな顔をさせてしまったのは、私のせい?
あんなふうに、冷たく突き放されるようになったのは。

私はこのまま、シリウスと一緒にいてもいいの?
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(08.08.06)