どうしよう、緊張する。わざわざあんなことまで宣言してくれたんだから、まさか『そういうこと』にはならないと思うけど。マグルボーン、または学校の外で魔法が使えない未成年のためにトムが用意しているドライヤーを借りてきて、湿気た髪を乾かしながら小さく息をつく。はいつものように部屋に準備されていたバスローブを着て浴室を出たのだが、振り向いたシリウスの目が自分の顔よりも下に向くのを見て、途端に恥ずかしくなってそっぽを向いてしまったのだ。シリウスはそのまま逃げるようにバスルームに消えた。
コツコツという音がして、ふと顔を上げると。窓の外に、羽ばたく森ふくろうの姿が見える。ほっと安堵の息を吐きながら、はそちらに駆け寄って窓を開けてやった。
「お帰り、ムーン。遅かったね」
ひょいとこちらの肩に乗ったそのふくろうの口に、小さな野花が一輪くわえてある。はそれを受け取って、ムーンの頭をそっと撫でた。
「フィディアスのために採ってきてくれたんだね。ありがとう」
ほーと悲しそうに一声鳴いて、身体をこちらの頬に摺り寄せてくる。はそれを、先ほどトムから借りてきて薔薇の花を挿した花瓶の中にくわえた。
「明日フィディアスのところに持っていくね。大丈夫、フィディアスはきっとよくなるよ」
Hallelujah, hallelujah
神様!
シリウスはトムに借りた青い生地に白のラインが入ったパジャマを着て、濡れた髪をタオルで軽く押さえながら浴室から出てきた。すでにバスローブを脱ぎいつものパジャマに着替えたはついベッドの上でうつらうつらして、シリウスがバスルームのドアを閉めた音ではっと目を覚ました。
「あ……ごめん、寝ちゃってた」
「いや、気にすんな。先に寝てろよ、今日は疲れただろ?」
シリウスは優しく微笑んで鏡台の前に座った。そこで初めて窓枠にとまっている森ふくろうに気付いたようで、頭の上にタオルを載せたまま軽くその名を呼ぶ。
「ムーン、帰ってたのか」
ほー、と嬉しそうに鳴いてムーンはシリウスの肩に飛び移った。もともと人懐っこい性格のふくろうだったが、主人の気持ちが分かるのか、それとも彼女自身がシリウスを好いているのか、シリウスには特によく懐いていた。シリウスは自分のふくろうを持っていないので、彼もまた、ムーンや、ポッター家の茶ふくろうであるホワイトスターをとても可愛がっている。はその様子を見て、起こしかけた身体を再び布団の上に横たえた。シリウスの言う通り、今日はすごく……疲れてる。一旦眠り込むまでは緊張し通しだったけれども、この調子だと案外安心して寝られるかもしれない。
と。
「、っわ!」
突然、引っくり返った悲鳴のようなものを聞いては飛び上がった。枕にしがみついて慌てて顔を上げると、立ち上がったシリウスの肩からムーンが驚いて飛び跳ねるところだった。呆然と立ち尽くす彼が見下ろす台の上には……。
「なっ何だこれ!」
は重い瞼をこすりながらも、込み上げてくる笑いを抑えきれずに小さく噴き出した。心外だと言わんばかりに愕然と振り向いたシリウスに笑いかけて、告げる。
「それはドライヤー。マグルが髪を乾かすのに使うんだよ」
単なる日用品ひとつにシリウスがこんなにも過剰な反応をしたことがおかしくて、はくすくす笑いながらベッドを下りた。どうやら使い道も分からないままにドライヤーをいじって噴き出した温風に驚いたらしい。彼女はシリウスの後ろに回って、まだ不可解な表情をした彼をまた椅子の上に座らせた。鏡に映るその濡れた黒髪に指を通して、鏡台からドライヤーを取り上げる。
「私が乾かしてあげる」
「え?いや……」
「いいから、じっとしてて」
振り向きかけたシリウスの顔を鏡台のほうに戻して、スイッチを入れる。噴き出した温風に、またシリウスは面白いほどに反応したが、が髪を掬い上げて動かし始めると今度はおとなしく前を向いた。水分を飛ばされた髪の一本一本が、さらりと流れるように指の間にこぼれてくる。全体を乾かし終えると、シリウスは不思議そうな顔で自分の前髪の一部を摘み上げた。それを後ろから覗き込んで、微笑む。
「やっぱりシリウスの髪ってきれいだね」
「……ふん。こんなもん」
シリウスは怒ったような声を出して髪から手を離した。
「こんなもん……俺は、要らない」
「え?」
彼の頭に手を添えたまま、きょとんと目をひらく。鏡の中で自分を見返すシリウスの瞳には、どこかやるせなさが漂っていた。
「……そういえば、前にも一度、そんなこと言ってたよね。どういうこと?きれいな髪……私は、好きだよ」
シリウスは鏡越しに一瞬こちらを見上げたが、すぐに真正面の自分を見つめてゆっくりと瞼を閉じた。ささやく。
「この髪も、鼻も、口も、眉も、顎も……あの、腐った親父にそっくりなんだ。だからほんとは
顔のことも髪のことも……なんだかんだ言われるのが、昔からずっと嫌だった」
お父さん?は思わず鏡の中のシリウスを食い入るように見つめた。見慣れたはずのその顔が、急に趣の違うものに見えてくる。けれどもすぐに我に返って、締め出すように目を閉じたままのシリウスを後ろからそっと抱き締めた。
さらさらの髪に頬を摺り寄せると、首だけで振り向いたシリウスが驚いたようにこちらを見上げてくる。その瞳に笑いかけて、告げた。
「私も今まで……何回も、シリウスの顔のこととか言ってきたよね……ごめん。でもね、シリウス
私は、シリウスのお父さんのことちっとも知らないけど……でもこの顔も、髪も、全部シリウスのものだよ。どれだけ似てたって、シリウスはお父さんじゃないもん。全部あわせて、シリウスだよ。それにね」
は目の前の鏡を見やり、シリウスがそれに倣うのを待って、続ける。
「私が一番好きなのは、この、優しい目だから」
彼はしばらく言葉を失ったかのように小さく口をひらいてじっとしていたが、椅子の上で身体を反転させるとすかさず腕を伸ばしての背を抱き寄せた。包み込むようではなく、きつく、縋るように。それはまるで、校庭の隅で抱き締められたあのときのようだった。子供でもあやすようにその頭を抱えながら、
「こんな優しい目、他の誰にもできないよ」
だからもっと、自信を持っていいんだよ。
しばらくして落ち着きを取り戻したらしいシリウスは、涙がにじんで赤くなった目をこすりながらそっとの背を離した。
「……ごめん。こんな、みっともないとこ」
「ううん……そんなふうに、言わないで。シリウスのこと好きだから、私だってシリウスの役に立ちたいって思ってるんだよ」
言って、見上げるシリウスの頬を伸ばした両手で包み込む。風呂上りのその顔はまだ少しだけ火照っていた。潤んだ瞳。透き通った、きれいなグレイ。
「今日シリウスが来てくれて、私ほんとに心強かったの。シリウスがいなかったらきっと……私、まだ病室に引きこもって泣いてたと思う。シリウスがいてくれたから。だから」
慈しむように、その頬のラインを優しくなぞる。
「だからシリウスも、つらいときは我慢しないで。私が一緒にいるから。我慢しないで、泣いていいんだよ」
きっと家族に縋りついて泣くことなんて、ないんだろう。ジェームズの前では……どうなのかな。声をあげて泣いたり、するのだろうか。あまり想像できない。
知らず知らずのうちにそんなことを考え込んでいると、シリウスは自分の頬を包むの両手を咄嗟に掴んで口元へと運んだ。不意を衝かれて身じろぎする彼女の手を、表、裏、そして指先と、しばらく唇を這わせてからゆっくりと顔を上げる。その瞳は、が今までに見たことがないほど……ひどく悩ましげで、艶めいて見えた。心臓を鷲掴みにされたかのように、ぞくりと全身が震える。
「……俺、さっきはああ言ったけどさ」
「へ?」
唐突にシリウスが切り出し、その意味を捉えかねて間の抜けた声を出す。さっきって、いつ?何の話?両手を握られたまま、はただただ当惑して相手の顔を見返すしかなかった。
「さっき言ったことは嘘じゃないし……お前が絶対いやだっていうなら、無理になんて言わない。でも、俺……ほんとは、もっとお前のこと知りたい」
囁いたシリウスの手がの両手を離して、そっと背中の後ろに回された。その指先が優しく彼女の身体を引き寄せてから、ゆっくりと下のほうに下がっていく。腰のラインをなぞられて思わず身じろぎしたそのとき、彼はもう片方の手での頭を抱き寄せてその首筋に突き出した舌を這わせた。高ぶる神経に、小さく悲鳴をあげる。
シリウスはすぐにそこから顔を離して、下からの瞳を覗き込んだ。
「……いや?」
もう身体中が激しく脈打って、耳まで込み上げた熱が思考を溶かしてしまいそうなのに。泣き出したい気持ちで、はシリウスの首にしがみついた。
「いや……じゃない、けど」
「けど?」
そっと首を回して、窓枠にとまった森ふくろうを見やる。
「ムーンが見てる」
するとシリウスは可笑しそうに喉の奥で笑ってそちらに顔を向けた。
「ムーン、ご主人様が見られたくないってよ」
ムーンは不思議そうな顔で首を傾けるばかりで動こうとしない。もっとも、状況を察してくれというほうが無理だろうが。シリウスは徐に立ち上がっての腕を外すと、ムーンのほうに近付いて窓を開け放した。
「ちょっと遊びに出てくれないか。まあ、お前がどうしてもご主人様のエッチな顔を見たいっていうんならそうすりゃいいけどな」
「ちょっ……シリウス!」
なに言ってるのこいつは!真っ赤になって怒鳴りつけるにシリウスは冗談だよと笑いかけて、もう一度ムーンに向きなおった。
「悪いけど外してもらえないか、ムーン。おい、そんなに怒んなって」
状況を察することはできずとも仲間外れにされたことははっきりと理解して、ムーンは拗ねた声を出しながらあっという間に飛び立っていった。あーあ……怒っちゃった。気分屋だから案外すぐに機嫌を直して帰ってくることもあるのだが。
しばらく窓の外を見つめていたシリウスが不意に振り向いて
気付いた。部屋にはもう、私たちふたりしか残されていない。
「……いやだったら、言えよ?」
「ううん……大丈夫」
どうしよう。心臓が、破裂しそう。枕元の小さなランプだけが光源の、薄暗い部屋の中で。こちらの身体に覆いかぶさったシリウスは、まず最初にゆっくりと、時間をかけて優しいキスをしてくれた。絡めた指先にそっと力を込めると、それに応えるようにしっかりと握り返してくれる。彼の唇が皮膚を滑って首筋、胸元に下りてきても、はきつく目を閉じて、ただじっと、相手にすべてを委ねることにした。
ちょっぴり、怖かった。自信もなかった。どうすればいいのか、まったく分からない。けれどもそれらをひっくるめてもなお、彼とひとつになりたいと思えるほどシリウスのことがとても大好きだった。
恥ずかしすぎて、変な気分になって。あまりにも痛くて、わけが分からなくなるくらい激しく泣き喚いた。
けれどもその後、火照ったシリウスの腕に抱き締められて眠ったときは、それまでに感じたことのないような最高の高揚感と、穏やかに広がる幸福感とに満たされていた。