リリー、ジェームズとは聖マンゴ病院のロビーで別れた。リリーはジェームズが責任を持って家まで送ると宣言し、駅までで結構よと素っ気なく返されていたのだが、結局、あの後ふたりはどうなったのだろう。女の子をこんな時間にひとりで帰らせるようなジェームズではないのだが、何しろ相手はあのリリーだ。強く拒絶されてはどうなるか分からない。

「大丈夫だろ」

ロビー付属の暖炉に飛び込む前、シリウスは何でもなさそうにそう言った。

「なんでそんなにはっきり言えるの?」
「だってエバンスのやつ、あいつのこと好きだろ」

さも当然のようにシリウスが答えたので、はびっくりして目をぱちくりさせた。煙突飛行粉を摘んだまま、ぽかんとシリウスの顔を見やる。

「何でそんな顔するんだよ。違うのか?」
「う、ううん……違わないと思うけど……なんか、シリウスがそういうのに敏感って……ちょっと、意外」
「鈍くて悪かったな」

ふて腐れた顔で振り向いてから、シリウスは右手の粉を暖炉の中に投げ込んだ。燃え上がったエメラルド色の炎に向けて、叫ぶ。

「漏れ鍋!」

NO BACKBONE

漏れ鍋にて

「フィディアスが襲われたと聞きましたが?」

手前の座席に着いた中年の魔女が、その落ち着いた双眸に翳りを見せながらうめく。小部屋に集まったのは、総勢六人。豊かな白い髭をたくわえた上座の老人は、半月眼鏡の奥で噛み締めるように瞼を閉じて、たっぷり一呼吸以上の間を置いてからゆっくりと口を開いた。

「その通りじゃ。ミネルバ、聖マンゴに寄ってくれたのじゃったな?」
「はい。いずれの器官にもこれといった異常は見られないのですが    意識を取り戻す可能性は、限りなくゼロに近いと」

先に問いかけた魔女が、苦々しさに眉をひそめる。次に発言したのは、その奥に掛けた彼女とほとんど同年代の魔法使いだった。

「しかし、闇の印があがっていたのでは?なぜ……命が」
「ジェネローサスだ」

横柄なやり方で鼻の頭を掻きながら、他の五人とは少し離れたところに腰かけた老人が吐き捨てた。その顔は生々しい傷跡でびっしり埋め尽くされているが、両の青い瞳は鋭い光を放って見るからに際立っている。それまで黙り込んでいた銀髪の老魔法使いは、それに対していかにも自信なさそうに独特のゼーゼー声を出した。

「だが、ムーディ……仮にも実の弟だ」
「そんなくだらん理由で奴らが容赦するとでも思っているのか」
「あなたにとってはくだらないことかもしれませんが    ジェネローサスは本当に、フィディアスのことを可愛がっていましたよ」

そちらを見やり、噛み付くようにして中年の魔女が言い放ったが、ムーディはフンと鼻で笑うだけだった。

「しかし、フィディアスは決して我々と手を組もうとしなかったじゃありませんか」
「だからといってあいつが奴らに協力的だったはずもない」
「フィディアスはの娘に接触しようとしたのでしょう?そのことと関係があるのでは」

口々に交わされるやり取りの中、終わりに発された魔女の言葉に反応して上座の老人はさり気なく瞼を伏せた。他の誰も気付かないような、些細な表情の変化。

「それは分からぬ。じゃが、彼女のことがすでに知れておるとすれば……彼女に対しても、何らかの策を講じねばならぬのう」
「彼女はしばらく、漏れ鍋に滞在することにしたようです」
「なに?国に戻ったのではないのかね?」

ゼーゼー声の魔法使いに聞き返され、ミネルバは苦しげに眉根を寄せた。

は、フィディアスをとても慕っていたようです。しばらくは……どうしても、離れたくないと。帰国の際にはジェーンが移動キーの手配を約束してくれました」
「フィディアスめ、うまく娘を手なずけたな」

何が面白いのか、喉の奥でくつくつと笑いながら、ムーディ。仲間たちの非難めいた視線もまったく意に介さず、彼はめんどくさそうに軋んだ椅子から立ち上がった。

「とにかくわしはジェネローサスを探す。フランクのやつがまたつまらん約束をしてきたのでな」
「ああ、アラスター、忙しいところをどうもありがとう。できれば時間を見て、ときどき漏れ鍋の様子も見てもらえると非常に助かるのじゃが」
「分かった、気をつけてみよう。君も気をつけろ、ダンブルドア。意外なところに伏兵がおるやもしれん」

ムーディのそうした『忠告』は毎度のことだったので、その場に集まった者の大半はさして気にも留めなかった。
「ぐぎぇ!」

見慣れたカウンターの裏に飛び出したは、下からしゃがれた悲鳴を聞いてシリウスを下敷きにしていることに気付いた。ごめん!と叫んで、慌てて脇に退く。背中を潰されたシリウスは床にうつ伏せたまましばらく悶えていたが、しばらくしてようやくうめきながら身体を起こした。

「お前……思ったより、重い」
「あっ、そう!潰しちゃってごめんなさいね!」

険悪に歯を剥きながら、切り返す。振り向いたシリウスが何か言おうと口を開きかけたとき、カウンターの中に空っぽのグラスを持ったトムが戻ってきた。

「おや、さん。お帰りなさい。荷物は部屋に運んでありますよ」
「あ……ありがとう、トム。遅くなってごめん」
「いいえ。それより、そちらは……?」

トムは聞いてもいいのか判断しかねるといった複雑な顔でちらりとシリウスを見た。あれ、ひょっとして……。

「ページさんから聞いてない?私と、もうひとり泊まるって」
「えっ?え、いえ……すみません、てっきりさんだけかと。え、その……もうひとつお部屋を準備しましょうか?それとも……」

トムのこの反応に、戸惑ったのはむしろこちらのほうだった。彼女は当然、ページが部屋を二つ手配してくれているものと思い込んでいた。答えに窮してこっそり盗み見ると、傍らのシリウスも真っ赤になって口ごもっている。こちらの煮え切らない態度に困ってトムが曖昧に苦笑していると、どこからともなく聞きなれた声がした。

「そこにいるのはちゃんかーい」

げ!浮かれたその声は酒に呑まれたフェーラーのものに違いない。よりにもよってこんなときに!カウンターの陰に隠れたままはその向こう側にいると思しき老魔女に見つからないように努めたが、あることないこと大声で並べ立てるものだからとうとう耐え切れなくなって勢いよく立ち上がった。

「ばあちゃん!私が一体いつこんなところで裸踊りなんかしたのよ!」
「おーやちゃん、いたのかい?はーい、元気そうだねえ」
「なにが元気そうだねえよ、わたしがいつロックシンガーなんかと付き合ったって?教えてもらおうかしら!大体ばあちゃんの話はいつだって品がないのよ、たまには息子さんの言うこと聞いて家でおとなしくしてれば!」
「ふん、可愛げのない息子ひとりのあんな湿っぽい家にいたって何が楽しいもんか。早く孫の顔でも見せてくれればねえ」
「何でもかんでも反対してるのはばあちゃんなんでしょう!」
「ふーん、そりゃあ反対したくもなるさ、あれの連れてくる女ときたらどいつもこいつもあばずればっかりさ!あーあ、ちゃんがうちに来てくれればねえ。ねえちゃん、うちのあのバカ息子なんかどうかね。あれもちゃんのことはえらく気に入ってたんだよ、っへへ」
「ちょ……冗談も大概にしてよ!飲みすぎなのよ、もういい加減にしたら!」

ほとんど空っぽのウィスキーボトルをカウンター席から取り上げて怒鳴りつける。すっかりとろんとした目でフェーラーはしばらくボトルのほうに手を伸ばそうとしたが、やがてぐったりと机に倒れこんで寝息を立て始めた。ほんとにもう、いい年して恥ずかしいことばっかり。
いつもはもう少し賑わっているのに今夜の漏れ鍋はフェーラーしか客がおらず、途端に店内は静かになった。ほっと息をつき、ボトルを置きながら振り向く。するといつの間にか立ち上がっていたシリウスがひどく真面目な顔をしてトムに向きなおったところだった。

「あの……部屋のことなんですが」
「え?あ、はい」

はどぎまぎしながらその後ろ姿を見つめたが、続けてシリウスが口にした台詞に仰天して、図らずも目眩を起こしそうになった。
「……嫌だったか?」

ドアを閉めてしばらくすると、背中を向けたままシリウスが聞いてきた。どきりとして意味もなく目線を落としながら、ささやく。

「べつに、そんなこと……ない、と……思う」

ああ、私って何でこんな言い方しかできないんだろう。でも、正直に言ってよく分からない。嬉しいとか照れくさいとかそういったこと以前に、ただただ困惑していた。まさかこんなことになるなんて。でもきっと、ひとりになったら昼間のことばかり思い出してしまう。ひとりにはなりたくない。でも、だからといって。こんなときに、こんなことを考えている自分が嫌いになりそうだ。だけど、どうすればいいの?ベッドなんかひとつだよ!これで平常心でいろってほうが無理なんじゃない?ねえ、ねえフィディアス、こんなときどうすればいいの!

「ほんとのこと言えよ。嫌だったら……今からでも、部屋は用意してもらえるだろ」
「違うよ、嫌なんじゃない。きっともうひとつ部屋用意してもらっても……私、多分シリウスのとこ、行くと思う」

ぱっと振り向いたシリウスの頬がうっすらと染まっている。それを見てさらに熱が込み上げてくるのを感じながらはしどろもどろに続けた。

「だ、だってこんなときにひとりでいるの嫌だし、心細いし……シリウスと一緒にいたいし……でも、でもでも、シリウスが言ってたことだよ。私は女で……シリウスは、男の子で……だから、その……」

ああ、何を言えばいいんだろう。うまく言葉を見つけられずにそのまま下を向く。静かに歩み寄ってきたシリウスは唐突に強い力で引き寄せての腰を抱いた。強引で、でもどこかにいかにもシリウスらしい不器用な優しさがにじみ出る。彼女はおとなしくその胸に身体を預けた。

「……俺、お前のこと好きだよ」
「え?あ、その……」
「答えなくていい。俺はお前が好きだ。もちろん、女としてのお前にも……すごく、興味がある」

女としての……わたし。耳まで真っ赤になったが思わず身じろぎすると、シリウスはその腕の力を少しだけ緩めた。ささやく。

「でも……お前が嫌がるのに、無理にしようなんて思ってない。だから」

だから、あんまり怖がるなよ。そう言って身体を離したシリウスは、見上げる彼女の頭を撫でてそれを遮ると、目が合うよりも先にの脇を通り抜けて扉のほうに歩いていった。

「俺なんにも持ってきてないから、トムに寝巻きかなんか借りてくる」

ぱたん、と。シリウスが出て行った部屋の中、はトムが運んでくれたトランクを引きずってベッドの上に置いた。ムーンはまだ帰っていないらしい。空っぽの鳥かごと、花束    いけない、もう元気がない。慌てて洗面所に行って、ひとまず水を溜めた中につけておいた。トムも花瓶くらい出してくれたってよかったのに。
あらためてベッドに戻り、今度は浅く腰かける。足を床に投げ出して、はぼんやりとくすんだ天井を見上げた。身体の芯が、熱を帯びてじんじんと疼く。情けないような    けれどもほっとしたような。

シリウスのことを思うだけで、涙が溢れそうになった。
    ああは言ったものの……。

温めの湯に鼻まで浸かってしばらく息を止め、耐え切れなくなったところで水音を立てながら顔を上げる。意味もなく同じことを繰り返して、考えるのはのことばかりだった。

バーにいた老魔女はかねてからの知り合いのようだった。泥酔状態でのいかがわしい話をでっち上げて、しまいには自分の息子にどうだなんて言い出した。それを真に受けて嫉妬する自分もどうかと思うが、が漏れ鍋で裸踊りをしていただの人気ロックバンドのボーカルとキスしてただのという話を聞かされては、男なら誰だって想像してしまうじゃないか?冷静でいられないのも仕方ない。
だが、を好きなのはもちろん本当で。無理に押し倒そうなんて当然思ってなくて。だが先にシャワーを浴びたが濡れた髪を拭きながらバスローブ姿で現れたときは、もうおしまいかと思った。いくらなんでもひどすぎるだろ、それって誘ってるのか?あまりに無防備すぎるその格好に、なんとかガマンにガマンを重ねてバスルームに飛び込んだ俺って、本当に健気だ。もしくはワットにこんなこと知られたら、臆病者と笑うだろうか。ああ、笑いたければ笑え。俺はの気持ちを尊重したいだけなんだ    そう、自分に言い聞かせて。

(……なんとか持てばいいんだけどな)

声には出さずにうめきながら、彼は再び湯船の中にゆっくりと顔を沈み込ませていった。
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(08.08.04)