三時間、経った。薄がりの公園に立っている丸い時計を見上げながら、小さく息をつく。傍から見れば、僕は恋人との約束をすっぽかされた可哀相な男に見えるのだろうか。あながち、間違ってはいないが。だが決定的に間違っているのは、彼女は僕の恋人などではないし、それに僕たちはちゃんと約束を交わしたわけじゃない。僕が一方的に「お願い」したに過ぎない。けれども彼女は、必ず来ると信じていた。
僕は待つ。いつまででも待つと約束した。彼女はきっと、いつかは来るから。
(……あてが外れたか?)
ようやく、最悪の結末がむくむくと湧き上がってくる。このまま彼女は現れず、僕は薄情な男というレッテルを張られてそしてリンドバーグの最期に立ち会うことができない。一通りシュミレーションしてから、僕は自分が最低な男だと思った。リンドバーグが死ぬわけない。当時三年生だった僕らの前で彼がそこまで素晴らしい魔法を披露してくれたわけではないが、その魔法使いの真の強さというものはどこからか自然とにじみ出てくるものなのだろう。僕は彼を、強い魔法使いだと思った。あのが慕うリンドバーグが、こんなことで死ぬわけがない。
けれどもソフィーが言っていた。闇祓いは大慌てで消してはいたが、現場の上には例の髑髏の印が浮かび上がっていたと。ここ数年イギリスで頻繁に起こっているというその髑髏事件は、今のところ例外なく被害者全員が死に至っている。緑色の髑髏
死の、呪文。
(何で……リンドバーグが襲われなきゃいけないんだ?)
純なる血を掲げる、謎の黒い集団。
その頂点に君臨するという闇の魔法使いの名前を、彼は知っていた。
All Gathering Around
ありがとう
遅い、おかしい。あいつ、どういうつもりだ。頭の中だけで必死に考えをまとめようとしていたのだが、それが顔に出てしまっていたらしい。は心配そうな顔でこわごわ聞いてきた。
「ねえ……シリウス、どうかした?」
「あ、いや
悪い。何でもない」
ふたりは聖マンゴ病院の食堂で簡単な夕食をとっていた。時刻はすでに七時、面会時間は八時までなので食事が終わったら少しリンドバーグの顔を見て、煙突飛行で漏れ鍋へというところか。病室に泊めてもらえないかと交渉したのだが、それが可能なのはあくまでも身内のみという融通の利かない規則のせいで、彼らは仕方なく漏れ鍋に部屋を借りることにしていた。
「でも、シリウスさっきからずっとこわい顔してる」
「えっ、あ……そうか?」
そんなつもりはなかったのだが。思わず口元の筋肉を指先で解しながら、かぶりを振る。
「悪い……ほんとに、何でもないんだ。何で、こんなことになっちまったんだろうなって」
ごまかすつもりで口にした内容が悪かった。は途端にしょんぼりして、やっと口に運びかけていたパンの欠片を力なく皿の上に戻す。パンにサラダ、スープという朝食のようなメニューが載った彼女のプレートにはまだほとんど手がつけられていなかった。
「ほんとに……何なんだろうね。私、まだわけが分かんない」
「いや、きっと誰も……分かってるやつなんて、いない」
一番わけが分からないのは、リンドバーグなのではないか?わけの分からないまま、わけの分からない呪文をかけられて……もしくは彼は、事情をよく知っていたか。それを聞けるような状態ではないが。
「ねえ、シリウスは知ってる?」
「ん?なにを」
落としかけていた視線を正面のに戻して、聞き返す。彼女はすっかり沈み込んだ様子で続けた。
「フィディアスを襲ったっていう……謎の集団。闇祓いは、はっきりしたことは分かんないって言ったけど……ひょっとして何か、ちょっとしたことは分かってるんじゃないかって……なんとなく、そう思って」
彼女の勘は、きっと正しい。噂程度なら、彼も聞いたことがあった。だが明確な根拠がない以上、政府の人間としてオーラーが明言を避けるのは当然のことだろう。そして彼もまた、それを彼女に話してもいいものか判断がつかなかった。
思い悩んでいる間に、がさらに聞いてくる。
「知ってるんだね?」
「……いや。知ってるなんて言えない程度の単なる噂だ。オーラーが言わなかったのも無理ない」
「何なの……それ?」
「聞いてどうするんだよ。つまんねえ噂だぞ」
図らずも、きつい口調になってしまった。それはある意味で自分の血筋にも関係するその噂をできれば彼女の耳に入れたくないという思いからだったのだが、そんなことを知らない彼女はむっとした面持ちで、
「私、何でも鵜呑みにしたりしないよ。自分の耳で聞いて、それから自分の頭で考える」
ああ、そうだろう。お前はそういう女だな。でも俺が言ってるのはそういうことじゃないんだ。
かぶりを振って、嘆息混じりにうめく。
「……デスイーター」
「え?」
オーラーの見張っているあの病室で話したい内容ではなかったので、ちらりを周囲を見やってから声を潜めて言った。もっとも、それなりに混み合っているこの騒々しさの中で盗み聞きされることもなかろうが。
「死喰い人
そう名乗ってるらしい。ある闇の魔法使いの下で、馬鹿馬鹿しい信仰を掲げて殺戮を繰り返す……まあ、そんな集団があるんだと。それがそのお前が見た髑髏の印ってのを、現場に打ち上げていくとか」
「殺戮……?そんなに、たくさん人が……?」
傍目にもショックを受けた様子で、が尻すぼみにもごもごと呟く。彼はどこか居心地の悪い思いを抱いて、目を逸らしながら首を振った。
「ここ最近イギリスでその髑髏の事件が何件も起こってるってのはほんとみたいだな。でもそれを束ねるっていう魔法使いのこともよく分かってない。だから髑髏は単なる模倣犯の仕業で、ほんとはそんな集団ないんだって見方もあるらしい。俺にはよく分からない」
「……そうなんだ。ねえ、もしそんな集団がほんとにあるとして……その人たちの目的って、何なんだろう。もしフィディアスがその人たちに襲われたんだとしたら……何で、フィディアスがそんな目に遭わなきゃいけなかったのかな。なんで……」
「」
やっぱりこんな話、すべきじゃなかった。発作でも起きたかのように肩を震わせて嗚咽し始めたのもとに駆け寄り、シリウスはぎこちないやり方でその頭を胸元に引き寄せた。
「お前、疲れてるんだよ。今日はもう帰ろう。腹減ったら俺が何か買ってきてやるから」
「……シリウス、ごめん」
「うん?なにが」
「ごめん……シリウスだって、つらいはずなのに。ごめんね……」
「バカ、俺は好きでこうしてるんだよ。今さらそんなこと気にするな」
つらくないなんて言うつもりはない。俺だってリンドバーグのことは好きだった。だが彼女がきっと他の誰よりも彼を身近に感じて慕っていたことは分かっているし、そうして悲しむ彼女の傍についていてやりたいという思いのほうが俺にはずっと強かったのだ。
いつの間にかこちらの背に伸ばしてきていた腕にぎゅっと力をこめて、がありがとうとささやく。それだけで自分の胸の中が温かく溶かされていくのを感じて、シリウスは微笑みながら手を離した。もう一度帰ろうと告げた、そのとき。
「!」
食堂中のすべての視線を掻っ攫うかのような
そして実際それはたとえでも何でもなかったのだが
大きな甲高い声が、彼女の名前を呼んだ。呆気にとられて振り向く俺たちの目に、嘘のような光景が飛び込んでくる。食堂の入り口にたたずむ二つの影が、こちらの姿を捉えるなり周囲の患者たちを薙ぎ倒さんばかりの勢いで突進してきたのだ。
「!、!会いたかった!」
「な……な、な」
すっかり言葉を失った様子でそちらを見やったまま、が呆然と目をひらく。一足早くこちらにたどり着いたエバンスは勢い任せとしか思えない速さで俺を突き飛ばしての痩躯を抱き締めた。
「、会いたかった!ごめん、ごめんなさい……」
「リ、リリー……なんで、ここに」
「ごめん、ほんとにごめんなさい。ほんとはもっと早く来られるはずだったのに……私が、私が強情だったばっかりに……ごめんなさい、、ごめんなさい……」
「リリー……く、くるしい」
本気で苦しそうなのうめき声。我に返ったらしいエバンスがの身体を離すと、彼女の整った顔は溢れ出した涙で言っちゃ悪いがくしゃくしゃになっていた。もっとも、美人はどんな泣き方をしていたところでそれなりに様になっているわけだが。いや、そんなことはこの際どうでもいい。
「お前らバカか!ここはホグワーツじゃないんだぞ、静かに入ってこられねえのか!」
何事だと人々が興味津々でこちらの様子を窺ってくるので、声を落として怒鳴りつける。エバンスはぎろりと凄まじい形相で俺を睨み、バカはあなたよ減点するわよとわけの分からないことをのたまった。なんだこの女、こんなときになにバカなこと言ってるんだ、こいつ本気でバカか?それとももしくはの心配をしすぎて頭がおかしくなったのかもしれない。
「君に常識を説かれる日がこようとは思わなかった、パッドフット」
エバンスの後ろから現れてニヤリと笑ってみせたジェームズだったが、その笑みはやはりどこか覇気のない、弱々しいものだった。
うそ、どうして。夢でも見ているのだろうか。突然現れたリリーに泣きながら抱き締められたとき、はその温もりを感じながらも本気でそんなことを考えていた。けれども、違う
リリーも、そして彼女と共に現れたジェームズも。幻かと思ったシリウスと同様、紛れもなく本物だった。
四人でフィディアスのベッドを囲みながら、静かに涙したリリーがぽつぽつ語りだす。
「ポッターが……電話をくれたの」
「電話?」
予想外のことを聞かされて、は素っ頓狂な声をあげる。
「ジェームズが電話?電話?電話、使えるの?」
「失礼だな。僕のママはマグルボーンだよ」
ふて腐れた声を出しながらも、ジェームズは微笑んでいた。ああ、ジェームズ。私が突き放したのに、またこんな私に向けて、笑いかけてくれるの?
「シリウスに聞いたかもしれないけど、ソフィーがダイアゴン横丁で君のことを見かけて……状況が状況だったから、心配して僕に連絡をくれたんだ。そしたら僕も、居ても立ってもいられなくなって」
そう言ってジェームズは少し照れたように頭を掻いた。無造作にその後ろ髪がぴんぴんと跳ねる。
「まずは両面鏡でシリウスに連絡をとって……それから、エバンスもきっとのこと心配だろうと思って……フクロウ便でもよかったんだけど、すぐに連絡したかったし、それに……エバンスもしばらく君と喧嘩してたみたいだったから……できれば、直接口で伝えたかったんだ」
喧嘩してたみたいって、一体誰のせいだと思って。けれども今さら怒りは湧いてこなかったし、そんなことはこの際どうでもよかった。ジェームズが、リリーが、シリウスが
こんなにも傍に、いてくれる。
まるであらかじめ打ち合わせでもしていたかのように、リリーがジェームズの言葉を受け継いだ。
「ポッターから電話をもらって……一緒に聖マンゴに行こうって、言われたの。でも、ポッターもも、あのことがあって以来ずっと遠ざけてたから……思い切るのに、時間がかかっちゃって。ほんとはあなたのこと、心配で心配でたまらなかったのに!」
弱々しい声で叫んだリリーの目からまた涙が溢れ出したのを見て、は罪悪感でいっぱいになった。大好きなリリーにこんな顔をさせているのは、紛れもなく私なんだ。
「ほんとだよ。僕、結局エバンスが来るまで四時間も待ったんだ」
「だから、ごめんなさいって言ったじゃない」
茶化すように言ってのけたジェームズを潤んだ瞳で睨みつけて、リリー。だがそれも心底憎しといった表情ではなかったので、は思わず小さく噴き出した。ジェームズとリリーはきっと、こういう関係がよく合っている。
「リリー。私、ほんとはずっと謝りたかったの……ごめん、ごめん、ほんとにごめんなさい……」
「もう、いいのよそんなこと!あなたが無事で、ほんとにほっとしたんだから。私こそ、素直になれなくてごめんなさい。あなたが私を思っていてくれたって、分かってたはずなのに」
リリーがもう一度抱き締めて頭を撫でてくれたので、は申し訳なさと同時に心から溢れる喜びを噛み締めた。きっとお姉さんがいたら、こんなふうに抱いてくれるのかな。ペチュニアは、いつだってこんなにも温かい胸を持っているのだ。
「僕も……ごめん、。あのとき、君の言うことちゃんと聞いておくべきだった」
「ジェームズ、それは全部俺のせいだって何度言えば分かるんだ」
「もういい、やめてよ二人とも」
言い争いを始めそうになったジェームズとシリウスの間に入って、は必死にかぶりを振った。
「せっかく会えると思ったのに、フィディアスがこんなことになって……ひとりじゃきっと、耐えられなかった。みんなが来てくれたから……だから私、すごく心強く思ってるんだよ」
いまだ目を覚まさないフィディアスの手をそっと両手で包み込んで、三人の、最高の友人たちを見回す。ぽっかり空いた空洞が、こんなにも温かく満たされていく。
「みんな
来てくれて、ありがとう」