ホグワーツには百四十二もの階段があった。広い壮大な階段、狭くてガタガタの階段、金曜日にはいつもと違う所へ繋がる階段、真ん中あたりで毎回一段消えてしまうので忘れずにジャンプしなければならない階段。
扉もいろいろあった。丁寧にお願いしないと開かない扉、正確に一定の場所をくすぐらないと開かない扉、扉のように見えるが実は扉の振りをしているだけの硬い壁……。
物という物がたびたび動いてしまうので、どこにいつ何があるかを覚えるのも大仕事だった。初めのうちは余裕がなくて気付かなかったが、あらゆる場所に掛かっている肖像画の中の人物たちもしょっちゅう互いを訪問し合っていたから目印にはならないし、鎧もまた生徒たちの見ていないところで歩き回っているに違いない。
問題なのは城内の構造だけではなかった。突然するりと扉を通り抜けて現れるゴーストや、子供たちをからかうのが大好きなポルターガイストのピーブズ。城の管理人であるアーガス・フィルチや、その飼い猫、ミセス・ノーマ。
は数日前廊下で遭遇したスリザリン生と口論になって杖を取り出したところをたまたまフィルチに見つかり、規則違反だとふくろう小屋の掃除を課された。相手のスリザリン生はより一瞬杖を出すのが遅れたために運良く難を逃れた。
「ついてないなぁ。こないだ一回行ってみたけどさ、ふくろう小屋って意外と広いんだよね」
あそこで杖を取り出したのは、単なるこけおどしだったのに。どのみち自分にはまだ大した魔法は使えない。それがスリザリン生に知られずに済んだのはかえって良かったかもしれないが。
魔法史の教室での隣に腰掛けながら、ニースが小さく苦笑する。
「まあ、まだましだって思えばいいんじゃない?寮の減点にはならなかったわけだし」
「うーん……ま、そりゃそうだけどさ」
フィルチ本人に減点や、罰則を与える権限はない。そんなものがあればあの管理人は必ずやその権力を乱用するだろう。この城のことを知り尽くしている彼は生徒が小指一本でも規則違反の境界を越えれば二秒後には息を切らせて飛んできて、嬉々として先生たちに告げ口するのだから。つまり今回の罰則も、正しくは現場の近くにいたマクゴナガルによって課されたものだ。早々にフィルチに捕まったに、先生は怒るというよりはむしろ呆れた様子で、それがかえってショックだった。どうにか変身術で挽回しなければ。
嘆息混じりに魔法史の教科書を開くと、ちょうど教室に到着したらしいジェームズがそのまま真っ直ぐにの許へやって来た。
「、聞いたよ、フィルチに罰則食らったんだって?君って何でも先んじて体験してくれるよね。僕らのパイオニアだよ、うらやましい」
「はー?うっわー、嬉しくない。何よ、そんなに罰則受けたいんならフィルチの前で杖でも握れば一発よ。試してみれば?私は好きで掃除しに行くわけじゃないんだからね!」
罰則は今夜、夕食後に行うことになっていた。魔法は禁止。箒、はたきのみ。終わるまで帰さないと何度も釘をさされた。はあ……一体何時までかかるんだろう。変身術の宿題もまだ済ませていないのに。まずい。ただでさえ今回の罰則で早速マクゴナガルの不興を買ったのに、第一回目の宿題までやってないなんて……考えただけでも恐ろしい。
今夜は眠れない、かも。
人が罰則を受けるのがそんなに楽しいのか、にやにや笑いを絶やさないジェームズを睨み付けてから再び教科書に目を落とす。自分で言うのもなんだが新入生の中でも名の通った私と、そしてジェームズとが話をしていると聞き耳を立てる生徒たちは多い。ジェームズとお喋りするのは嬉しくて楽しかったが、そういった意味ではかなり周囲に気を遣ってしまう。
ちらりと視線を上げると、少し離れた席に着いたブラックが不機嫌そうにこちらを見ていた。
どきりとして、慌てて顔を逸らす。何よー!そんなに睨まなくたっていいじゃない!私『が』ジェームズを呼んだわけじゃないんだから。ジェームズの方『が』勝手に私のとこ来たんだから!怒るならそっちを怒ってよ!
なんだかこっちまでイライラしてきて、ぱたんと閉じた教科書をすぐに机上に放り出す。するとそれをひょいと拾い上げたジェームズは、腰を屈めての耳元に顔を近付けてきた。さらにその教科書をみんなから二人の顔が隠れるようにかざし、ひそひそと囁く。
先ほどブラックに睨まれた時とはまったく別の感情に心臓が跳ね上がり、は驚きのあまり椅子の上で固まってしまった。
だがそんなことには露も気付いた様子を見せず、ジェームズは小声で続けた。
「
ねえ、今度僕たちと一緒にフィルチにちょっとした『仕返し』でもしてやらないかい?」
INITIAL FRACAS
はじまりの呪文
魔法薬学の授業は地下牢教室で行われることになっていた。オリエンテーションの際に少しだけ中を覗いたが、光の差し込まない室内はランプの明かりが点されてもどことなく薄暗く、ひんやりした空気が漂ってくるようだ。教室の中に保管されている薬剤や材料を一定温度に保つため室温には気を遣っているのだと上級生は言っていたっけ。
がニースやジェームズ、ブラックたちと教室の前に着いた時には、既に到着していたスリザリン生や他のグリフィンドール生たちがたむろして教室の開放を待っていた。
「あら
スリザリンに入り損ねたさんのご登場よ」
の存在に気付いたスリザリンの女子生徒が聞こえよがしにそう言うと、他のスリザリン生たちも押し殺した声でくすくすと笑い出した。グリフィンドール生は誰も笑わなかったが、当惑気味にこちらを盗み見ただけで何も言わない。
これが嫌だったんだ。スリザリンとの合同授業。
言い返そうか、無視しようかと頭の中で考えていると、後ろから一歩踏み出してきたジェームズがそっと彼女の背を叩いて大きく口を開いた。
「ああ、まったくだね。あんなネチネチした蛇みたいな連中と離れられてってやつは本当についてるよ。には獅子が似合ってるしさ。組み分け帽子も初めからもうちょっと真面目に考えてくれたら良かったのにね。そうすればあんな不愉快な連中の中に一瞬でも混じらずに済んだのに。それとも
グリフィンドールに転寮できたに妬いてるのかな?」
先ほどのスリザリン生は甚だ不愉快だとばかりに顔を歪めたが、すぐに余裕の笑みを浮かべて鼻で笑ってみせた。
「ええ、そうでしょうね。その女には傲慢屋のグリフィンドールがお似合いよね。どうして組み分け帽子が一度でもそんな女をスリザリンに入れたのか理解に苦しむわ。あんたも何様?ひょっとしてその女に惚れちゃってるわけ?」
下らない。どうして女っていうのはそうやってすぐに『惚れてる』だの『好きなのか』だの
。
「ああ、そうさ。僕はが好きだよ。彼女は僕の、大切な友達だ。だからを馬鹿にする連中は許せないね」
はびっくりして目を丸くした。他のグリフィンドール生たちも目をぱちくりさせてじっとこちらを凝視している。
友達。大切な友達。
本当にそう思っても、いいのだろうか。
彼はこんなところで、『大切な友達』だと公言してくれた。私を庇おうとしてくれた。そのことが少しだけ照れ臭く、そしてとても嬉しかった。
彼のその言葉さえあれば、この先もこの城で生きていけると心底思った。たとえ将来、彼が私から離れていくことがあったとしても。
「
馬鹿馬鹿しい」
答えたのは、女ではなかった。以前その声の主と言葉を交わしたことがなければ、彼だと気付かなかったかもしれない。
スリザリン生の固まりの奥に、冷え切った眼差しでこちらを見据える男子生徒の姿があった。湿った簾のような髪から覗く暗い瞳。
が口を開くよりも先に、ジェームズはにやりと笑って大きく胸を反らした。
「どうもお前とは縁があるみたいだな。馬鹿馬鹿しいのはそのふざけた頭じゃないのか?いや
お前の崩れた顔そのものか?」
今度はグリフィンドール生たちが声をあげて笑う番だった。も少しだけ迷ったが、憤怒に歪んだスネイプの顔を見て結局は大袈裟に噴き出した。ジェームズはその光景に満足したように二、三度頷いてから続ける。
「えーと、名前は何ていったかな
あぁ、そうだ。確か『スニベルス』(泣きべそ)、だったっけ?」
それが引き金となった。スネイプはすかさず懐から杖を抜き出し、それとほとんど同時にジェームズもまた杖を構えてぴったりとスネイプを狙う。そして次の瞬間には石の廊下に二人の激しい呪文が響き渡った。
「エクスペリアームス!」
「ロコモータ・モルティス!」
あまりに一瞬のことで、には何が起こったのか分からなかった。二つともまったく知らない呪文だ。スネイプが右手首を押さえて歯噛みするのが見えたのでそちらを注意深く見つめると、彼の手から杖が消えていることに気付いた。
びっくりして目を見開くと同時、のすぐ側にいたグリフィンドールの男の子が突然ぱたりと倒れる。
「ど、どうしたダンカン!大丈夫か
」
周りの男の子たちが大慌てで彼の許へ駆け寄るが、ダンカンはまるで両足を見えない紐で縛られたようにジタバタもがいている。いつの間にかその手に二本の杖を握っていたジェームズが彼に向けて何やら呪文を唱えると、ダンカンの両足はぱっと離れてだらりと石の床に突っ伏した。
「な……ジェームズ、一体何が……」
「スニベルスくん、無関係の人を巻き込むのは良くないな。もう少し的中率を上げてから再挑戦してくれたまえ」
「黙れ!早く杖を返せ
」
スネイプが声を荒げ、スリザリン生の中から一歩こちらへと踏み出してきた時、今度はの背後からまた別の呪文が聞こえてきた。
「ロコモータ・モルティス」
あっという間に先ほどのダンカンと同じ現象がスネイプを襲う。引っ繰り返ったスネイプを見てグリフィンドール生の多くは大声で笑い、スリザリン生たちはやいやいと非難の声をあげた。
振り向くと、にやにやと笑いながらブラックが構えた杖を下ろすところだった。ナイス、とジェームズが彼を見てウィンクする。ブラックは平たい声音であっさりと告げた。
「ダンカンの代わりな。これで少しは『人の痛み』が分かるようになったろう」
「だ……黙れ!」
怒りで耳まで真っ赤にしたスネイプが低く怒鳴りつける。彼の両足はまだくっついたままで、芋虫のように身を捩らせることしかできない。さすがにスネイプが哀れに思えてきて、はジェームズの腕を軽くつついた。彼が振り向くと同時
。
「みんな、一体何を騒いでいるんだね?」
ようやく開いた教室の扉から顔を覗かせて、スラッグホーンが不思議そうに訊いた。
「先生!グリフィンドールの連中がスネイプを!」
すかさすスリザリン生が訴えると、スラッグホーンは床に横たわったままもがくスネイプを発見して目をぱちくりさせた。
「セブルス、一体どうし
ん?これは足縛りの呪文かな?」
スラッグホーンはすぐにスネイプからグリフィンドール生へと視線を移し、杖を構えたままのジェームズとブラックを見てなぜか歓声をあげた。
「おお!やっぱり君たちか
そうだろうと思った!一年生でこんな呪文を扱えるのは限られているだろうからな。だがシリウス、ジェームズ、こんな所で友達に呪いをかけるのは感心しないね。これからは気を付けておくれよ。さあ、セブルス
フィニート・インカンターテム」
スラッグホーンが杖を取り出して唱えると、密着していた両足が離れてスネイプは床に這いつくばった。ジェームズとブラック、そして寮監までもをきつく睨み付けてから、ようやくゆっくりと身体を起こす。スラッグホーンは満足げに笑いながら生徒たちを教室内へと促した。スリザリン生たちは寮監にグリフィンドールの減点を求めたが、彼は「誰も怪我をしなかったんだからいいじゃないか」と軽く笑った。
教室に入る前、ジェームズがスネイプの杖をぽいと彼の方に放り投げると、はそれを拾い上げたスネイプが嫌悪感を剥き出しにして杖の端を拭うのを見た。
ちょっと……やり過ぎたんじゃないかな。
ニースと一緒に後ろの方の席に着きながら、は大きく溜め息を吐く。ジェームズがスリザリンの嫌味から庇ってくれて、勢いだったとしても私を『大切な友達』だと言ってくれたのは素直に嬉しかった。でもそれがあんなに激しい喧嘩、しかも魔法を使ったそれにまで発展するなんて。スネイプのことはもちろん大嫌いだったが、あれでは少し可哀相にすら思える。
もつれた黒髪を苛立たしげに掻き上げながら席に着くスネイプの後ろ姿を見て、は重苦しい気持ちになった。
続いて、そこからまた離れた場所に座ったジェームズとブラックを見やる。今度ジェームズと話すことがあったら、あれはやり過ぎだよって言おう。あんな嫌味な男、放っておけばいいんだ。それが最も害がない。スネイプも、もちろんジェームズにだって怪我でもされたら。
気持ちだけで嬉しいよって。私はあんなの、全然何とも思ってないよって伝えれば。
だが、その時点で何となくは気付いていた。初めは
そう、始まりは、私を思ってのことだろう。だがジェームズとスネイプの間には、それ以上にもっと相容れないものがある。これからこの城で過ごす数年間、それはきっと永遠に消えないのだろうなとは漠然と思った。
光と闇
そんな、対照的なもの。彼らはその象徴のような感じがした。
にこにこと笑いながら教壇に立つスラッグホーンはまず一番に出席を取ったが、のところまで来るとちょっとだけ寂しそうな顔をした。だがジェームズとブラック、そして他にも何人かの名前を呼ぶ時は本当に上機嫌で、彼らは何か既に先生のお気に召すことをやってのけたのだろうかと訝しく思った。
そういえばさっきも
あの二人のこと、スラッグホーン先生はすごく親しそうに呼んでいたっけ。
すごいな。私と違って『事故』のために有名になったわけじゃなくて、自分だけの力で名を売って。もう先生にまで気に入られて。
私ももう少し頑張ろうという思いと、彼らとは所詮土俵が違うのだと諦める思いとが交錯して、は今は授業に集中しようと慌てて教科書を開いた。