澄み渡った青い空に輝く黄色い陽光が眩しい。長いようで短かった一年も終わり、夏だ。生徒たちは早々に城を去り、そこには一部の教師と森番だけが残った。
くたびれたトンガリ帽子や赤々と燃える不死鳥に見下ろされて机上の一つの封筒をじっと見つめていたその老人は、やがて小さく溜め息をついた。彼にはあまり似つかわしくない仕草だ。
彼が悩んでいるのは傍目にも明らかだった。止まり木の美しい鳥は心配そうにこちらの手元を覗き込んでいる。棚の上方にちょこんと置かれた古びた帽子は、その裂け目をさらに広げてぱくぱくと喋り始めた。
「アルバス、君がそのようなことで悩むなど、珍しい!一体何を考えているのかね?」
アルバスと呼ばれたその老人は、半月形の眼鏡の奥からブルーの瞳を覗かせてそのトンガリ帽子をゆっくりと見上げた。そして右手を少しだけ上げて軽く一回転させる。すると棚からその帽子が飛び出し、ふわりと彼の目の前の手紙の上に下りてきた。
途端に、トンガリ帽子は驚愕の声をあげた。
「な、なんと!確かに……これは難しい、非常に難しい。君が頭を抱えるのも頷ける……いや、悩みどころだ。この少女は……ホグワーツに来るべきだと思うかね?どうだね、アルバス」
「ふーむ。それが分からぬから、考えておるのだよ」
「うむ、もっともだ」
老人が再び顔を顰めるのを見て、帽子もまた黙り込む。その横では、急にボッと音を立てて赤い鳥が燃え上がり、灰になって零れ落ちていった。
それからしばしの時間が過ぎ、灰の山から紅の雛が顔を出したと同時に机上のトンガリ帽子は再びその口を開いた。
「しかしだ、アルバス。この少女がたとえホグワーツに来るべきであれどうであれ、それを決めるのは君ではないだろう。非常に難しい問題ではあるが……しかしこの少女には、選択肢を与えるべきではないかね?普段の君ならば、迷わずそうすると思うのだが?……もちろん、君が神経質になるのも、非常によく分かるが
」
帽子の言葉に、老人はゆっくりと顔を上げて虚空を見据えながら呟いた。
「……そうじゃな。彼女の未来を摘み取る権利など、わしには……」
彼の青い瞳は遠く、遙か彼方を見つめていた。何を思い返しているのか、その帽子には分かっていた。やがて緩慢な動きで帽子に目を落とした老人は、柔らかく微笑んでぱちんと指を鳴らす。
するとどこからか一羽の小柄なふくろうが現れ、彼の広い肩に下り立った。老人はボロボロのトンガリ帽子の下から例の手紙を取り上げると、それを持たせてやる。そのふくろうはホーと小さく鳴き、甘えるように頬を摺り寄せてきた。
「よしよし。ではこれを、彼女に届けてくれぬか
例の、彼女のところに」
もう一度だけホーと鳴いて、ふくろうは勢いよく飛び立っていった。その姿が視界から消えるまでずっと宙を見上げながら、独りごちる。
「……あの子を、見守ってやっておくれ」
AN UNEXPECTED LETTER
それは、一通の手紙
夏だ。
砂浜にひとり腰を下ろし、目を細める。
視界は一面眩しいほどの青に染まっていた。夏らしい入道雲をたたえた空に、穏やかな海。水平線は目を凝らさねば判別できないほどの彼方にある。広い世界。
近くで水着姿のカップルや家族連れが大騒ぎしていたとしても、彼女にはそんなことはまったく関係がなかった。
彼女はシンプルな柄のTシャツに膝上くらいのスカートを履き、少しサイズの大きなサンダルを突っ掛けていた。年の頃は十前後か。肩口まで伸ばしたストレートの髪もその大きな目も綺麗な黒で、それは彼女が生粋の東洋人であることを物語っていた。
少女はここに来るのが好きだった。通っている小学校に行くのも家にいるのも同じくらい憂鬱だ。
唯一の楽しみといえばこうして一人で美しい色の景色を眺めることだった。あとは強いて言えば、読書くらいか。趣味は何だと訊かれればそう言わざるを得ない。
彼女が特に好んだのは、快晴の青空と輝く海原、そして満月の明かりが照らし出す漆黒の天上だった。故に彼女はよく上を見上げながら歩いたし、こうして家の側の浜辺に足を運び、真冬であったとしても夜は部屋の窓を開け放って真ん丸の月を見ていた。
友達はいないと言えば語弊があるだろう。だが少なくとも、親友と呼べる人間はいなかった。
学校にいれば嫌でも周囲と話を合わせねばならないし、そうすることで上辺だけの関係は保たれる。すぐにその鎖を断ち切ることもできたが、その前例である九組の女の子のことを考えると、いじめなどという面倒なものに遭うのも避けたかった。
同じクラスの女子たちからはつまらないヤツだと思われているだろうが、嫌がらせさえされなければ別にいい。彼女にとっても、彼女らは実に面白みがなかった。恋愛や化粧以外に話題はないのか。
山の上にあるボロボロの自宅に戻れば、父がいる。そうだ、あの頼りない男が。母はいない。彼女を生んですぐに亡くなったと聞いた。
父はやっと一人娘の彼女を養ってはきたが、体力も忍耐も持ち合わせてはおらず定職には就いていなかった。いい年をした親父がアルバイトを転々としている。彼女にはそんな父が恥ずかしかった。不器用で家でもあまり話さない。時折休まずに喋り続けるのは、何か失敗した時や動揺している時だ。下らない御託を並べたところで自分のミスは消えないのに。そして一番嫌いなところは、カッとなると手が出ることだった。
彼女に非があれば仕方ない。だがそうでない時も、だ。なよなよしているくせに癇癪もち。最低。
学校も家も、嫌いだった。それ以外の場所に行くために適当な言い訳があれば惜しみなく使った。
あぁ、いっそどこか遠くへ行きたい。彼らの決して手の届かないような
例えば、外国とか。
彼女は実際、幼い頃からヨーロッパに憧れていた。押入れの奥のダンボールの中に、母の遺品だという品々が入っていることを彼女は知っていた。その中にはイギリスのガイドブックが入っていて、所々ペンで印がついていたりもした。英語だから読めないけど。
そして一際彼女の目を引いたのは、中の人物が動く写真のようなもの。恐らく若い頃の母だろう。楽しそうに笑いこちらに手を振ったりおかしな表情を作ったりしていた。本物の写真は決して動いたりしない。どんな仕掛けがあるのだろうと彼女は日々頭を巡らせていた。
だが彼女がそのダンボールを漁っているのを知った父は、やはり大声を出して怒り、それらをどこかに隠してしまった。それから一度も、彼女はそのダンボールを見ることはなかった。
父は彼女が母のことを訊ねると、適当に誤魔化すか、あまりにしつこいとまた怒鳴った。それ以来、彼女は決してその話題を父の前で出さなくなった。
母さんは、どんな人だったんだろう。
彼女はよくそのことを考えた。だが父は近所付き合いも親戚付き合いも皆無で、母のことを聞けるような人物は周りには一人もいない。手がかりは幼い頃に数回見ただけの母の動く写真と、イギリスというキーワードだけ。
母さんはイギリスによく旅行に行っていたのだろうか。それともそこで生活していたのか。写真に一緒に写っていた友達と思しき人々は、そのほとんどが外国人に見えた。そのアルバムの中に、父の姿はなかった。
何で死んじゃったの……母さん。
母さんが生きていてくれたら、きっと今の私の生活は変わっていたのに。ひょっとしたら父さんも、優しい人だったかもしれない。
写真の中の母は柔らかい笑みをいつも浮かべていた。あんな女の人と一緒にいたのなら、誰だって笑顔になれるはずだ。
彼女は鼻の奥につんとした感覚が込み上げてくるのに気付いた。慣れている。泣くことにはもう、とっくに慣れっこだ。
砂の上で膝を抱えると、彼女はひとり、声を押し殺して泣いた。浜辺の人々はそんなことには気付きもせずに、知っていたとしても、誰も気には留めやしない。彼女は暗くなるまで、ずっとそうしていた。
嫌々家へと戻った彼女は、玄関先で予想外の出迎えを受けた。
ドアを開けると、父が怒ったような困ったような、どちらともつかない表情をして立っている。何かしただろうか。また叩かれるのか。ああ神様、世の中なんて何て理不尽なんだ。彼女は唇を少しだけ引き結んだ。
「た、ただいま」
ようやく声を出す。すると父はそれには答えずに、ゆっくりとその右手をこちらへと突き出してきた。
何だろうと見やると、彼の手には一通の封筒が握られていた。
「な、何?」
眉を顰める。すると父は神妙な面持ちで、吐息とともにこう言った。
「……お前に、手紙だ」
彼女はそのたった一通の手紙が、自分の人生を大きく変えようとは予想だにしていなかった。