88.霧
敵の小隊と小競り合いということは、何度かあった。中忍試験の第二試験と同じだ。仲間と連携して、敵を退ける。それが難しければ撤退する。飛び道具で敵を牽制しながら情報収集を行い、私とゲンマの連携忍術で相手の陣形を崩し、ガイが得意の体術で一気に攻める。敵が疲弊してきたら追撃し、撤退。
もちろん事はそう上手くいかないし、あわやということもあった。でもいざというときはガイがその反射と機動力で盾となり、時間を稼いでくれた。ゲンマの千本だって目前に迫る敵の意表を突くのに役立った。何度も仲間に助けられた。一人なら、とっくの昔に死んでた。
それなのにあのとき、私にはまだ、覚悟がなかった。
霧隠れの小隊と衝突したとき、敵の術で霧が濃くなった。視野が制限される中、防戦一方で私たちは体勢を立て直そうとしたけど、敵は動きを止めることなく迫ってきた。
風遁で一瞬でも霧を晴らせないかと私が大突破を発動したとき、僅かに回復した視野の中で、目前に迫る敵が長刀を振りかぶったところだった。
後ろは――いつの間にか、岩陰に追い込まれていた。
死の恐怖が、一瞬で全身を駆け巡る。相手はチョウザ先生やシカク先生くらいの年齢で、自分より一回りも二回りも大きな大人だ。
死ぬ、と思ったけど、脳裏に浮かんだのはばあちゃんの顔だった。死にたくない。死ぬもんか。私は母さんとは、違う。生きて、絶対に仲間と一緒に帰る。
握りしめたクナイを引き寄せ、私は敵の懐に飛び込んだ。刀が振り下ろされるより先に、相手の脇腹にクナイを突き刺す。
初めて感じる生々しい重みに、戦慄が走った。飛び道具でなく、誰かを肉薄して直接傷つけるのは初めての経験だった。息がうまく吸えず、全身から汗が噴き出す。
「甘っちょろいお嬢ちゃんだな」
至近距離で、揶揄うような男の声がした。クナイは確かに相手の脇腹に刺さっていて、出血もあるものの、致命傷には至らなかったらしい。急いで抜こうと引っ張ったけど、汗で滑るのか思うようにつかめなかった。
「終わりだ」
男の冷たい声が降ってくる。横にかわせば敵の武器の攻撃範囲に入ってしまう。決めるならこの一瞬で、この距離しかない。
それなのに私は、敵に刺さったままのクナイから手を放すことができなかった。
間近で向けられる殺気と、敵の抜き放った短刀が翻る。
次の瞬間には、敵は私のほうに勢いよく倒れ込んできた。大人の身体を支えきれず、私は一緒に崩れ落ちてしまう。
敵の首の後ろに、クナイがひとつ突き立っていた。
「ぼさっとすんな、行くぞ!」
そのままゲンマに腕を引っ張られ、引きずられるようにしてその場をあとにする。霧が浅いところまで抜けると、細かい切り傷を多く作ったガイが息も絶え絶えといった様子でうずくまっていた。
「……良かった、無事だったんだな」
無事。その言葉を聞いたとき、全身にまた震えが蘇ってきた。肩を貸してくれているゲンマの温もりが、かえって霧の中の冷気を思い出させて身震いする。無事なもんか。ゲンマが来てくれなかったら、私は今頃死んでた。
引き抜けないクナイにいつまでも気を取られていないで、新しい武器を出して止めを刺すしかなかったのに。
ゲンマが、殺すことなかったのに。
「」
中継地まで急いで戻る途中、ゲンマが私にそっと耳打ちした。
「これは戦争だ。死にたくなければ、殺すしかない」
死ぬ覚悟は、できたつもりだった。里のためじゃない。仲間を守るために、死んでも戦うという覚悟。でも実際は、敵の殺気に怯えて動けなくなり、相手を殺すこともできずに仲間に殺させてしまった。
ゲンマは淡々としているように見えた。でも、平気なわけない。平気なわけないのに、ゲンマはそんなこと、おくびにも出さなかった。初めてじゃないんだなって、分かった。
私だけが、いつまでも覚悟がない。
あのときの感触だけは、重苦しく手の中に残っている。
「ガイは……敵を、殺したこと、ある?」
あの戦闘から帰還し、数日が経った。いつもの演習場に向かうと、すでに復帰しているガイが威勢よく修行に励んでいた。ガイは傷も多かったから一度病院に行ったけど、じっとしているのは性に合わないのだろう。チョウザ先生はここのところ、シカク先生、いのいちさんとの任務が多く、ゲンマは今日来ていなかった。
ガイは手を止めて、平然と言ってくる。
「ないぞ」
「そっか……私もだよ」
少しホッとした自分に、嫌気が差す。だから何だというんだ。いつかまた殺されそうになったら、相手を殺すしかないというときに、経験がないから仕方ないと諦めるのか? また誰かが助けてくれることを期待して? 自分の手は汚さずに?
私が死んだからって、それが仲間のためになるのか?
「ガイは……殺せると思う? 自分が、仲間が殺されそうになったら……敵を殺してでも、守れると思う? 同じ……人間なのに」
「分からない。でも、そうしなければやゲンマが死ぬというなら、やるしかないと思う。話して分かる相手なら、戦争になってない」
意外だった。ガイはもっと感情的で、誰かの命を奪うということに神経質なのかと思っていた。でもガイだって、戦地で失われる仲間の命を見て、色々と思うところがあるのかもしれない。
私はガイの隣で足元に視線を落としながら、囁いた。
「戦争って……なくならないのかな。国が違えば、分かり合えないのかな。何で……殺し合わないといけないんだろう。話し合っても……分かり合えないなら、殺し合うしかないのかな。殺し合って……何が良くなるんだろう」
こんなこと、きっと誰でも一度は考えることだろう。ばあちゃんだって母さんだって、幾度となく考えただろう。ヒルゼン様も、チョウザ先生もシカク先生も、ミナト先生も。誰だって考えるだろう。
それでも答えは出ていない。一度止まった戦争が、たった二年でまた始まったことが、その証明。正しい答えがあるのなら、誰も殺し合いなんてしたくないはずだ。
里を守るため。仲間を守るため。家族を守るため。
そのために、他国の人たちを殺す。
殺されないためだと、きっと互いに思いながら。
「殺し合って何が良くなるかは分からないが、だからこそ守らなければいけないんじゃないか? ボクたちに今、戦争を止める力はない。それならせめて、目の前の仲間たちを守り抜く。今ボクたちにできるのは、それしかないと思う」
ガイのまっすぐな眼差しが、私の胸を打った。ガイは本当に、強くなった。体術の技はもちろん、心も。今思えば、アカデミーの頃、私はガイのことをきっと下に見ていた。あんなに簡単な入学試験にも落ちて補欠合格だったし、不器用すぎて熱血が空回り。毎日毎日暗くなるまで修行に明け暮れているのに、まるで上達しない忍術。そして万年下忍と馬鹿にされている父親。
ガイのことが羨ましかったのは本当だ。それと同時に、私はやっぱり彼のことを心のどこかで蔑んでいた。
でも、チョウザ班として共に過ごして四年。私は彼の純粋な情熱と努力に、確実に感化された。落ちこぼれと言われたガイと同じ年に卒業して、切磋琢磨し、同じ年に中忍となり、今や体術に絞って極めつつある彼の情熱には誰も追いつけないと思う。ガイがこれだけまっすぐ突き進めるのは、やっぱり彼のお父さんの存在があるからだろうと感じた。
帰れる場所があることが、人を強くすると思うから。
「……やっぱり私、ガイが羨ましいよ」
ぽつりと漏らした言葉は、ガイには聞こえなかったらしい。不思議そうに首を傾げる彼に笑いかけて、私は澄みきった空を仰ぎ見た。