85.予兆


 ゲンマがチョウザ班以外の任務で忙しくなってから、朝の組手はほとんどしなくなった。でも私とガイが中忍になって三か月も経つと、三人で組んで戦場の後方支援に回ることが増えたので、それに伴って私はまた朝からゲンマとよく修行するようになった。

 後方支援は、拠点周辺の警戒や偵察、補給物資の運搬や管理などがメインだ。基本的には安全なルートとされているけど、いつどんなトラブルに見舞われるか分からない。
 戦地での任務を始めて二か月くらいはいつも緊張していたけど、三か月くらいしてから気が緩んできたのか、私は物資の運搬中に無理をして、運んでいた医薬品を落としてしまった。

「バカ! お前、何やって――」
「ご、ごめん……」

 やってしまった。試験管に入った貴重な薬もあったのに。足元がふらついて、倒れ込んでしまった。最悪。拠点まで、あと少しだったのに。

 狼狽えるガイの隣で、小隊長のゲンマが眉間にしわを寄せて低い声を出した。中忍になってから、任務中にあまり感情を顕にはしなくなったゲンマだけど、不注意で私たちがやらかしてしまったときの剣幕は相変わらずすごかった。

「お前が背負ってるのはただの荷物じゃないんだぞ。これがないと戦えねぇやつらがいるんだ。分かってんのか?」
「はい……ごめん、なさい……」
「待ってくれ、ゲンマ。、どこか悪いのか? ふらついてたじゃないか」
「ガイ、いいから……私が悪い」

 体調が悪いとか、そんなの言い訳にもならない。情けない。どうしちゃったんだろう。里を出るときには何ともなかったのに。あぁ、でもちょっと前から、何か落ち込みやすかったかも。

 私たちはひとまず拠点へと急ぎ、ゲンマとガイの荷物を引き渡した。私の運んでいた医薬品は中身を全て確認して、使えるものと使えないものをリストアップする。貴重な物資を駄目にして、無駄な仕事まで増やす。自分の不甲斐なさに涙が出そうになった。

 水の国との国境近くは霧が深いところもある。安全が確保できるところまで戻り、里まで二日ほどの山麓で私たちは最後の野営をした。

 どっと疲れた。ほんとにもう、どうしちゃったんだろう。

、無理するなよ。ゆっくり休んでくれ」

 ガイが白い歯を見せて笑いながら、見回りに立つ。私はありがとうと返したけど、少し離れたところに座っているゲンマの顔は気まずくて見られなかった。

 隊長として当然なんだけど、私のミスで頭を下げるのはゲンマだ。それが上に立つということだ。自分だって小隊長として人の上に立つようになって、今さらゲンマのすごさが分かった。
 チョウザ先生の下で三人で組んでいたときも、ゲンマはすでに隊長のような役割で、いつも私たちをまとめてくれていた。

「落ち込むだけ無駄だから。さっさと休めよ」

 ゲンマの素っ気ない声が聞こえて、私は膝を抱え込んだ手をきつく握り締める。そうだ、落ち込んだって意味ない。必要なのは反省と、同じことを繰り返さないための手順だ。

 分かってるけど、落ち込むでしょ。あぁ、お腹痛い。

「……トイレ」

 小さく呟いて、私はのろのろと立ち上がった。風下に移動し、草木など自然の薫りが強いところを選んで準備する。帰還したら反省会だな。今はガイやゲンマの言う通り少しでも休んで、無事に里まで戻ることを考えないと。

 用を足そうと下着を下ろしたとき、私は慣れない感覚に一気に血の気が引いた。
 ――まさか。

 暗闇でははっきり見えないものの、下ろした下着には濡れた感触が広がっていた。


***


 が戻ってこない。用を足すにしては、ちょっと長すぎるんじゃないか?

 見回りのガイが戻ってきたのでのことを伝えたら、ガイはボクが見てくると息巻いた。が、ガイはさすがにデリカシーというものがなさすぎる。いくら相手がでも、だ。
 チームを組んで間もない頃、野営中にお手洗いに行ってくると離れようとしたに対し、ガイが何の悪気もなく「ボクも行こう!」とついていこうとしたのが懐かしい。

「見回りついでに俺が行くわ。が戻ってくるかもしんねぇし、お前はここにいてくれ」
「む……分かった」

 神妙な面持ちでガイが頷くのを確認してから、俺は先ほどが立ち去った方角に歩き出した。まだトイレの途中であるという可能性もゼロではないので慎重に進むが、もしかしたら体調が悪化して倒れているかもしれない。の様子は、確かに少し前からおかしかった。

 だからと言って、任務の失敗が許されるわけではない。特に戦争に関わる任務ともなれば、仲間の命に直結する。
 たちは前線から戻ってくる負傷者をまだ見たことがない。あの光景を見たら、自分たちの任務がたとえCランク相当だとしても、もっと緊張感をもって当たるようになるだろう。

 だが、やはり俺はに甘いのかもしれない。だって中忍になったし、小隊を率いていつか戦地に立つだろう。それなのに、俺はまだ心の奥底での世話を焼きたいと思っている。

、大丈夫か?」

 そっと声をかけながら進むと、近くで慌てた様子の声がした。

「ゲ、ゲンマ! やだ、何で来たの!?」
「何でって……こっちの台詞だ。時間かかりすぎだろ。大丈夫か?」
「だ、大丈夫だから! いいから戻っててよ……」
「大丈夫ってお前」

 単純にトイレだとしても、これだけ時間がかかるとすればやはりどこか悪いのだろう。
 さすがに女のにこれ以上近づくのは気が引けるが、このまま戻るのも心配だ。声の方向からして、大凡の目星はついた。近くで待機するかと考えていると、ふと気になる臭いが鼻をついた。

 ――血の臭いか?

、お前……どっか怪我してんのか?」
「ち、違うよ! 違うから、大丈夫!」
「お前な! 最近おかしかっただろ、何隠してんだよ! 任務に支障が出るようなことは事前に共有してもらわねぇと困るだろうが! お前の『大丈夫』は信用ならねぇんだよ!」
「だ、大丈夫だって、ばか!!」

 目星をつけた茂みを覗くと、は膝を抱えてうずくまっていた。暗闇とはいえ、ある程度、目は慣れた。は引きつった顔をして愕然とこちらを見上げていた。
 とりあえず下は……脱いでない。なら、問題ない。

、アホ、無理しやがって。しんどいなら最初に言えよ。そしたらスケジュールの調整くらいできたろうが」
「ち、違うって……ばか、ゲンマのアホ、ばか、お腹痛い……」
「何だよ、腹が痛かったのか? じゃあ血は? 怪我してんならさっさと見せろ」
「ばか!! ゲンマのばか!!」

 は涙混じりに声を荒げた。何なんだよ、さっきから。人が心配してんのにバカだのアホだの。大丈夫ってごまかしてすぐ隠そうとするお前のほうがアホだろうが。こんなときに強がってる場合か。

 俺はそのとき初めて、の手に小さな袋が握られていることに気づいた。は震える手でその口をきつく絞り、泣きながら囁いた。

「…………………せいり、きた」
「…………………は?」

 俺はの言葉の意味を、すぐには理解できなかった。