79.助け


 そういえば、ここのところ将棋なんて忘れてたな。
 将棋盤と、そして静かなゲンマと向き合っていると、私は自分の心が次第に凪いでいくのを感じた。最近また、焦っていたような気がする。いけない。私の悪い癖だ。よく予選まで通ったな。

 あの日、演習場でチョウザ先生と話しているときにも、頭が混乱して余計なことまで言ってしまった気がする。ばあちゃんのこと、サクモおじさんのこと、そしてカカシのこと。
 どうしよう。チョウザ先生に、なんて言えばいいんだろう。

 また目の前から意識が逸れかけたとき、ゲンマが将棋盤を見つめながらそっと口を開いた。

「お前のおかげで、焦ったときは将棋で落ち着く癖がついた。ありがとな」
「……ゲンマも焦ることあるんだ」
「当たり前だろ。焦ってばっかだよ」
「……見えない」
「見せないようにしてるだけだ。これでも中忍になったんだからな。おろおろしてる隊長なんか嫌だろ」

 ゲンマはやっぱり強い。焦ったって、顔には絶対出さない。昔は怒ったり慌てたり、そういう姿を見せるときもなくはなかったけど。中忍になってから、それまで以上に頼もしく見えた。
 私は振る舞えるんだろうか。隊長として、凛と仲間の前に立つことができるんだろうか。本選を勝ち抜いて、今度こそ中忍になれるんだろうか。

 私は、ばあちゃんの期待に応えられない。母さんは、私に期待さえしてくれなかった。

「誰だって最初から完璧なんかない。もがきながら進むしかねぇんだよ。ほら、これで詰みだ」
「……あっ!」

 最後にゲンマが動かした桂馬を見て、私は息を呑んだ。
 ゲンマは勝ち誇るでもなく、淡々と言ってくる。

「焦ってるお前は分かりやすすぎんだよ。まずは落ち着け。お前は強いんだから」
「……強い? 私が? どこが……私、こんなに弱くて、いっつもゲンマに甘えてばっかなのに」
「お前は充分強いし、弱くても、こうやって人に甘えられるだろ? そりゃ、倒れる前に甘えてほしいのが本音だけど。弱くても、手を差し伸べられたら、お前は拒絶しない。本当に弱いやつは誰の手も取らないと、俺は思うから。甘えられるお前は、強くなれるよ」

 自分から話せるようになってほしいって、あのときゲンマは言ってくれた。私は相変わらず抱え込みがちなのに、ゲンマは諦めないで私に強引なくらい関わってくれる。

 ゲンマはどうして、こんなに強いんだろう。優しいんだろう。大人なんだろう。
 安心できる場所があるから、こんなに堂々としていられるのかな。

 私には得られなかった温かい家族。でも本当の家族よりも、家族みたいに大事にしてくれるこの家がある。

 カカシは――お母さんは早くに亡くしたらしいけど、あんなに温かい、優しいサクモおじさんがいたのに。カカシだって、あんなにおじさんのことが好きだったのに。
 それなのに、おじさんは自分で死を選んでしまった。自分がいても、親が生きる動機にはならなかった。カカシもきっとそう感じて、虚しくなってしまったのかな。

 私が、母さんは間違ってるって証明したいように――カカシだって、同じように思ってるのかな。
 でもきっとカカシは、やっぱりお前に分かるわけないって言うよね。

 目の前で父親の自死を目の当たりにしたカカシと、きっと自暴自棄な戦い方をして死んだんだろうなって勝手に決めつけている私とじゃ、やっぱり全然違うんだろうな。
 私はきっと、カカシのことをずっと分かってあげられないんだろうな。

「私のことなんか何も分かんないくせにって思うか?」

 出し抜けにそう聞かれて、私は驚いて顔を上げた。そんな顔してたんだろうか。それともゲンマは、私の考えてることなんかお見通しなんだろうか。
 ゲンマなら、そういうこともあるかもしれない。この五年、ずっとそばにいて見守ってくれてたもん。本物の家族なんかより、ずっと。

「思わないよ! ゲンマは……私なんかよりずっと、私のこと分かってくれてるよ……」
「それはまずいだろ。お前のことは、お前が一番分かっててやらねぇと。俺だっていつまでもお前と一緒にいられるわけじゃない」
「……そう、だね」

 分かってるつもりだけど、改めて指摘されると気持ちが落ち込む。別々の任務も増えたし、いつかチョウザ班だって解散になる。チョウザ先生は最初に、戦況によって班編成なんてすぐ変わるって言ってたんだし。

「俺は家族に恵まれてるし、お前の気持ちは分かんねぇよ。でもお前がしんどいんだろうなってことは分かるし、ほっとけねぇから何かしてやりてぇって思う。でも俺だって、いつ死ぬかなんて分かんねぇし、ずっとそばにいるなんて無責任に言えない」
「……うん」
「お前、前に言ってただろ? 将棋始めてから、前より自分のこと分かるようになったって」

 そんなこと言ったっけ。なんか恥ずかしいな。
 ゲンマは相変わらず優しい目で続けた。

「自分と向き合う時間、忘れるなよ。お前が死ぬまで一緒にいるのはお前だけだ。でも、分かんなくなったらちゃんと言えよ? 俺だって一人でここまで来たんじゃない。色んな人に手助けしてもらってここにいる。俺もお前も、一人じゃない。俺に言いにくかったら誰でもいいから、苦しくなる前にちゃんと話せ。大丈夫だから」

 一人じゃない。
 色んな人が、そう教えてくれる。仲間がいる。友達がいる。
 大丈夫だって。

「……うん。ゲンマ……ありがと。ありがと……」

 一人じゃない。ゲンマだけでもない。
 私たちは、たくさんの人たちの中で生きてる。ゲンマもガイもチョウザ先生も、オビトもリンもミナト先生も。カカシも。
 やっぱり、放っておけないよ。カカシ。私もあんたも、一人じゃないんだよ。

 ゲンマは将棋盤をそのまま置いて出ていった。私の横を通るとき、頭をそっと撫でてくれたのが本当に私の心を落ち着かせた。この五年、ずっと、グラグラしていた私をゲンマはいつも支えてくれた。
 いつまでも寄りかかってちゃダメだ。何度倒れそうになっても、自分の力で立ち上がらなきゃ。

 それでもダメなら――自分で助けを求められる強さを、手に入れなきゃ。私は絶対、一人じゃ生きていけない。
 仲間がいるから、前を向ける。

 その夜、帰ってきたおじさんが客間に顔を見せるまで、私はゲンマが置いていった問題集を開きながら久しぶりに詰将棋に没頭した。