77.兄
中忍試験の第一次、第二次試験を突破し、無事に予選も通過した。ガイは昨年に引き続き予選通過、トンボは惜しくも予選敗退。
本戦は約一か月後だが、完全に個人戦のため、敗れたトンボはもう私たちの演習場には姿を見せなかった。もともと利害が一致したから組んだだけだ。
ガイは「何か月も一緒に修行した仲間だろう!」と喚いていたけど、トンボは聞く耳を持たなかった。
私だって、必要がなくなればわざわざトンボと修行する気はない。それくらいの関係だ。
予選が終わってから数日後、任務を終えたチョウザ先生とゲンマが帰ってきた。別の任務でそれぞれ出発したはずだけど、現地で指示が入って途中から合同任務になったらしい。霧隠れの忍びとの戦闘もあったようだ。
生傷が増えてゲンマは疲れた様子だったけど、大きな怪我もなく無事だった。相変わらず長楊枝ではなく千本を咥えている。でも私は、結局あれから一度も千本のケースを出していなかった。
「、凪さんのことは聞いた。つらい中、よく頑張ったな」
いつもの演習場に現れたチョウザ先生が、私のところに来て小さな声で言った。その目は優しかったけど、私はやっぱり悲しくもならなかった。
「大丈夫です。母さんは元々ほとんど家にいなかったし……特に変わったことなんて、ないですから」
「予選が終わるまで、家に帰ってなかったと聞いたが?」
「……まぁ、その……集中したかったので」
思わず目を逸らしながらモゴモゴと答えると、チョウザ先生はその大きな手で私の頭を豪快に撫でた。どうせただのポニーテールだけど……まとめた髪が乱れる。
「、お前はこの二年で強くなった。だが最も大切なことは、何ができるかではない。どう在りたいかだ。お前にはそれがあるか?」
「どう……在りたいか?」
「そうだ。戦場ではいつ何が起こるか分からない。目の前で仲間が殺されるかもしれない。人質を取られて暗号を渡せと要求されるかもしれない。そのとき信念がなければ、目先の出来事に囚われ正しい判断は下せないだろう。誰のために、何のためにそれをするのか、自分はなぜそれを選ぶのか――常に考えて行動しなさい」
目先の出来事。正しい判断。
なぜ、それを選ぶのか。
私は思わず、チョウザ先生を見上げながら縋るように問いかけた。
「目の前で、仲間が死にかけていて……仲間を助けたら、大事な拠点が落とされるっていうときに……どっちを守るのが、正しい判断なんですか?」
私の問いに、チョウザ先生は驚いたようだった。少し息を呑んだあと、慎重に口を開く。離れたところではすでにゲンマとガイがカウンター型の組み手を始めていた。
「絶対正しい判断もなければ、絶対間違った判断もない。だからこそ信念が必要なんだ。お前にとっての信念がな」
「でも、それが里の方針と違えば……間違ってるって言われて、非難されることになる。それなら個人の信念はむしろ邪魔になるんじゃないですか?」
「……」
「ばあちゃんなら――澪なら絶対、拠点のほうを守る。目の前で仲間が死んだって、里の利益を優先する。母さんだって仲間なんていないほうがいいって言った……でも私はそう思えない……絶対に違うって証明したい……ミナト先生もチョウザ先生も、仲間や信念が大事だって言うのに、じゃあ、何でサクモおじさんが責められて苦しまなきゃいけなかったんですか? 何で誰も……サクモおじさんを助けなかったんですか? カカシを……助けてあげないんですか? カカシはずっと苦しんでるのに……ひとりで苦しんでるのに」
「――、落ち着きなさい」
気づけば呼吸が乱れ、全身から汗が噴き出していた。喉で何かがつっかえたように苦しい。もっと息を吸いたいのに吸えない。
これではまるで、サクモおじさんの死を知ったあのときの――。
「、どうした! !」
遠くでゲンマの声が聞こえる。でもその記憶ももう、あっという間に薄らいで、目の前がどんどん暗くなっていく。
何が起きているのか、よく分からなかった。
***
目が覚めると、雲ひとつない青空が見えた。瞼が重いし、頭が重いし、身体も重い。どうやら地面に仰向けに横たわっているらしい。
――と、すぐに目の前に、涙目になったガイの暑苦しい顔が現れた。
「っ! 良かった!!」
「……ガイ、唾が、飛ぶ……」
「心配したぞっ!!」
こっちの話なんか聞いてない。ほんとに、ガイはいくつになっても、ガイだな。
げんなりと目を細める私の顔を、ゲンマが横からタオルで拭いてくれた。前にもあったな、こういうこと。
「大丈夫か? もう少し休んでろ」
「ゲンマ、私……」
「疲れが出たんだろう。今日はもう帰って休みなさい」
チョウザ先生の声が頭の上から降ってくる。よく分からないけど、私、多分……昔の母さんみたいに、過呼吸になっちゃったんだと思う。
今こうして演習場に横になってるってことは、母さんほどひどくないと思うけど。母さんはその場で意識を失ってなかなか目覚めなかったから、そのまま病院に運ばれた。
本当に、情けない。こんなところで、仲間の前で、こんな無様な姿をさらして。
私は、なんて弱い人間なんだろう。
「俺が送っていこう」
「チョウザ先生、待ってください」
徐に立ち上がったチョウザ先生をゲンマの厳しい声が呼び止めた。
「はうちに連れて行きます。俺が連れて帰ります」
「……ゲンマ? 何言って……」
「がずっと家に帰ってなかったことは俺も聞いてます。どうしてか……先生だって分かってるんじゃないですか? 今の状態のを、の家には帰せません。しばらくうちで安静にさせます」
「しかし、ゲンマ。それはお前が勝手に決めることではないだろう」
「は強がる。ひとりで大丈夫だって言う。でも本当に大丈夫なら今、こんな状況になってない。あのときだってそうだった――」
ゲンマが険しい表情でチョウザ先生を睨んだ。状況が飲み込めず怪訝そうな顔をしているガイの隣で、チョウザ先生はまっすぐにゲンマの目を見ていた。
ゲンマはきっと、あのときのことを言っている。サクモおじさんが死んで、母さんが心を病んでしまったあと。疲れ切ってろくに睡眠も取れなかった私を、リンもゲンマもとても心配してくれた。あのときから変わらず、ゲンマはずっと私を大事に思ってくれてる。ゲンマの家族だって、ずっと。
やがて小さく息を吐いて、チョウザ先生が腕を組んだ。
「……分かった。澪様には俺から話しておく」
「ちょ、先生、ゲンマも……私、行くなんて一言も……」
「お前の意見は聞いてない。どうせ大丈夫って言うんだろ。鏡で自分の顔よーく見てみろ。大丈夫なやつはいきなり倒れねぇ。まずは落ち着ける場所でしっかり休め」
落ち着ける場所。
ゲンマは、私の家が私にとって落ち着ける場所じゃないって分かってる。
私にとって、ゲンマの家のほうがずっと落ち着ける場所だって分かってる。
でも、甘えすぎちゃダメだってもうひとりの自分が叫んでいる。ばあちゃんだって絶対、だからいつまでも半人前なんだって言う。
「でも……」
「うるせぇ。言いたいことがあんなら顔色良くなってから言え。美味いもん食ってたっぷり寝ろ。そんな顔で本選出たって恥晒すだけだぞ」
「っ!! うちでもいいぞっ!! 飯は普通かもしれないが雑魚寝する場所はある!!」
「ガイの家なんて全然寝れる気がしない……」
ガイを呼びに何度か彼の家に行ったことはあるけど、ガイにあのお父さんなんて絶対うるさい。それだけは絶対に遠慮したい。
ゲンマは小さく微笑んで、口元の千本を軽く揺らしてみせた。
「決まりだな。うちに来い。俺の家族は絶対に今のお前を放っとかない」
ゲンマのおばさんの顔が思い浮かんで、目頭が熱くなった。母さんが死んでからずっと家に帰ってなかったし、ゲンマの家族にはあれから会っていない。でも今の私を知ったら、おばさんは絶対に私を放っておかない。そんなこと、ゲンマに言われなくても分かってる。
どうして私は、ゲンマの家に生まれなかったんだろう。
ゲンマが私のお兄ちゃんなら良かったのに。
ゲンマと、ゲンマの家族と一緒なら、こんな思いをしなくて済んだのに。
悲しくて、悔しくて、涙が止まらなくなった。