76.波風ミナト


 中忍試験当日。アイとサクに早くから起こされて、私は演習場の隅で大きく伸びをした。
 この五日、雨が降らなかったのは幸いだった。布団でゆっくり寝たいとも少し思ったけど、ばあちゃんの顔を思い出したらとてもそんな気にはなれなかった。少なくとも予選が終わるまでは、家には戻らない。

 早朝からやっている定食屋で軽く食事を済ませてから、散歩を兼ねて里の外れまで歩く。アイが頭の上、サクが肩の上に乗ってきて、かなり重い。
 忍猫の寿命は普通の猫と比べるとかなり長く、五十年近く生きた例もあるらしい。それを思えば十五歳のアイとサクもまだ子どもの範疇かもしれないけど、大きさはすでに立派な成猫のそれだ。試合前から首回りがめちゃくちゃ凝る。

「重い!」
「軟弱者にゃあ」
「だらしないやつにゃあ」
「あんたたちもう子猫じゃないんだから!」

 そうは言ってもアイとサクは私より五歳年上で、私が物心つく頃にはすでに今のサイズだった気がする。今うちにいる忍猫の中で一番若いのがこの二人なので、もっと小さい忍猫もいつか見てみたい。

 私はその足で墓地へ向かった。結局、葬儀にも出なかったし、今さら悲しくなってきたわけでもない。でも母さんのお墓を一度見ておきたかった。私は遺体も見ていないし、どんな最期かも知らない。もともと家にはほとんどいなかったのだから、死んだと言われてもまるで実感がない。
 母さんの名前が刻まれた真新しい墓石を見て初めて、本当に死んだんだな、と思った。

 涙はやっぱり、出なかった。

「中忍試験、いよいよだね。昨日はよく眠れたかい?」

 ぼんやり墓石を見つめていると、突然声をかけられて驚いた。振り向けば、穏やかに微笑んだミナト先生がこちらに向かって歩いてくる。私の足元で退屈そうに顎をかきながら、アイとサクが大きくアクビした。

「まぁ、ほどほどに……ミナト先生、いつもこんなに早いんですか?」
「まぁね」

 ミナト先生は慣れた様子でウィンクしてみせた。すごくカッコいいのに、愛嬌もあって素敵だな。この若さで上忍で、聞くところによると他国にも知られためちゃくちゃすごい忍びらしい。かっこよすぎでしょ。
 私は病院でミナト先生に後ろから耳を塞がれたことを思い出してドキリとしたけど、そんな浮ついた気持ちはすぐに沈んでいった。ミナト先生はあのとき、母さんとあの男の人の話を聞いていた。私の母さんが娘のことなんか顧みない人だったってことも知ってる。情けないし、恥ずかしかった。

「お母さんのこと、残念だったね」
「……いえ。戦争では、人が死ぬのは当たり前ですから」

 自分の口から淡々と飛び出した言葉に、私は自分で驚いた。ばあちゃんの冷酷な言葉が、自然と自分の中に馴染んでいるのが分かった。
 いや――私は戦場を知らない。どうせ何も、分かっちゃいない。
 ばあちゃんの、カカシの、言う通りだ。

 墓石を見つめてぼんやりしている私に、ミナト先生は少し鋭い声をかけた。

。確かに俺たち忍びは耐え忍ばなければならないときもある。でも心まで殺す必要はないんだよ。人が死ぬのは当たり前かもしれない。でも当たり前にしてはいけないんだ。そのために俺たちは戦ってる」
「……すみません。私、何にも分かってないのに」
「いや、別にお説教したいわけじゃなくて」

 落ち込む私を見て、ミナト先生はぎこちなく笑って声色を和らげた。でもやっぱり、その目は真剣そのものだった。

「さっきの言葉が、君自身のものじゃないことくらい分かるよ。厳しい現実の中で、君はそう言い聞かされて育ったのかもしれない。でも現実を見ることと、自分の感情に蓋をすることはまったくの別物だよ。心の声が聞こえなければ、簡単に自分を見失ってしまう」

 私は、自分の感情に蓋をしているんだろうか。
 心の声が、もう聞こえなくなってしまったんだろうか。
 母が死んでも悲しめない。涙も出ない。それは私の感情ではないんだろうか。本当は悲しいんだろうか。

 母親が死んだら、悲しめないのはおかしいんだろうか。
 私は、おかしいんだろうか。

 何も言えずに黙り込む私の肩に、ミナト先生がそっと手を置いた。とても、優しい手だった。温かかった。

「オビトもリンも、君のことをとても心配していたよ。君には仲間がいる。友人がいる。君はひとりじゃない。大丈夫だよ」

 オビト……リン。
 そうか。ミナト先生は、二人の話を聞いてここに来てくれたんだ。きっと私が試験前に落ち込んでいると思って。

 チョウザ先生もゲンマも、しばらく任務で里を離れている。の人間である私に近づきすぎないようにときっとオビトは気を配っていたけど、それでも母さんの葬儀の日、私のところに来てくれた。任務があるくせに、それを放ってまで。

 母さんのことでは泣けないのに、ひとりじゃないというミナト先生の言葉に、涙が出た。

 私は、ひとりになるのが怖い。

 私がいたって、母さんは帰ってこなかった。
 帰りたいと思える場所じゃなかった。

 そのことが、悔しくてたまらなかった。

「今は泣いていいんだよ。まだ時間はある。自分の心と向き合って、区切りがついたらまた歩き出せばいい」
「……区切りがつかなかったら?」
「それでも歩き出すんだよ。俺たちは忍びなんだから。また悩んだら何度でも立ち止まればいい。いいかい? もう一度言うよ。君はひとりじゃない。悩んだら、仲間を頼るんだ。必ず道はある。仲間がいることを忘れさえしなければね」

 ミナト先生の言葉はとても力強くて、先生が心からそう思っていることが伝わってきた。仲間の大切さ。頼もしさ。立ち止まってちゃダメなこと。
 ミナト先生ならどうしただろう。サクモおじさんと同じ状況になったら、ミナト先生はどちらを選ぶんだろう。
 いつか聞いてみたい。私が一人前になって、戦場に出て、カカシと同じ場所に立てたら。

「ありがとうございます……ミナト先生」

 私が涙声で小さく絞り出すと、ミナト先生はニコリと微笑んで拳を少し上げてみせた。

「中忍試験、頑張って。俺も応援してるよ」