60.妹


「分かんなくても……カカシの力に、なりたかったよ……」

 震える声でがそう絞り出す。俺は平静を装っていたが、数年前に彼女の口からカカシの名前を聞いたときよりも、自分の心がざわざわと落ち着かないでいることに気づいた。

 あの頃は、がカカシを見返すために修行に励んでいると知っても、正直そこまで関心がなかった。動機なんて人それぞれだし、俺だっての面倒を見始めたのは別にのためじゃない。
 だが今は、の努力がカカシやその父親のためなのかと思ったら、腹の底でモヤモヤと薄気味悪い感情が渦巻いているのが分かった。

 もちろん彼女の動機は、それだけではないだろう。アカデミー卒業から一年、俺たちは確かにチームとして機能し始めている。仲間のために今の自分にやれることをする。その意識が全員にあるのが分かる。

 それでも、もっと根底にあるもの。以前、が口にしていた言葉を思い出す。

「忍びになっても、人を捨てたくなくて。それができるのか、証明してみたい」

 それは『澪様』の教えかと思っていた。親父からずっと聞かされていた『澪様』の話に通ずるものがあったから。だが先ほどの話だと、どうやら違うかもしれない。の忍びとしての動機の最も根底にあるのはきっと、はたけサクモの存在だ。
 幼い頃から家族の中でも孤独を感じていたにとって、はたけサクモが最も信頼できる大人だったに違いない。だから白い牙が自死したとき、の心は疲弊した。そこに母親の病気も重なり、あれだけやつれてしまったのだろう。

 思い上がりでないのなら、俺が世話を焼いたおかげでは潰れずにすんだ。眠れないから一緒にいてほしいと俺の手を握って、泥のように眠りに落ちたの青ざめた顔を思い出す。俺は妹のように可愛がっていた彼女がこのまま潰れるのは絶対に嫌だと思った。今だって、あのが――たとえあの頃と関係性は変わっても、変わらず大切に思う彼女がどうにもならないことで気を揉んでいるのを、黙って見過ごすことはできない。

 はたけサクモのことを今さら思い悩んでも仕方ないし、はたけカカシがそのことで仲間など要らないと誰も寄せ付けないのなら、そこにまで引っ張られてほしくない。助けを求めていない人間を、誰も助けることはできないからだ。

 だが、今日は何も意見しないと俺は決めていた。が安心して話せるように、ただ、受け止めようと決めていたから、何も言わずに黙って相槌だけを打つ。
 時折涙を流しながらも話しきったらしいは、しばらく嗚咽を漏らしたあと、真っ赤に腫らした目を開いてこちらを見た。

 そんな顔を見たら、ほっとけねぇだろうが。

「ごめんね、ゲンマ……聞いてくれて、ありがと」
「それはいいけど。そういうことは、溜め込む前に言えよ? 今だって、俺が聞かなきゃ言わなかっただろ。ひとりで墓場まで持ってく気だったのか?」

 呆れながら問いかけると、は居心地悪そうに小さくなって目を泳がせた。怒ってるわけじゃない、と言いかけたが、俺はそのまま別の言葉を口にした。

「そりゃ、口止めされてりゃ言えないかもしんねぇけど。でもお前、されてなくても言わなかっただろ」

 の涙に濡れた瞳が大きく見開かれる。俺は先ほどより意図的に声の調子を和らげ、眠る忍猫たちを横目に見ながらあとを続けた。

「……お前の家族は、お前の話を聞かなかったかもしれねぇけど。お前の話を聞きてぇやつだっているんだよ。うちの母さんだってリンだって、あのとき本当にお前のこと心配してた。俺だってお前が潰れるくらいなら何でもしてやりたいって思ったよ。お前が話したくないことを無理やり聞き出そうなんて思ってねぇけど、それをずっとお前が引きずって暗い顔してるくらいなら、やっぱり無理にでも聞きたいって思う」

 俺はしばらく忍猫たちをチラチラ盗み見ていたが、特に反応する様子はないので、意識をそのままへと移した。は目を瞬きながら、まっすぐ俺の顔を見ている。

「でも、俺たちは忍びだ。少しでも助けてほしいと思ったら――自分から、話せるようになってくれ。俺は、いつでも待ってるから。お前のこと、ずっと見てんだからな」

 するとの目からまた大粒の涙がこぼれ落ちた。そのまま堰を切ったように泣き出す彼女を、俺は黙ってただ見守る。親父が、母さんがそうしてくれたように。それはきっと、には得られなかったものだ。

「……ゲンマぁ……」
「なんだ」
「……甘えてばっかでごめん、でも……そっち行って、いい……?」
「おう、いいぞ」

 昔は確認もせずに飛び込んできたのにな。俺は懐かしくもどこか少し寂しさを覚えている自分に気づいて苦笑いした。あの頃と今じゃ、俺たちの関係は違う。そう何度自分に言い聞かせても、俺はまだあの頃の感覚を忘れられないらしい。

 俺は将棋盤を倒して突っ込んでくるを受け止めながら、その重みと温もりをしっかりと抱き返した。出会った頃はもっと小さかった気がする。俺と同じように、だって当然成長している。それでも俺にとっては、こうしてチームの外で会えばやはり世話の焼ける妹のような存在だった。

 俺の腕の中でしゃくり上げながら、がまたカカシの名前を口にする。その瞬間、胸が奇妙に軋むような気がした。

「うぇぇ……カカシに嫌われた……私はただ、カカシに……一人じゃないよって、伝えたかっただけなのに……」

 俺は何も言わずにただの小さな背を抱き、頭を撫でてやった。今日は何も口を挟まないと、決めている。決めているが。

 思い出されたのは、先日会ったときのイクチとのやり取りだ。あいつは突拍子もないことを言い出した。

「ゲンマ。ちゃんがカカシに惚れてるようだったら、お前、考え直させてあげて」
「……はぁ?」
「あいつに惚れても絶対幸せになれねぇから」
「……あんなガキつかまえて、何寝言言ってんだよ」

 はもちろん、今や中忍のはたけカカシだって、蓋を開ければ九歳のガキだろう。それを、幸せになれるだのなれないだの。一体どんだけ気が早いんだよ。
 だがイクチは大真面目に鋭い目をして俺の顔を覗き込んできた。口元の長楊枝をもどかしそうに揺らしながら、

「……カカシの小隊と組んだとき、あいつは任務遂行のために味方を置き去りにした。足手まといは要らないってな。結果的に任務自体は成功したが、カカシの小隊に負傷者が出た。うちがフォローに回ったし、幸い軽傷で済んだけどな。確かに俺たちは究極の選択を迫られるときがある。そういうとき、迷いなく判断できるのが優秀な忍びってことかもしれない。でも、あの場面で味方を切り捨てるやり方に俺は賛成できない。いざというとき、あいつは必ず仲間を捨てる」

 イクチは物事をあまり決めつけることがない。あらゆる可能性を考慮して対抗策を練る。その能力を買われ、上忍率いる補給部隊に抜擢されることもあった。
 そのイクチが、ここまで強く断言することに俺は驚いた。

「理由はどうあれ関係ない。いくら実力があろうと、あいつは誰も守れないんだよ。そんなやつにちゃんを任せられるか?」
「………」

 まったく、年長者だと思って、イクチは何様なんだよ。俺はの保護者じゃないし、がカカシを好きだろうがそうじゃなかろうが俺が口出しすることじゃない。
 そう、思っていたのに。

 俺の腕の中で顔をぐしゃぐしゃにして泣きじゃくるを見たら、俺はイクチの考えに徐々に傾いていった。少なくとも、がカカシのことで楽しそうにしている姿は一度も見たことがない。いつも、気を揉んでいるだけだ。
 俺は、に笑っていてほしい。

 カカシの名前を呼びながら、はそれからもしばらく泣き続けた。俺にの中のはたけ親子を消してやることはできないし、はたけサクモの死に様は俺たち忍びにとって簡単に無視できない問題だ。そのことを差し引いても、俺はやっぱりをこのまま放っておけないと思った。

 俺たちもいつか、戦地に送られるだろう。いつ死ぬか分からないこの世界で、いつまで続くかも分からないこのチームで。それでも俺はこの先ものそばにいて、崩れそうなときには守ってやりたいと思う。
 だって強くなった。だがふとしたときにこうして、心の奥底に眠る痛みが噴き出して壊れそうに脆くなる。そんなことはもう、とっくの昔に分かっている。

 お前の中のはたけ親子は消してやれなくても。
 そんなお前を受け止めて、こうして支えてやることはできるよ。

 だから、もう。

「……一人で抱え込むなよ」

 ぽつりと漏らした俺の囁きは、今も涙をこぼすの耳には届いていないようだった。