57.進歩


 ひとり取り残された半個室で呆然としている私の耳に、声が聞こえた。ハッとして顔を上げると、衝立の向こうから見覚えのある青年が覗いている。
 不知火イクチ――アカデミーのときに何度か会ったことのある、ゲンマの従兄だった。

「イクチ! いっ、いつから聞いてたの?」
「いや、特に……すごい剣幕で出ていくカカシが見えたから……」

 カカシもイクチも中忍だから、一緒に任務につくこともあるのかもしれない。何も言えないでいる私に、イクチが口元の長楊枝の先を上げながら心配そうに聞いてきた。

ちゃん、大丈夫? 顔色悪いよ」
「うん、私……めちゃくちゃデリカシーないことした……」
「そう? デリカシーないのはカカシのほうでしょ。女の子にそんな顔させるもんじゃないよ」

 軽い調子でそう言いながら、イクチがそのままこちらのテーブルに移動してくる。イクチと一緒に食事をしていたらしい中忍たちが顔を覗かせて「ナンパか?」と囃し立てたけど、イクチは気楽に笑って「そーだよ。だから邪魔すんな」と返した。ほんとにこの人は、軽い人だな。
 イクチがテーブルの上にずらりと並んだ料理を見て、半笑いになる。

「これ、二人で食う気だったの?」
「これは……カカシが……」
「じゃあ食っていい? 俺たちさっき戻ってきたばっかでさ。腹ぺっこぺこ」
「あ、うん、私もう食欲ないし……」
「そう? じゃあデザートでも食えば? 甘いもの好き?」
「好きだけど……気分じゃない……」
「気分じゃないから、美味いもん食うんだよ。いいからこんだけ付き合って」

 イクチはニッコリ笑って、デザートにお汁粉を注文した。その笑顔はやっぱり少しゲンマに似ていて、私は無性に彼に会いたくなってしまった。

 カカシを傷つけたのは私で、そのことで自分が傷ついたって、自業自得なのに。
 カカシに言ったことは本心だけど、今、ここで、あんな言い方をする必要があったのか――私は、考えても仕方のないことを悶々と考えた。

ちゃんはカカシと付き合ってるの?」
「はっ? そんなわけないよ……」
「そう? 良かった。あんな可愛げのないやつ、ちゃんには釣り合わないからね」
「……そんなの、考えたこともないよ。ただの同級生だよ……」
「なら、気にすることないよ。相性なんて誰にでもあるし、人間なんて、ぶつかってなんぼだからね。ぶつかり合って分かることもあるし、やっぱり分かり合えないってことが分かることもある」

 イクチの言っていることは、何となく分かる。でもどうしてもカカシを諦めきれないこの気持ちは、一体何なんだろう。好きとか、そういう単純なものじゃない。そもそも私は、カカシが好きなんだろうか?
 ぐるぐる考えてしまったけど、イクチが頼んでくれたお汁粉が冷たい心にじんわり染み渡った。でも、私の胸の中に残るカカシの顔が、何も解決していないことを教えてくれる。

 あんなに傷つけてしまったのに、私はまだカカシに関わろうとしている。いや、傷つけてしまったからか? このまま放っておけない気がして――でもそれは、ただの自己満足のような気がして。
 どうしていいのか分からないまま、私はイクチと別れてぼんやりと家路を帰った。



***



 以前に比べたら、心が乱れても多少は落ち着いて対処できるようになったと思う。深呼吸して、将棋盤と向き合って、離れかけた意識を自分へと戻す。実際、ガイは私の異変に気づかなかったし、任務遂行も特に問題なく進んだ――はずだ。
 でもやっぱり、ゲンマの目はごまかせない。

「ボーっとして、何考えてる?」

 報告を終えたあと、チョウザ先生やガイと別れて、私はいつものようにゲンマと一緒に並んで帰っていた。二月下旬の夕暮れ時はとても冷え込んで、マントにくるまっていても芯から凍えそうになる。
 白い息を吐きながら、私は少しいじけた顔でゲンマを見た。

「そんなにボーっとしてる?」
「してる。ま、任務に持ち込まないだけ、成長したよ」

 ゲンマが悪戯っぽく笑うから、私は反射的に頬を膨らませてみせる。でも、本当は嬉しかった。私もほんの少しでも、前へ進めてるのかな。
 私の反抗的な態度を見て、ゲンマが冷たい手で私の鼻をつまんだ。

「つめたっ!」
「ほら、そんな顔してるともっと落ち込むぞ。飯でも奢ってやるから元気出せ」
「ほんと? やった~!」

 手のひらを返したように陽気な声をあげる私に、ゲンマが呆れ顔で笑う。その笑顔はやっぱり、先日会ったばかりのイクチに似ていた。

 不知火家の人たちは、本当にみんな温かい。イクチは結局あのとき、カカシが注文した料理をほとんどひとりで食べて、支払いは全部自分が持つと言った。私だって食べたよといくら食い下がっても、「下忍にたかる気はないよ」と軽く笑ってかわした。
 カカシを傷つけ、これまで築いてきたものが全部壊れたようで私の心は荒んだけど、イクチの優しさがほんの少しだけ私の痛みを和らげてくれた。そして今は、ゲンマがまた私を元気づけようとしてくれている。

 カカシにも、いるといいな。こうやって、温かく寄り添ってくれる人が。無神経な私には、できなかったけど。
 なりたかったな――カカシにそっと、寄り添える人に。サクモおじさんは私にとっても、大切な人だったから。
 次にカカシに会ったら、私は何かを伝えられるだろうか。

 私たちはその足で、今年オープンしたばかりの屋台のラーメン屋に来た。チョウザ先生に何回か連れてきてもらったことのある、若い店主のお店だ。冷えた身体に熱々のスープが染みる。
 ゆで卵を頬張りながらゲンマが聞いてきた。

「明日はどうすんの?」
「明日は普通に演習場行こうかと思ってるけど……何で?」

 するとゲンマは、人差し指と中指を合わせて、将棋を指す動きをしてみせる。

「じゃあ久しぶりにやろうぜ。対局」
「うっ、あー……うん……」

 正直、気が進まない。風は少しずつ起こせるようになってきたけど、烈風掌かと聞かれると、威力も制御もまだまだ足りていない。アスマの合格が出るまで、烈風掌が完成したとは言えなかった。
 つまり将棋でゲンマに負けたら、私はゲンマの言うことを何でも聞かなければならなくなる。そういう約束だった。

「まだなのか? 術は。風なら出せてただろ」
「うぅぅん……まだ合格は、もらえて、ない」
「アスマにか? お前、アスマだって暇じゃねぇんだから程々にしとけよ」
「分かってるよ」

 私がアスマのところに行こうとすると、ゲンマはすぐ口うるさく言ってくる。そりゃ他所のチームに迷惑かけるなっていうのは分かるけど、アスマは嫌なら嫌って言うよ。
 それに、アスマは将棋にも付き合ってくれる。アスマのほうが一年くらい先に始めたけど、今では対局すれば時々勝てるようになってきた。アスマもけっこう負けず嫌いだから、お互いに奮起して、良い影響を与え合っていると思う。
 アスマがいなければ、風遁も将棋も、今の私はない。誰に教えてもらったって恨みっこなしって、ゲンマが言ったんじゃん。

「じゃあ明日、寅の刻にお前んち行くわ。飯だけ食って待ってろ」
「はーい……あ、ご飯一緒に食べる? なんか作ろうか?」
「お前の飯、美味くなったのか?」
「うー……ムカつく……」

 ゲンマにご飯を振る舞ったことはないけど、ゲンマのご飯になんか絶対敵わない。まだ料理も修行中だ。師匠は、たまに付き合ってくれるリン。
 でもゲンマは楽しげに笑ってみせた。

「いいぜ、飯も付き合うよ。俺の分も作っといて」
「……ゲンマのご飯みたいに美味しくないよ」
「いいよ、昔の手裏剣と一緒だ。どれくらい下手くそか味見してやるよ。あー、毒見か」
「ゲンマ! そんなこと言うんだったら作んないよ!」
「悪い悪い、お前の飯食ってみたい。楽しみにしてるわ」

 ゲンマがそう言って頭を撫でてくれたので、私はそれだけでもう文句なんか言えなくなってしまった。だってすごく嬉しいから。

 チームメイトとして、仲間としての信頼関係も、少しずつ築けてきたと思う。ゲンマだけでなく、もちろんガイとも。でも同時に、昔からある幼なじみとしての距離感も、ゲンマは大切にしてくれているような気がして。色々悩んだけど、やっぱり私もそれがないと寂しい。ゲンマと二人でいるときの、この関係性が好き。
 やっぱりゲンマは、私にとって他の誰とも違う特別な存在だった。

「お嬢ちゃん、美味そうに食ってくれるからこれもオマケしとくよ」
「わーい、ありがとうございます! でもチャーシューよりナルトのほうが好き」
「ハッハッ! ちゃっかりしてんな。じゃあこっちもつけとくよ」
「わーい!」

 店主のお兄ちゃんにチャーシューとナルトを載せてもらって、私はニコニコしながら声をあげた。ふと視線を感じて横を見ると、ゲンマは面白くなさそうな顔をしている。口元が少しへの字に曲がって、箸を持つ手が止まっていた。自分はオマケがないから拗ねてるのかな。

「じゃあチャーシューはゲンマにあげるよ」
「別にいいよ」
「いーって! またみんなで来ようね」

 ゲンマは小さく鼻を鳴らしたけど、結局、私が丼に入れてあげたチャーシューを素直に口に運んだ。

 しんどいことも、やらかしてしまうことも、まだまだたくさんある。でもこうしてゲンマや、ガイやチョウザ先生、アスマや紅、リンやオビトたちと過ごす時間がとても愛おしくて、私は頭の隅でカカシのことを思いながらも、今やれることを一つずつやるしかないんだなと改めて思った。

 そうしていればいつかきっと、風も私の味方をしてくれる。
 それは一番、自由な力だから。