290.未練


 父さんと母さんに、愛されてた? 私が?

 それを聞いて込み上げるのは、喜びでも安堵でもない。煮えたぎるような、怒り。

 噛み締めた奥歯が、少し欠けた気がした。

「何……言ってるの。母さんは私のことなんか何とも思ってなかった。目の前の私のことなんか全然見えてなかった。父さんの話なんか全然してくれなかった。母さんは……父さんのことなんか好きじゃなかった。なのに私が愛されてたわけないでしょ! 母さんは……血を残すために仕方なく父さんと結婚した。そんなの、私にだって分かるよ! 今さら口先でそんな嘘やめて! 私がこうなったのは全部母さんのせいだよ! ばあちゃんのせいだよ!!」


 カカシが少し強い声で制そうとしたけど、私はきつく祖母を睨みつけたままだった。

 祖母は私から目を逸らさない。それは懺悔のようにも、挑発のようにも見える。それくらい祖母の瞳は、まるで硝子玉のようだった。

「そうだ。私のせいだ。お前がゲンマの愛を受け入れられなかったのも、凪がハクトの愛を受け入れられなかったのも、全て私のせいだ。私は、里のため、平和のため、のため、娘のため、孫のためと思い生きてきた。だが、私のしてきたことは間違いばかりだった」
「何……言ってるの……」

 わけが、分からない。ハクト。父の名前。その名を母や祖母の口から聞くことはほとんどなかった。
 父は私が二歳のときに殉職した。記憶なんてほとんどない。

 ただ、ひとつだけ――墨の匂い。

 あれがそうだと気づいたのは、もっと大きくなってからだけど。

 そのとき、複数の気配が素早くこちらに向かっているのを感じた。振り向くと、ガイが封印班を連れて駆けつけたところだった。

、カカシ! 待たせたな!!」

 ガイは巨大化した忍猫たちを見て驚いたようだったけど、拳を握って意気揚々とそう叫んだ。一方、後ろから現れた封印班はガイについてくるだけで息も絶え絶えといった様子で、青ざめながらもやっと声を張り上げた。

「お待たせして申し訳ありません! いつでも行けます!」
「ま……待って!」

 思わず口走る私の肩を、カカシが掴んで止めた。ハッとして顔を上げると、彼は少し眉根を寄せながら、かぶりを振ってみせる。

、気持ちは分かるがここは戦場だ。早くここを押さえて仲間の応援に行かなければならない」
「……分かってる」

 分かってる。ここは戦場。本来、死者と生者は交わるべきではない。そもそもここにいる祖母が語っている言葉は、本当に祖母のものなのか? カブトに操られているのではないか?
 祖母の言葉に、意味なんてない。

 ――分かってる。ここにいる祖母の言葉は、私の知る祖母の言葉だ。

 私よりも祖母を知る忍猫たちが、黙って聞いているのだから。

……すまなかった」

 そう囁いた祖母の眼差しが、初めて翳った気がした。
 サクの軽やかな言葉が、あとを繋ぐ。

「澪、こいつは大丈夫にゃ。こいつはもう、一人じゃないって分かってるにゃ」

 それを聞いて、祖母の瞳が柔らかく微笑んだ。

 忘れていた涙が再び溢れ出したとき、止まっていたはずの塵芥がバラバラと解け始めた。復元、ではない。まるで昇華でもしていくように、淡い光を放って宙へと舞い上がる。

 別れだ、と、すぐに分かった。

「ばあちゃん……」

 崩れかけた芥の山から、ふわりと祖母の幻影が浮かび上がる。咄嗟に手を伸ばしても、届くはずもない。

 祖母の笑顔は、幼い私が大好きだったものだ。

「時神社の隠し部屋に、凪の日記を隠した……場所はサクが知っている。今のお前ならば、きっと……」
「ばあちゃん……!!」

 届く、はずがない。

 空を切った手のひらを、きつく、握り締める。

「……

 カカシがもう片方の肩にも、そっと手を添えてきた。

 分かってる。分かってるのに。

 悲しいんじゃない。寂しいんじゃない。それなのに。

 涙が、どうしても止められない。


***


 澪様の姿が消え、塵芥が崩れ落ちると同時に、は糸でも切れたかのように倒れ込んだ。咄嗟に腕を伸ばして抱き寄せると、どうやら気を失っているようだ。チャクラをほぼ使い果たした上に、あれだけの精神的負荷。二十年分のトラウマと直接対峙することになったの心中は、察するに余りある。

 澪様は何ひとつ弁解しなかった。自死の理由を明かすこともなかった。当時、忍猫たちは何も知らないと語ったそうだが、それが嘘だろうというのは機密に関わる者たちの常識だった。が、彼らの口を割らせることなど不可能だし、できたところでさほど意味はない。の傷を抉ることになると、三代目もそれ以上の追及は命じなかった。

 自死という形でたった一人残されたと俺とは、同じだ。俺だってあの世との狭間ではなく、現世で父と対峙していたらどうなっていたか。

 は母親との間にも確執があるようだった。母親は父親を愛してはいなかったと。だが俺から言わせればそれは思い違いだ。
 澪様の話を聞いて思い出した。幼い頃、父から何度か聞いたことがある。の母親はとても不器用で、自分が愛されることを許せない。どれだけ愛し合っていても、の母親にはそれを受け入れることが難しいと。二人は深く、愛し合っているのに。

 何を言っているのか、当時は分からなかった。だが、の母親はと同じだ。どれだけ愛し合っていても、その愛を受け入れられず、かといって完全に手放すこともできない。それがたとえ結婚相手であろうと、なかろうと。

 とはいえ、俺はの母親を知らない。俺に彼女を語ることはできない。あとのことは、が自分でけりをつけるべき問題だ。俺にできることはないし、それは俺の役目でもない。

を早く、救護所へ」
「ボクらが運ぶにゃ」

 巨大化したままの忍猫が、身を屈めてこちらを覗き込んでくる。の脇に腕を差し入れながら、眉をひそめて振り向いた。

のチャクラが切れてるのに時空間忍術とか使うつもり?」
「バカ言うにゃ。くわえて運ぶにゃ」
「そもそも何でのチャクラがないのにお前たちは元に戻らないのよ」
「しばらくはボクらだけで何とかなるにゃ。グダグダ言ってにゃいでさっさとこっちに渡すにゃ」

 部外者は引っ込んでろ、とでも言わんばかりの言い草。まぁ、彼ららしいけどね。

 脱力したの身体を、忍猫の口元へと差し出す。巨大猫は彼女の肩口を無造作にくわえて一気に跳躍した。音はない。その姿は一瞬で見えなくなった。

 風が吹いて、彼女に抱かれ、抱き返したときのことをふと思い出す。もう、忘れたはずだった。どれだけ愛しても、届かない。俺たちは、隣に並んで歩くことはできない。

 俺は、を大切にはできないのだから。

「カカシ、ぼさっとするな! 行くぞ!」

 ガイの声で、ハッと我に返る。ここは戦場だ。余計な感傷は、置いていく。

 俺は千の術をコピーした、写輪眼のはたけカカシだ。

「移動する、全員俺に続け」

 今はただ、目の前の敵に集中しろ。