285.けり
明日、雲隠れに向けて発つ。これまでのどんな任務よりも、身体が重い。思えば先の大戦が始まった頃、私たちはまだアカデミー生だった。
周囲の大人の慌ただしさで、ひどいことが起きているというのは私たちにもよく分かった。下忍になり、中忍になり、戦地に赴いて、私は何度も何度も吐いた。
そんな私を助けてくれたのは、ゲンマの同期のくノ一だった。
「コマノ、出歩いて大丈夫?」
大きなお腹を抱えてゆっくり歩く後ろ姿に、声を掛ける。振り向いた彼女は、私の顔を見るとその飾らない笑顔で悠然と微笑んだ。
「平気よ。ずっと家にいても身体に悪いしね」
「じゃあもうちょっと近場にしてよ……急に産気づいたらどうするの?」
「予定日は来月なんだし、大丈夫」
「そんなの分かんないでしょ。早まることだってあるじゃない」
私は眉間に力を入れて渋い顔を作ってみせたけど、コマノはあっけらかんと笑う。何だか懐かしい気持ちになって、私は結局吹き出してしまった。
十代の頃、コマノのチームと組むことが多かった時期もある。でもいつしか疎遠になって、私たちはほとんど顔を合わせなくなった。私は本部配属になり、特別上忍に昇格したし、中忍を指導する立場にもある。いつか会えるだろうと思いながら、そのまま何年もが過ぎた。
コマノに再会したのは、木の葉崩しのときだ。コマノには当時、アカデミー入学を翌年に控えた息子がいた。コマノは妊娠が分かった時点で、正規部隊からは離れたそうだ。
あれから三年。コマノのお腹には、二人目の命が宿っている。予定日は、紅とほぼ同じだ。二人はきっと、同期になるだろう。
コマノの旦那さんも、明日から私たちと戦場に出る。
紅だけじゃない。コマノも、コトネさんも。オキナくんも。
この里には、たくさんの希望がある。
コマノの仮設住宅の近くまで並んでゆっくり歩いていると、慌ただしくイクチが走ってくるのが見えた。
「あ、ちゃん! いのいちさんが探してたよ! コマノ、タクミ見なかった? 手伝ってほしいことあるんだけど」
「朝出ていってから見てませんけど」
「あいつ、どこで油売ってんだ。ありがと、じゃ、あんまりフラフラ出歩くなよ?」
「はーい、分かってます」
イクチがバタバタと去っていく後ろ姿に軽く手を振って、コマノは気楽に笑った。コマノの旦那さんはイクチの同期で、家族ぐるみの付き合いもあるらしい。不知火の周りに集まる人たちは、昔からとても温かい。
「コトネさんから聞いたけど、あなたたち、いつまで子どもみたいなことしてるの?」
コマノが出し抜けに聞いてきて、私はきょとんと目を開いた。
「何の話?」
「それ、ゲンマと同じポーチでしょ」
そう言ってコマノが指差したのは、私が腰につけた忍具ポーチだ。数日前に使い始めたばかりだし、とっくに引退したコマノがどうしてそんなことを知っているのか、びっくりした。ちょっと複雑な気持ちになった。コマノは昔、短い間だったけどゲンマと付き合っていたからだ。
私の顔が曇ったのを見て、コマノが呆れたように笑う。
「何年も前にイクチさんの家でたまたま会ったのよ。革製なんて珍しいわねって少し話したの、それだけ」
何も言っていないのに、全部バレている。恥ずかしくなって顔を逸らす私に、コマノは大げさなくらい深いため息をついた。
「人の恋路に首突っ込む趣味はないけど、いつまでも周りに心配かけるのはどうかと思うわよ」
「それは……」
「思春期の子どもならともかく、あなたたちだってもういい大人なんだから、覚悟決めるときは決めなさいよ。どうせ離れられないなら、ね」
コマノは、責めてるんじゃない。快活に笑って、私の背中を押してくれている。
あの頃、確かに憧れていた上級生の姿が、今目の前にあった。
「ゲンマはとっくに、覚悟決めてると思うけど」
「……うん」
そんなこと、分かってる。ズルズルと引き延ばして、ただ苦しいときにだけ縋ってきたのは私だ。
ゲンマは子どもの頃からずっと、私を何よりも大切にしてくれた。ずっとずっと、そばにいてくれた。
コマノと別れて、私はその足で本部へと向かう。ペインの術で、私の家は消し飛んだ。写真がいくつか回収されたらしいけど、家の資料部屋にあった古い文献はまだ発掘されていないし、それほど期待もできない。宿場町でゲンマが遭遇した男の残した謎は、このまま永遠に闇の中かもしれない。
それでもゲンマが、共に背負おうとしてくれたことに変わりはない。
私にとって、ゲンマの代わりなんて絶対にいない。
お互いまた、生きて戻れたら――。
「、配置の件でもう一度確認しておきたいことがある」
「はい」
情報部でいのいちさんたちと合流し、私の頭の中は自然と戦争へと戻っていった。
***
なんて強い人なんだろう。かつて、あれだけの憎しみに囚われていたのに。
何十年、いや、何百年と続く憎しみがぶつかり合う中、連隊長である五代目風影の演説は私たちを一つにした。私たちが今手を取り合えるのは、共通の敵がいるから。この戦争が終わればどうなるかなんて分からない。
それでも確かに今、私たちは傍らに並んで同じものを見ている。
これは世界を守る戦争。一尾から七尾を手に入れたうちはマダラに対し、私たち連合軍は八万の軍勢で立ち向かう。
これが、最後の戦争。今度こそ、最後にする。
この世界に未来を、希望を残す。
私は情報部隊後方支援班だ。本部からの指示を受けながら、各戦闘部隊からの要請に応じて現状把握や情報整理を行う。前線には出ない。そのサポートをする。
奇襲部隊からの連絡により、敵の先発隊は穢土転生された死者だと分かっている。カブトとマダラが手を組んだ。想定の範囲とはいえ、蘇ってくるのは手練れの忍びばかりだ。迅速に情報収集し戦況を分析、部隊長や班長を補助する。
私たちがやられるわけにはいかない。仲間を一人でも多く守るためにも。
「、ここはもういい。海岸線の第一部隊に合流してくれ」
私たち後方支援班は総勢十名。少数精鋭で、必要な場所に迅速に移動する。
カカシ率いる第三部隊が穢土転生の忍びを半分に減らしたあと、本部からの情報とカカシの指示を受け、私たちはその場から後退しようとした。
薄々、気づいていた。このときが来ることは。
穢土転生された忍びたちが、どの場所に、どのタイミングで現れるか。
忍猫たちは情報収集も兼ねて戦闘部隊の周辺を縫うように走っている。今ここに残っているのは、サクとトウだ。
トウはペインが木の葉に現れたあのときより、時空間忍術も上手く扱えるようになっている。
「!」
私の左肩に載るサクが、低い声で唸った。
霧が晴れ、視界に浮かび上がる敵の中に、私はその姿を目の当たりにする。
私の傍らに立つカカシが、息を呑むのが分かった。
「……澪様」
いつかこの日が来ることは、分かっていた。
私たちの前に立ち塞がった三人のうち、一人は十五年前に自殺した私の祖母だった。
穢土転生の証である黒い瞳をカカシに向け、祖母が感慨深そうに呟く。
「カカシか。サクモ……いや、それ以上に立派な忍びになったようだな」
「……俺には、仲間がいましたから。仲間が、が――こんな俺を見放さないで、ずっと、見ていてくれましたから」
敵から一瞬も目を逸らさず、でも確かに迷いの色を浮かべながら、カカシがそう答えた。彼の言葉に、胸が熱くなった。
私、ずっとお節介ばかりしてきたのに、カカシはそんな私を、認めてくれていたんだ。
生前と変わらぬ姿で、祖母の顔が、ゆっくりとこちらを向く。
「……か」
答える代わりに、私の肩でサクが唸り声をあげた。生まれたときから兄妹のように育った片割れが、見たこともないような怒りで燃えているのが分かった。
サクの前に手のひらを出して制しながら、私は一歩、前に出る。
「ばあちゃん。分かってたよ、いつかこんな日が来るって。ばあちゃんは昔から、カカシのことばっかり褒めてたよね。カカシを目標にしろ、早く追いつけ――私、カカシには到底追いつけなかった」
「……」
カカシの声を背に受けて、少し瞼を伏せる。ばあちゃんに言われなくたって、私はずっと、ずっとカカシを目標にして励んできたんだ。だから強くなれた。追いつけなくたって、支えることくらいはできるように。
すぐにまっすぐ顔を上げて、私は声を張った。
「でも、それでいい。同じものになる必要ないから。私は私にできることで、仲間を、カカシを助ける」
そして瞬時に指を噛んで印を結び、私は全ての忍猫たちをここに口寄せした。
数えなくても分かる。今ここに、この血に連なる者たち全員が駆けつけてくれたこと。
振り返らずに、私は背後の仲間たちに告げた。
「みんなはあとの二人をお願い」
「どうするつもりだ」
カカシの問いかけに、一度、ゆっくりと息を整える。
「決まってるでしょ」
あなたにだって当然、分かっているはずよ。
「――澪は、私の手でけりをつける」