280.眠り
「! ――」
誰かが、呼んでる。懐かしい声。すごく、安心する。このまま流れに身を委ねて、眠ってしまうのもいい。
「!」
鋭い声がして、頬に焼けるような痛みを感じた。ハッとして目を開けると、煤けたゲンマの顔が覗き込んできていた。
安心して、涙がにじんだ。
「……ゲンマ」
「……良かった」
ゲンマの切れ長の瞳にも、涙が浮かんでいる。その顔に手を伸ばそうとしたけど、腕が痛んで持ち上がらなかった。
「おい、無理すんな」
「……うん」
ゲンマの顔を見て、声を聞いているだけで、安心する。ゆっくりと息を吐いて目を閉じたところで、私は慌てて飛び上がった。全身に鈍い痛みが走って声が出た。
「いっ……!! そうだ、一体、何が――」
そこまで口にして、眼前の光景に息を呑んだ。
私が倒れていたのは、一面の瓦礫の山の中だった。
「え……ここ、は?」
「木の葉にゃ」
答えたのは、傍らに座り込むサクだった。その後ろには丸くなって蹲るトウと、彼女に寄り添うようにして佇むカツユ様がいる。
「トウ! トウは大丈夫なの?」
「ショックで気を失っているだけです。大丈夫です」
カツユ様の言葉を聞いて、ホッと息をつく。でもすぐに周囲を見渡して、絶望のあまり動けなくなった。どこをどう見ても、生まれ故郷の面影はない。
否――たった一つ、遠目に残された火影岩だけが、この場所が確かに木の葉だと示していた。
他に何もない。何も。
全てが、粉々になって消し飛んだ。思い出も、大切な人たちの証も。
思わずむせ返って咳き込んだ私を、ゲンマはすぐに抱きしめてくれた。身体中が痛んだけど、それでもやっぱりすごく安心した。
「、落ち着け」
「だって……だって……」
「俺がいる。だから、落ち着け」
ゲンマの抱擁が、ぎゅっと強くなる。その鼓動を胸に感じて、涙が溢れ出した。
彼の背中をきつく抱き返して、声を絞る。
「ゲンマ……おじさんが……」
「……ん。知ってる」
ゲンマは静かに、それだけを答えた。
ゲンマは、強い。大切な家族の死を知っても、こうやってしっかり立って、誰かを支えることさえ厭わない。
私はこうやって、またゲンマに縋るしかできないのに。
「ゲンマ……」
ただ、彼の名前を呼ぶことしかできない。
目を閉じ、ゲンマの胸に擦り寄って、大きく息を吐く。
カカシの最期の姿が脳裏に蘇って、私は声を漏らしながら、何度も何度も、えずいた。
***
どれくらいの間、揺らぐ炎を見つめていたか分からない。一瞬のようでもあったし、どこか永遠のようにも感じられる。
色々なことを話した。教え子のこと、仲間のこと、里のこと、そして――のこと。
かつて父さんのしたことを、今の俺なら理解できること。
父さんの息子に生まれて、本当に良かったと思ってるよ。
やがて不意に緑色の光に包まれて、俺の身体がふわりと浮き上がった。
「どうやら、お前はここに来るには早すぎたようだな」
父さんは俺を見て、静かに微笑んでみせる。
「お前と話せて良かった。俺を許してくれて、ありがとう。俺はお前を、誇りに思うよ」
「父さん……」
「今度は、素直になれよ」
その直後、父さんの姿が視界から消えた。
次に目を開いたときには、涙にまみれたの顔が見えて、夢でも見ているのかと思った。
「カカシ……良かった」
夢ならもう、覚めなくていい。
このままの素顔を、永遠に瞼に焼き付けていたい。
ぼんやりしている俺の頭を、急に怖い顔になったが容赦なく拳で殴ってきた。あまりの痛みに、目が覚めて飛び起きた。
「おまっ、……!!」
「バカカシ!! バカっ!!」
上半身を起こした俺にズイッと顔を近づけて、が凄まじい剣幕で捲し立てる。汗と砂埃のにおいがして、これは夢ではないと悟り一気に汗が噴き出した。
「二度と私を庇って死んだりしたら許さないから!! バカ!! ほんとにバカっ!!」
「だ、だからあれは、情報が……」
「うるさい、バカっ!!」
有無を言わさぬ口振りで怒鳴るに、しどろもどろに言い返そうとしたとき、突然の泣き顔が見えなくなった。
代わりに正面からきつく抱きしめられて、心臓が止まるかと思った。
触れ合ったベストから、の震えがありありと伝わってくる。
「バカ……おかえり……」
耳元で吐息混じりに囁かれる言葉に、跳ね上がった鼓動が徐々に落ち着きを取り戻していく。の気持ちが、今は手に取るように分かるから。は俺を、愛しているわけじゃない。
父さんの声が、耳元で微かに響いた気がした。
「ん……ただいま」
その背をそっと抱き返して、目を閉じる。今だけ。今だけ彼女の温もりを刻みたいから。子どもの頃からずっと俺を諦めないでくれていた思いを、ようやく受け止められたから。
はそれからしばらく、俺から離れなかった。俺は死の間際に彼女に打ち明けてしまったことを思い出して羞恥で消えたくなったものの、彼女のまっすぐな感情を全身に浴びるうちに、そんなことはもうどうでも良くなった。俺に対する、の感情はきっと変わらない。子どもの頃からずっと同じものを、俺に与え続けてくれたんだ。
本当に、ありがとう。
お前の友情と、ガイの眩さが、ここまで俺を支えてくれたんだ。
こんな俺を諦めないでくれて、ありがとう。
そっと瞼を開くと、瓦礫の向こうにゲンマの姿が見えた。薄汚れてはいるが、大した怪我はなさそうだ。こんなときでもいつものように千本を咥え、俺たちの様子を顔色一つ変えずにじっと眺めている。
ゲンマはきっと、俺の気持ちに気づいている。それでもの意思を尊重し、ああやって距離を保って彼女のことを見守ってきた。
俺が拗ねて不貞腐れて、誰も寄せ付けなかった子どもの頃から、ずっとだ。
がゲンマを選ぶなんて、当然の話だ。
そんなことはもう、とっくの昔に分かりきっている。
俺はを幸せになんてできないし、誰を愛する資格もない。
だからもう、が俺から離れたら、二度と、手を伸ばしてはいけないんだ。
分かっている。そんなことは分かっているのに。
彼女が俺から離れるまではと、この細い背中を抱き寄せる腕を、自ら解くことができないでいる。