277.襲撃


 久しぶりに午前だけで帰れたから、化粧を落としてまずはベッドに倒れ込んだ。

 蝦蟇が連れ帰った雨隠れの忍びは自白剤が効かず、イビキもお手上げだったため、今はいのいちさんが潜在意識への侵入を試みている最中だ。私は最悪の事態を想定して避難指示のシミュレーション。暁はツーマンセルで動くというが、ペインは少なくとも六人。もし六人全員が現れた場合、既存の避難経路では追いつかない可能性がある。今から秘密の通路は増やせない。手順を考えて、いざというとき迅速に各小隊に伝達しなければならない。考えることは、いくらでもある。

 ウトウトし始めた頃、玄関から呼び鈴が鳴ってぼんやりと瞼を開けた。少し仮眠しようと思ったのに。でも、緊急の用件だったらどうしよう。

、ゲンマが来たにゃ」

 枕元に現れたサクの声で、眠気が吹き飛んだ。あの任務から帰還して一週間も経っていない。でも、顔を見られるだけでも嬉しい。まぁ、仕事の話かもしれないけど。

 玄関の扉を開けると、買い物袋を提げたゲンマが仕事着姿で立っていた。寄ってくれたんだなって分かって、心臓がぎゅっとなった。

「あ、悪い……寝てたか?」
「ううん……何で?」
「化粧してねぇから」

 淡々と指摘されて、思わず声が出た。ゲンマにすっぴんを見られるなんて、何年ぶりだろう。特に、しっかりメイクするようになってからは絶対に初めて。
 あ、でも宿場町で朝まで看病してもらったときは――めちゃくちゃ汗かいたから、だいぶ化粧は落ちちゃってた。

 思い出したら何もかもが恥ずかしくなって咄嗟に顔を覆った私に、ゲンマは呆れたように笑った。

「お前の素顔なんてガキの頃から見てんだろ」
「そ、そういう問題じゃない……」
「俺は、こっちのほうが好きだけど」

 ゲンマは絶対、普通に言ってるけど。顔から火が出そうなくらい恥ずかしい。両手で顔を覆ったままの私に、ゲンマは落ち着いた調子で言ってきた。

「飯、ちゃんと食ってるか? これ、母さんから差し入れ」

 びっくりして顔を上げると、ゲンマの穏やかな瞳と目が合った。それだけのことで、すごく、どきどきした。
 私、本当にどうしちゃったんだろう。ゲンマなんて、子どものときからずっとそばにいるのに。

 化粧なんかするずっと前から、一緒に過ごしてきたのに。

「昨日お前見かけて、顔色悪かったって心配してたぞ。ちゃんと食って、寝れるときに寝ろ」
「……うん。ありがと」

 また、おばさんに心配かけちゃったな。いい年して、何やってるんだろ。

 手渡された袋はずっしり重くて、おばさんの顔が思い浮かんで思わず笑ってしまった。張り切って作ってくれたんだろうな。本当に、子どもの頃から心配ばっかりさせてるな。

「自来也様のことか?」

 聞かれて、自分の顔が強張るのが分かった。黙り込む私に、ゲンマが少し間を挟んで、聞いてくる。

「それとも、他にも何かあるのか?」

 何も言わなくても、ゲンマには全部、伝わってしまう。
 ――オビトのことを、考えていた。

 もしも、仮面の男が本当にオビトだったら。そう考えたら、胸が潰れそうになる。

 でも、あのイタチが一族を皆殺しにした世界だ。何が起きるかなんて、分からない。

 頭ではそう分かっていても、思い出は思い出のまま、変わらないでほしいと願ってしまう。

 頭の中が、ぐちゃぐちゃになりそうだ。

 黙っている私の顔に、そっとゲンマの手が伸びてきた。でも触れる直前にはっと思い直したように手を止めて、すぐに下ろした。

「じゃあ……俺、行くわ。お前は飯食って少しでも寝ろ」

 ――イヤだ。踵を返そうとしたゲンマの袖を、私は無意識のうちに掴んでいた。
 振り向いたゲンマは驚いたように目を見開いたけど、私の顔を見たらすぐに優しく目尻を緩めた。全部分かってるって、言われてるみたいだった。

 めちゃくちゃ恥ずかしいけど、瞼を伏せながら、私は目の前のゲンマの首元に額を擦り付けた。大好きなゲンマの匂いが、今は少し汗ばんでいる。ベスト越しにも、触れ合ったところから彼の鼓動が速まっていくのが分かった。

「もうちょっと……このままで、いい?」
「……あぁ」

 こんなことしてちゃダメだって、何回も何回も思った。でも、やっぱり無理だ。生きていられるこの瞬間に、少しでもゲンマに触れたい。触れられたい。もっと、一緒にいたい。
 ゲンマがそっと背中を抱き返してくれる。すごく控えめで、そうしないと私が壊れるとでも思っているみたいだった。そんなことで、壊れたりしないのに。もっと、きつく、抱きしめてほしいのに。

「ゲンマ……」

 名前を呼んで、そっと視線を上げる。ゲンマは頬を赤く染めながら、真下にいる私をまっすぐ覗き込んでいる。
 しばらく黙って見つめ合っていると、背中に回されたゲンマの手が動いた。ゆっくりと、やっぱり割れ物にでも触れるみたいに、慎重に私の頬をなぞる。

 肌が粟立って心臓が跳ねると同時に、凄まじい爆音が私たちを揺るがした。

「何だ……!?」

 私の背を抱くゲンマの腕に、ぎゅっと力が入る。私も思わずゲンマの胸にしがみついたけど、続いて地鳴りのような震動が走って慌てて顔を上げた。

 最悪の事態が、現実になったのかもしれない。

 私たちは外に出て、すぐに家の屋根に登った。里の複数の場所から煙や風塵が舞っている。中には大型の虫のような生物が暴れ回っている様子も見て取れた。

 一箇所や二箇所じゃない。

 本当に、一番最悪の事態になった。

、奴らが来たにゃ。木の葉の中心から全方位に散らばってるにゃ」

 レイが右肩に現れて鋭い声をあげる。もう片方の肩にサクも飛び乗って低い唸り声を出した。

 周囲を見渡し、ゲンマが愕然とした面持ちで口を開く。

、これは……」
「暁のリーダーが攻めてきた。私は避難指示の指揮を任されてる。ゲンマは五代目の指示を聞いてトクマとネネコちゃんと合流して――私は、一緒には行けない」
「……分かった」

 ペイン襲来の可能性は、ごく一部の忍びにしか伝えられていない。ゲンマも知らないはずだった。でもゲンマは短く頷いて、素早く火影邸の方角へと移動しようとした。

「ゲンマ!」

 咄嗟に、呼び止めてしまった。こんなこと、してる場合じゃないのに。

 驚いた様子で振り向いたゲンマに、一瞬躊躇ったけど、私は震える声を絞り出した。

「……死なないで」

 ゲンマが目を丸くして、それから少しだけ笑って、口元の千本を揺らす。その笑顔を見るだけで、不安でいっぱいの心が、微かに解れるのが分かった。

「お前がそんなこと言うの、初めてだな」
「……そう、かな」

 今度は歯を見せて笑ったゲンマが、腕を伸ばしてそっと私の頬を撫でた。

「お前も、死ぬなよ」

 今度こそ背中を向けて、ゲンマの姿が一瞬で視界から消える。

 いつも通りだ。緊急事態に、感傷に浸っている暇なんかない。
 それなのに。

、さっさとするにゃ!」

 サクの尻尾に顔を叩かれ、私は顔を上げる。

 拭えないこの不安を抱えたまま、それでも今やれる最善を尽くすしかない。