270.結び
夜摩猫というのは、かつての忍猫の名前らしい。
元々、一族は忍びではなかった。起源はおよそ五百年前、六道仙人の時代と言われる。と呼ばれた巫女の傍らに控える、不思議な力を持った猫。彼らは夜摩猫と呼ばれ、各地に古い狛猫もいくつか発見されているそうだ。火の国では、あまり見かけない。
が忍びになったのは、ほんの三代前。の曾祖母、澄の代だ。澄は忍術と舞いの双方を学び、その娘、澪は舞いを捨てて忍びの道を選んだ。夜摩猫が忍猫と呼ばれるようになったのもその頃。ほんの、数十年前の話だ。
あの男が幼少期から何かを言い聞かされて育ったとすれば、それは当然忍猫ではなく、夜摩猫という名前だろう。
本部の資料室には、忍びの家系の歴史にまつわる文献もある。だが、一族に関する資料は少ない。理由は先述の通りだ。忍びとしてのの歴史は、とても浅いから。不知火でさえ、辿れるだけでもイクチが十七代目だ。
俺はのことも、のことも、まだ何も知らない。その思いが、重苦しく伸し掛かった。
を幸せにしたいと願った。が背負うものも全て、二人で分け合って生きればいいと。だが実際、俺は自分が背負おうとしているものを理解しているのか? 五百年の歴史を、何も知らないのに?
あの日の澪様の言葉が、脳裏に蘇る。初代火影である千手柱間が、の先祖に誓ったこと。必ず平和な世界を作る。の力は借りないと。忍びが過ちを繰り返さないことを見届けるために、彼女は木の葉にやって来た。
だがは、俺たち忍びの共犯者となった。祈り、見守るはずの立場だったのに、共に手を汚してもがき続けている。
が苦しみ続けているのは、俺たちのせいなんじゃないのか。忍びにならなかったとしても、は同じように苦しんだろうか。
が忍びでなければ、もしかしたら俺たちは出会わなかったかもしれない。
「……ゲンマ。何してるの?」
集中しすぎて、気づかなかった。の文献にかじりついている俺の背中に、控えめに声がかかった。反射的に振り向くと、思った以上に近い距離からが覗き込んできていた。
「おまっ! っ……!」
「わっ! な、何?」
俺が出した大声に驚いてが少し後ろに下がる。どきどきと脈打つ鼓動を悟られないように、俺もまたとは反対方向に身体を反らす。
はしばらく俺の顔を見ていたが、やがて手元に視線を落としてまた目を丸くした。
俺はまだ、の家系図のページを開いていた。
「ゲンマ……何やって……」
「あ、いや、これは、その……」
うまく言葉が出てこない。結局あれから、俺は一度もあの町での出来事を口にしていない。五代目にも、何の報告もしていない。きっと、も。
にも、一度たりともあの男の話はしなかった。
「ゲンマ、ひょっとして……こないだの、宿場町でのこと気にして……」
言い当てられて、本を掴む指先に思わず力が入る。疚しさに、胃がきりきりと痛む。それでも、黙っているわけにはいかなかった。
俯いたまま絞り出した声は、思った以上に小さくなった。
「……勝手な真似して、悪い」
はしばらく何も言わなかった。怒っているのかもしれない。傷ついたかもしれない。失望したかもしれない。だが恐る恐る顔を上げた俺の目に飛び込んできたのは、今にも泣き出しそうな顔を真っ赤に染めて口元を覆っただった。
場違いにも、今すぐ、抱きしめたくなった。
「ううん……気にしてくれて、すごく、嬉しい」
は震える声で、噛み締めるようにそう言った。意地だけで涙を堪えているようだった。
潤んだ赤い瞳でじっと見つめられて、息が詰まる。
「私も……あれからずっと気になってた。放っておいたらダメな気がして……でも、怖くて。知りたくなくて……でも、知らなきゃいけない気がして。ここに来たらゲンマがいて、のこと調べてくれてて……すごく、嬉しかった」
は本当に、何も知らなかったんだ。
突然聞かされた事態に驚き、戸惑い、怯えていた。
それなのに俺は、そんなを放ったらかしにして、調べ物に必死になっていた。
何よりもまず、に寄り添うべきだったのに。
「……ごめんな。俺、お前の気持ち、全然考えてなかった」
「……何で? 何でゲンマが謝るの? 私、嬉しいよ。ゲンマが私のこと一生懸命考えてくれてるの、分かってるよ」
鼻声だが、少し落ち着いたようだった。は少し離れた場所の腰掛けを引っ張ってきて、俺の隣に座った。以前より、距離が近く感じた。
「ゲンマ……私も一緒に、調べていい? 知りたいの。のこと、もっとちゃんと。私が最後だから……知れることはちゃんと知りたい。が、忍猫が、何をしてきたか――ゲンマと一緒だったら私……怖くても、大丈夫だよ」
そのまっすぐな眼差しに、胸がいっぱいになった。ゲンマには関係ないと言われるかもしれないと思った。だがは、一緒に調べたいと言ってくれた。俺と一緒なら、怖くても大丈夫だと。
愛おしくて愛おしくて、たまらなかった。絶対に離れたくないと思った。
「……あぁ」
俺も鼻声になったことを悟られないように、俯いた俺は精一杯の小声でただそれだけを答えた。
***
本部の資料室で一緒になってから、非番が重なるときにはゲンマと資料室にこもることが増えた。もちろん私室じゃないから、誰かが来て茶化されることもあるけど、私たちはあまり気にしなかった。だって、目的がはっきりしているから。冷やかしなんか、大した問題じゃない。
ゲンマによると、尾行してきた男はサクを見て夜摩猫と言ったらしい。つまり、事件はが忍びになる前のことかもしれないけど、でもその男が忍びでないのなら、呼称が忍猫になったことを知らない可能性もある。どちらにしても、私たちは澄と澪が関わった任務の報告書を片っ端から当たることにした。男の推定年齢からして、凪が関与しているとは考えにくい。
祖母の関わった任務。もちろん、こうして表に出ないものもたくさんあるだろう。でも今は、できることをする。それだけ。
祖母の若い頃の報告書には、ヒルゼン様やコハル様、ホムラ様、それにダンゾウ様の名前もよく見られる。私の祖父――つまり祖母の夫である、ソウシの名前もある。祖父は若くして殉職したそうだ。父と、同じ。
それも、私が結婚したくない理由の一つかもしれない。に嫁いだ者は、早世する。無意識に、そう思い込んでいるのかも。
私と結婚しても、ゲンマは幸せになれない。そう撥ねつけていてもなお、ゲンマはこうしての過去を一緒に調査してくれている。こんな人、他に絶対にいない。幸せになってほしいなんて、未だに他人事のように考えている。
ある日の夕暮れ、四十年前の報告書の束に目を通すゲンマの横顔に、私はそっと声をかけた。
「ねぇ、ゲンマ……」
「ん?」
ゲンマは紙面に視線を滑らせ、口元の千本を軽く揺らしながら、短く相槌を打った。
口が渇いて緊張したけど、意を決して、私はずっと抱えてきたことを口に出した。
「ゲンマ……私のこと、嫌いになったよね?」
ゲンマは数秒の間、聞こえなかったのかと思うくらい表情一つ変えなかった。でも、咀嚼するのに時間がかかっただけらしい。ぴたりと千本が止まり、視線の動きも停止し、しばらく前をまっすぐ見つめてから徐ろにこちらを向いて、これでもかというくらい分かりやすいしかめっ面になった。
「………はぁ?」
ゲンマの低い声に、心臓が跳ねた。怒ってる? 呆れてる? 言わなきゃよかった?
でも、今さら引き返せない。
「だって、あのとき、私……ゲンマに、めちゃくちゃなこと、頼んだ……あんな節操ない女、幻滅した……よね?」
言わなくてもよかった。でも、ずっと抱えておくこともできなかった。だってゲンマが、何も言わないから。幻滅したならしたって、はっきり言ってくれるほうが楽だった。
やっぱり私は、自分のことしか考えてない。
ゲンマはものすごく怖い顔でしばらく私を睨んだあと、盛大にため息をついて口から千本を外した。それから思いっきり背中を丸めてガシガシと頭を掻いた。初めて見る仕草だった。
「……お前は、どうして、そこまでアホなんだ」
びっくりして何も言えない私に、ゆっくりと顔を上げたゲンマが続けて口を開く。眉間に深く刻まれたシワが時折ピクピクと震えていた。
「嫌いな女と、誰が仕事以外でこんなことすんだよ。ちょっと考えりゃ馬鹿でも分かんだろうが」
「……そ、そんな言い方……」
「はっきり言えよ。そうやって俺を試すな。嫌いにならないでって言えよ。なるわけねぇだろ、ドアホ」
思わず、目の前が滲んだ。恥ずかしくてたまらなかったし、嬉しくて嬉しくて、どうしていいか分からなかった。
私、大好きなゲンマのこと、ずっとずっと、試してたんだ。
こんな私でも、ほんとに好きでいてくれるの? って。ほんとに今も私が好きなの? 他の女の人にすればよかったって、ほんとは思ってるんじゃないの? って。ずっとずっとずっと、ゲンマのこと、試してた。
ゲンマの気持ちなんか、とっくの昔に分かっていたのに。
私、ほんとに最低の女だ。
「ゲンマ……ごめん、ごめんね……」
「……アホ。謝罪なんか、要らねぇんだよ。好きだって、一言言ってくれりゃそれでいいんだ」
ゲンマの目は優しかった。声も、優しかった。涙が溢れそうになるのを何とか抑え込んで、私は首を振る。だって、言えない。ゲンマを幸せにできないのに、私がそれを口にしちゃいけない。
こんなにゲンマのことが大好きで、こんなにゲンマのことを繋ぎ止めているのに。
でも、ゲンマはそれ以上、私を追い詰めたりしなかった。ただ身体ごとこちらを向いて、椅子の上に背筋を伸ばして座り直した。
「」
「……何?」
「手……握って、いいか?」
ゲンマの小さな声に、心臓が壊れるかと思った。手を握るなんて、何度も何度もしてきた。でもゲンマのアパートを訪ねた最後の夜から、全てが変わってしまった。あれから数年、気持ちを伝え合ってもなお、私たちの間には、目には見えない壁が立ち塞がっている。
それをこうして、言葉にして、ゲンマが少しずつ、埋めようとしてくれている。
私は、ゲンマに、触れてほしくてたまらない。
好きで、好きで、たまらない。
「……うん」
自分の手を見つめたまま、やっとのことでそれだけを口にする。
控えめに差し出されたゲンマの手のひらはやっぱり大きくて、私の両手をすっぽり包み込んで溶かし切るくらい、解けることなく熱く結び合っていた。