269.猫


 男は飛ぶように振り返ってジリジリと後ずさった。だが、まるでなっていない。本当に、ただの民間人のようだった。手負いの獣のような顔をしながら、慎重に後ろのポケットに手を伸ばす。
 影分身の俺が、後ろからその手首を掴み上げた。

「おいおい、穏やかじゃねぇな? まずは話し合おうぜ?」

 俺が親指に少し力を入れると、男の手から一握りの何かが落ちた。どこにでもあるような、安物の折り畳みナイフだ。
 足元に落ちたそれを爪先で遠くに蹴り飛ばすと、男は諦めたようだった。本体の俺を苦々しく睨みながら、舌打ちする。

「お前は……、なのか?」

 男が漏らした言葉に、俺は息を呑んだ。なぜここで、の名前が出てくる? 狙いは、か?

「……どういうことだ?」

 影分身の俺が声を落として問いかけると、男は影分身を一瞥してから再び本体の俺を見た。俺の肩にはすでにサクが戻ってきている。
 男の鋭い視線は、俺というよりもサクを見据えているように思えた。

「……と夜摩猫は、厄災だ――俺は、そう言い聞かされて育った。その猫が夜摩猫なら、すぐにこの町から出ていけ」

 ヤマ猫? 初めて聞く単語に、心臓が跳ねる。男が何を言っているか分からないのに、聞き流せない何かがあるような気がして、思わず男の手首を掴む指先に力が入った。男は顔をしかめて小さなうめき声をあげた。

「待て……話が見えねぇ。何なんだ、ヤマ猫って。が一体、何をしたっていうんだ?」

 すると、男の顔つきが変わった。まるで嘲笑うかのように口元を歪めて、影分身の俺を首だけで振り返る。その表情に、背筋が凍えていくのが分かった。

「何も知らないのか? お前らのせいで、俺の先祖は代々住んでいた村を失ったんだ。お前らがあんな猫、連れてきたばっかりに……二度と、この町に立ち入るな!」

 一瞬の隙をつき、男は俺の手を撥ねつけて駆け出した。折り畳みナイフもそのままに、元来た大通りのほうへと走り去っていく。咄嗟に追いかけようとしたが、俺の足は動かなかった。追っていいのか、分からなかった。

「ゲンニャ? 放っておくにゃ?」

 影分身を解いた俺の肩で、サクが不思議そうに首を傾げる。
 足元のナイフを拾い上げながら、俺は静かに首を振った。

「……を、放っとけねぇ。戻るぞ」
「レイが見てるにゃ。心配ないにゃ」

 サクの言い分は分かるし、ここであの男を取り逃すことで、後々また厄介事を引き起こすかもしれない。少なくとも、もう少し情報を引き出すべきだ。なら、きっとそうする。
 だが俺は、追いかけることができなかった。俺の知らない、の秘密があるとしたら。言いがかりにしては、あの男はの名を言い当てた。どう見ても忍びの身のこなしではないのに、が猫を引き連れた一族であることも。

 ヤマ猫とは何なのか。のせいで失われた村とは、何なのか。

 それをがもし、隠しているとしたら。

 拾った折り畳みナイフを忍具ポーチに差し込んで、俺はまっすぐ宿へと戻った。


***


 私が一眠りして目を覚ましたあと、ゲンマはサクを肩に乗せたまま部屋に戻ってきた。ひどく、小難しい顔をして。きっと本人は平静を装ってるつもりなんだろうけど、目が怖い。絶対に、何かあったんだって分かった。

「ゲンマ……どうしたの?」

 ゆっくり上半身を起こしながら声をかけると、ゲンマは少し困った顔になった。隠そうとしたって、それくらい、分かるよ。
 視線を外しながら、ゲンマが首を振る。

「いや、何でもない」
「変な男に絡まれたにゃ。に恨みがあるみたいにゃ」

 肩に載ったサクがあっけらかんとそう言って、ゲンマの目の色が変わった。サクは素知らぬ顔でぺろぺろと前脚を舐めている。

「サクっ!! てめぇ……!!」
「ゲンマ……どういうこと? 何があったの?」

 サクはそのまま床に飛び降りて、悠々と私の隣まで歩いてきた。ゲンマは苛立ってるみたいだったけど、ゲンマだってサクの性格はよく分かっている。すぐに小さく息を吐いて、その場で気まずそうに話し始めた。

「……俺にも分かんねぇ。ただ、サクといるところを見て俺がだと思い込んだらしい。そいつが言うには……忍猫のせいで、代々住んできた村がなくなっちまったって。詳しい事情を聞く前に、逃げられちまった……悪い」

 ゲンマの話を聞いて、胸の奥がひやりと冷たくなるのを感じた。忍猫のせいで、村がなくなった? 何のことか分からないのに、無視はできない気がした。何かがあった? 私の知らないところで。
 五百年の歴史の中で、私の知らないことなんてたくさんあるだろう。それでも、知らない、でまかせだと言い切ることはできない。

 私はただ、知らないだけなんだ。

 ゆっくりと視線を落として、震えそうになる指先をぎゅっと握り締める。ゲンマを、私の知らないところで面倒に巻き込んでしまった。私が寝込んでる間に。本当に、情けない。

「……ううん。ゲンマが謝ることじゃないよ。私こそ、なんか、迷惑かけたみたいで……ごめん」
「いや……大したことじゃない」

 ゲンマは言葉少なにそう言ったけど、すごく歯切れが悪かった。ぎこちない沈黙が続く中、しばらくしてこちらに近づいてきたゲンマが、私の布団の隣に腰を下ろす。サクはもう私のお尻にくっついて丸くなっていた。

……聞いても、いいか? 奴の言ってたことに、心当たりは? いや、言いたくないなら……」

 すごく、気を遣わせている。踏み込みすぎちゃダメだって、思ってくれてるのが分かった。嬉しいのか寂しいのか、よく分からなかった。

「……ううん。分かんない。もしかしたら、大戦中に任務で何かあったのかも……」
「……そうか」

 ゲンマはそう囁いて、徐に立ち上がった。そっと見上げると、ゲンマはもういつもの落ち着いた眼差しに戻っていた。それだけで、すごく安心した。

「動けそうか? ここは早く出た方がいい」
「うん……行けるよ、平気」

 平気、とはまだ言えない状態だったけど、これ以上この町に留まって、またゲンマに迷惑をかけたら。ゲンマはきっと私が強がっていることも分かってるけど、何も言わずに黙って頷いた。

 私たちは日が暮れる前に宿をあとにした。いつもより少しペースを落として、ゲンマが先頭を走る。私たちは道中、忍猫のことは何も話さなかったけど、お互いの頭の中にずっとこびりついて離れていないんだろうなということも、きっと分かっていた。