268.尾行


 私は一体、何度正気を失えば気が済むのだろう。

 目覚めたら、もう日は昇っていた。あんなに重かった頭はだいぶ軽くなり、汗でびしょ濡れだった身体は備え付けの浴衣に包まれて熱もすっかり落ち着いている。ぼんやりと瞼を開ければ丸くなって眠るサクのお尻が見えた。ゲンマの姿は、部屋にない。

 一瞬で明け方の記憶が蘇ってきて、死にたくなった。私、ゲンマになんてこと頼んだの。嘘。うそうそ、うそ。

「サクっ……! ゲンマは?」

 サクは尻尾を一振りして、「外にいるって言ってたにゃ」とめんどくさそうに言った。

「ちょ、あんた、あのとき一緒にいたでしょ!? な、何で止めてくれなかったのっ!?」
「うるさいにゃ。もうちょっと寝るにゃ」
「……もうっ!!」

 分かってる。八つ当たりだ。サクにそんなことを止める義理なんかない。私がゲンマに裸を見せようが、彼らの知ったことじゃない。
 記憶が定かなら、全部脱がせて、全部拭いてくれた。必要な処置だから、ゲンマはそうしただけだ。私が動けないって言ったから、だから。

 身体が重くて本当に動けなかったし、冷たくて凍えてたのだって本当。
 でももし相方がゲンマじゃない男の人だったら、きっと私は這ってでも自力で着替えた。

 ゲンマに、触ってほしかった。間違いが起きたって良かった。でもゲンマは、薄明かりの中で私に触れている間、一度も私の目を見なかった。

 本当に本当に本当に――最低だ。

 応えることも、離れることもできないくせに。

 こんな節操のない女、絶対に嫌われる。

 ゲンマに嫌われたらって考えたら、涙が出るほど怖かった。でもそうなるようなことを仕出かしたのは私だ。
 もう五年以上飲んでない。飲まなきゃ大丈夫だって、油断してた。

 私が自己嫌悪で膝を抱えていると、ゲンマが部屋に戻ってきた。ゲンマは私が起きているのを見ても、顔色一つ変えなかった。ただ、仕事の顔をしていた。

「起きたか? 気分はどうだ?」

 まるで、何事もなかったみたいに。

 それはきっと、ゲンマの優しさだって分かってる。分かってる、けど。

「……ゲンマ、私……ごめ――」
「謝んな」

 ゲンマは紙袋を座卓に置き、腰の忍具ポーチを外してその隣に並べた。昔、私が贈ったものだ。もう、十年くらい経つかな。革製だから長持ちはするけど、もうだいぶ草臥れてきている。それでも、大切に手入れして使い続けてくれているのが分かった。胸が、ぎゅっとなった。

「謝んな。必要な処置をしただけだ。お前が回復したなら、それでいい」

 ゲンマはやっぱり、こちらを見なかった。私は痛む胸を押さえながら、小さく口を開く。

「……うん。ありがと」

 今はただ、そう返すしかない。謝ったって、意味なんかない。嫌われたって、仕方がない。いっそ、嫌われたほうがずっとマシだ。

 この期に及んで私はまだ、ゲンマに全てを決めさせようとしている。
 アンコの鋭い視線が、脳裏に甦った。

「少し、食えるか? 行けそうなら、日が暮れる前にここを出ようと思ってる」
「あ、うん……分かった」

 私のせいで、余計な時間を取らせてしまった。メイが伝令に戻ってくれたとは言え、できるだけ早く帰還するに越したことはない。

 ゲンマは紙袋を持って布団まで来てくれた。中からペットボトルの水と、パックをいくつか取り出して広げる。調理場で作ってもらったという卵雑炊を少しと、水を飲んでから、私はまた横になった。

「ゲンマ……寝てないでしょ? ちょっとでも、休んで」
「少し休んだ。俺は問題ない」

 ゲンマは変わらず、私の顔を見ない。気まずいだろうし、仕方ないけど、すごく寂しかった。自業自得だって、分かってるのに。

 徐ろに立ち上がったゲンマは、私ではなく眠るサクに声をかけた。

「サク、ちょっといいか?」
「え〜イヤにゃ」
「そう言うなよ。ちょっとだけ」
「イヤにゃ」
「干し肉買ってきてやったから」
「仕方ないやつにゃ」

 ゲンマが紙袋から取り出したパックを掲げると、サクはピクリと耳を立てて起き上がった。ほんと、現金なんだから。
 でも、ゲンマがサクだけ連れ出すなんて、ひょっとして何かあるの?

「ゲンマ……」

 私が呼びかけたとき、サクはすでにゲンマの肩に飛び乗っていた。首だけで振り返り、ゆらゆらと尻尾を振ってみせる。

、ボクがいなくてもレイが窓の外にいるにゃ」
「それは、分かってるけど……」
、何でもねぇから。ちょっと見回りしてくるだけだ。じゃあ、サク借りるぞ」

 ゲンマはやっと私の顔を見て、少し笑いながらそう言った。それが嘘なんてこと、考えなくても分かった。でも、今の私が気を回したところで足手まといなんだろう。

 ゲンマの後ろ姿が見えなくなるまで見送ってから、私は嘆息混じりに目を閉じた。


***


「……気づいてたか?」
「当然にゃ。昨日の夜からずっとにゃ」

 気づいてたなら、言えよ。声には出さずに呟いて、俺は左肩に載るサクに干し肉を手渡した。サクはその場でカミカミと頬張り、満足そうに喉を鳴らしている。

 明け方にの処置を済ませてから、俺はすぐに部屋を出た。そばにいれば、何をしてしまうか分からなかった。二度との信頼を裏切るような真似はしない――そう誓っていても、状況が状況だ。極力見ないし、極力触れない。それでも、濡れたタオルを肌に滑らせるとピクリと震える肩も、時折漏れる淡い吐息も、肌から不意に立ち昇る汗の匂いさえも、俺の決意を揺らがせるのに充分すぎるほど艶めいていた。

 でなければ、どうということもないのに。本部配属となり、十八を迎えたあと、色任務に関わる精神訓練だって受けた。直接的な任務を依頼されたことはないが、訓練が役に立つ場面も幾度となくあった。自分の中の男を殺すことくらい、難なくできる。
 たった一人、愛する女の前を除けば。

 の前だけは、肩書きなど無用になる。俺は欲にまみれた醜い男に成り下がる。への気持ちが膨らめば膨らむほど、俺は己の弱さを思い知る。

 を守ると同時に、この距離は、俺を守るためにも必要なものだ。俺はまだ、のそばにいる資格のある人間でいたい――ただ、それだけだ。

 宿の外に出て、視線を感じた。気のせい、ではない。隠れているつもりだろうが、視線の主はすぐに見つかった。年の頃は五十くらいか。背は俺より少し低く、薄汚れた旅装。俺が宿を離れると、その気配も一定の距離を保ってついてきた。
 一度宿に戻り、サクを連れて出てくると、気配がさらに濃くなった。

「どう思う?」
「奴らの仲間にしては気配ダダ漏れにゃ。殺気もないにゃ。だから放っといたにゃ」
「……だよな」

 敵の残党であれば、ここまで堂々と近づいてくるとは考えにくい。では、目的は何か。この程度の相手であればすぐに撒けるが、弱ったを連れている状況であれば、どうか。

「……やるか」
「んにゃ」

 十字路に差し掛かる頃、俺はサクに目配せしてから角を左に曲がった。そしてすぐに小さな祠に変化し、人気のない路地にひっそりと佇む。サクもすぐに姿を消し、現れた男は誰もいなくなった通りを見て慌てたようだった。

「何か用か、オッサン?」

 きょろきょろと辺りを見回す男の後ろ姿に、変化を解きながら俺は淡々と声をかけた。