267.宿


 任務自体は大きなトラブルもなく終わったと思ったのに、帰路の途中で敵の残党と小競り合いになり足を負傷してしまった。動けないわけではないけど、咄嗟の事態には反応が遅れる。ゲンマのおかげで敵は一掃できたものの、予定より帰還に時間がかかりそうだった。

「ごめん、ゲンマ……足引っ張って」
「アホ。いいから休め。そのほうが俺も助かる」

 本来なら野営しながら一刻も早く里に戻るべきなのに、宿場町のほうが残党を撒いて紛れやすいとして、ゲンマは空いている安宿を探した。が、安宿は全て埋まっていて、ぼったくりかと思うような部屋しか空いていなかった。
 かといって、別に豪勢な部屋というわけでもない。ごく一般的な調度品が設えてある、ごく一般的な客室。

 プライベートじゃないんだし、もちろん同室だ。利便性を考えても、経費を考慮しても、別に当然の判断だ。ゲンマじゃなくても、こういう場合は性別に関係なく仲間と同じ部屋で過ごす。アオバなんか、お互い空気でしかない。
 任務中、ゲンマと同じ部屋で夜を明かすことだって、別に初めてじゃない。

 なのに、なんか、おかしいな。

「熱があるにゃ」

 サクに指摘されるまでもなく、全身から汗が噴き出して、込み上げる熱に目眩がした。恐らく、敵の武器に仕込みが施されていた。サクの唾液ですぐに処置はしてあるから、大したことにはならないだろうけど。猛毒であれば、サクが舐めた時点ですぐにそれと分かる。
 こういうときは、大抵一晩熱が出て、翌朝には何とか起き上がれるくらいにはなっている。

「ゲンマ、ごめん……部屋取ってくれて、助かった……」
「いいから、黙って寝ろ」

 頭も、身体も、瞼も、全部が重い。いつもなら布団が並んで敷かれていたら離してから休むけど、私はそのまま倒れ込んだ。少し、埃っぽい。でも、野営よりはずっとマシだ。

 気を失うようにして、私は眠りについた。


***


 一晩で熱が下がって、良かった。ずっと浅かった呼吸も、噴き出していた汗もやがて落ち着き、は静かに寝息を立てている。カーテンの隙間から漏れる青白い光が、静かな部屋に夜明け前を告げていた。

 サクはの足元で丸くなって眠っている。こいつがいてくれて助かった。俺も何度か助けられている。強いものは無理だが、それなりの毒ならサクの唾液があれば効果は半減できる。忍猫の中でも、サクの血筋にだけ宿る特別な力らしい。

 サクはこの夏、父親になったそうだ。ガキの頃から変わらずニャーニャー言っているのでまるで実感が湧かないが、サクはより五歳年長者だ。つまり、俺より年上。

 忍猫は、普通の猫と交尾するケースも多い。サクも木の葉の喋らない猫との間に子猫を儲けたそうだ。
 忍猫の子のうち、力を持つ猫は精々一、二匹。ある日突然サクが家に連れてきたその子猫に、はトウと名付けたらしい。

「何で『トウ』なんだ?」
「んー……なんか、その子が来たとき、ちょっと明かりが灯ったような気がしたんだよね。明かりの『メイ』はもういるから、灯るほうの『トウ』はどうかなーって」

 はぼんやりと宙を見上げながらそう言ったが、正直よく分からなかった。アイやサクの名前は、誰がつけたのだろう。の母親か、それとも澪様か。
 俺はまだ、トウには会えていない。

 の額を夜通し拭いていたタオルを、そっと桶に戻す。水はとっくにぬるくなり、嵩も減った。肌に直接触れないようにして、タオル越しに額や首元をずっと拭ってやっていた。
 本来であればこれだけ大量に汗をかいていれば着替えさせるのが適切だと分かるが、俺はそうしなかった。もう二度と、あんな真似は絶対にしない。だが、けじめとして――から求められるまでは、指一本触れないと決めたんだ。

「ん……ゲンマ」

 弱々しい声で名前を呼ばれて、どきりと心臓が跳ねた。起きたのかと思ったが、はまだ目を閉じたまま穏やかな呼吸を繰り返している。寝言、か。
 は俺のことを、夢に見たりするんだろうか。夢の中の俺は、お前に触れたりするんだろうか。

 触れたい。抱きしめたい。キスしたい。絶対に駄目だ――その狭間で、いつも揺れている。

「ゲンマ……」

 もう一度呼ばれて視線をやると、がぼんやりした眼差しでこちらを見上げていた。二人きりの薄暗い部屋で、弱ったが布団に横たわって俺を見つめている。こんなときだというのに不埒な考えが浮かぶ自分自身にうんざりした。

「起きたのか?」
「うん……」

 鼻に抜けるような、どこか甘く掠れた声。揺れた感情をごまかすように視線を外しながら、続けて問いかけた。

「気分はどうだ? 寒くないか?」
「ん……寒い……」

 それはそうだろう。季節は秋とはいえ、明け方は少し気温が下がる上、は大量に汗をかいている。やはり着替えさせたほうが良かったかという思いが頭をかすめたが、すぐに打ち消した。

「着替え、できそうか? 俺、外すから……」
「ゲンマ……」

 甘えるような声音で囁いて、が俺のベストを小さく引っ張った。どきりとした。

「やだ……行かないで」

 これではまるで、あのときと同じだ。酔ったを川原から背負って連れ帰り、急いで帰ろうとした俺をが引き止めた、あの夜。
 今夜限りと言い訳をして、俺はを抱いて眠ったんだった。

 はあのときと違い、酔っているわけではないが、毒による発熱が収まったばかりで意識が朦朧としているはずだ。どうせ今言ったことも、すぐに忘れる。どうせまた後悔して、ごめんと謝る。謝罪が欲しいわけじゃ、ないのに。

……さっさと着替えねぇと、今度は風邪ひくぞ」
「無理……動けない」

 一瞬、甘えるために言っているのかと思ったが、実際まだ身体を動かすのはつらいんだろう。狼狽える俺に追い打ちをかけるように、は切なげに目を細めて囁いた。

「寒いよ……だから、ゲンマが……」

 喉の奥が焼けるかと思った。言葉の続きを飲み込むように唇を結んで、は俺をぼんやり見つめている。他意なんて、あるはずがない。寒い。動けない。ただ、それだけだ。
 俺だって、相手がでなければもうとっくに済ませてあるはずの処置だろう。

 こんなことなら、意識のないうちにさっさと済ませておけばよかった。

「……分かった」

 目を閉じ、小さく息をついて、俺は静かにそう答えた。