264.笑顔


 恐らく、五代目が妙な気を回している。ここのところ、と組む任務が体感で五割ほど増えた。またですか? と問えば、五代目はめんどくさそうに顔をしかめた。

「文句があるのか?」
「いえ……滅相もございません」

 神妙な顔を作って答えると、どういうわけか五代目の傍らに控えるシズネが小さく吹き出した。

 俺たちは別に、あれから何が変わったわけでもない。相変わらず恋人にはなれないし、ただの同僚だし、俺は彼女に指一本触れられない。五年前のあの夜、衝動に任せて傷つけてしまった。だからもう、彼女が望むまでは絶対に触れないと決めた。

 ただ、昔のように目を見てくれるようになった。ふとしたときに目が合うと、少し頬を染めてはにかむように笑う。
 好きだと、彼女は言わなかった。だが、自分では俺を幸せにできないと言って俺の前で泣いた。

 自分のことだけ、考えればいいのに。お前はもう、充分すぎるほどに周囲のために生きてきた。
 忍びとして、心を殺さなければならないときもある。だが、自分の幸せを望んではならないなんて、誰も強制していないのに。

「えー、またおじちゃんが審判なの?」

 二年目の中忍試験を控えたネネコが、あからさまに嫌そうな顔で口元の長楊枝を揺らしている。俺は同じように千本を揺らしながら鼻で笑った。

「そういうことは予選を通過してから言え」
「分かってるよ! あーあ! ちゃんはこんなおじちゃんのどこがいいんだろうね!?」

 思わず吹いてしまった。イクチとコトネが席を外していて助かった。俺は眉間にしわを刻んでネネコを睨みつける。

「お前、またに妙なこと吹き込んでねぇだろうな?」
「さぁね。それは私とちゃんの問題でしょ。おじちゃんは、おじちゃんとちゃんの問題をちゃんと考えなよ」

 こいつ、一丁前に偉そうに。だがネネコももうすぐ十四歳だ。十四歳といえば、が情報部に配属された年。ちょうど同じ年、ネネコが生まれたんだった。
 こいつもいつまでも、ガキのままじゃない。

「ま……そうだな」

 とはいえ、俺にはただ、待つことしかできない。俺がいつまでも待つことは、にとって負担かもしれない。それでも再び気持ちを伝えたあのとき、は俺の目の前で頬を染めて泣きじゃくった。どんなに大人びた化粧で覆っても、その泣き顔はガキの頃のままだった。

 俺たちが離れている間も、ネネコは俺たちを繋いでくれた。に修行を頼んだり、オキナに会いに来てほしいとよく声をかけていたらしい。「私がちゃんに会いたかっただけだから」とネネコは俺をツンと突き放したが、不知火の家にの影を感じるだけで、俺たちはまだ終わっていないと希望を絶やさずにすんだ。

 俺たちは、もしかしたら一生このままかもしれない。いつ死ぬかも分からない生き方。それでも、愛していると伝え続けたい。何があってもずっとそばにいる、これからも見守っていると。

 だから、ここのところ物憂げな顔をしているに俺は思わず声をかけた。

「何かあったのか?」

 今回は、アオバのスリーマンセルだった。火影邸の前でアオバと別れて、俺とはいつものように夜更けの路地を歩く。火影室の前では、カカシとアスマに遭遇した。

 は一瞬足を止めたが、笑ってすぐにまた歩き出した。

「何で? 何もないよ」

 あぁ、また。すぐに、そういう顔をする。立ち止まった俺を、数歩遅れてが振り返った。

。俺に嘘なんかつかなくていい。苦しくなるくらいなら、しょうもない嘘、つくな」

 艶やかに彩られたの瞳が揺れた。紅い唇が少し動いて、だが迷うようにそっと閉ざされる。が視線を俯きがちに動かしていると、急にきゅるると小さな音が鳴った。
 どう考えても、の腹だった。

 しまったという顔で赤面するに、思わず笑みがこぼれる。

「ラーメンでも食って帰るか」

 はしばらく黙っていたが、やがてくしゃりと子どものように笑って頷いた。


***


 カカシはあれから、何事もなかったみたいに話しかけてくる。仕事のときも、ばったり会ったときも。
 あのときと同じだ。カカシは何も変わらない。ただ私を混乱させて、あとは知らん顔。言いたいことがあるなら言えばいいのに、何も言わない。ゲンマに聞けって、何よ。

 何でいつも、あんなやり方するのよ。

『ゲンマとは、キスしたのか?』

 カカシの冷たい声が、脳裏に木霊する。喉の奥が焼け付いて、身体中に熱がこもる。何で、そんなこと聞くのよ。関係ないでしょ。

 私とゲンマのことなんか、カカシに関係ない。

 リンの顔が頭に浮かんで、とてつもなく後ろめたくなる。

 私のことなんか、好きでも何でもないくせに。何であんなやり方しか、できないのよ。
 まぁ、私への嫌がらせだとしたら、これ以上の効果はないだろうけど。

 久しぶりにアオバとゲンマのスリーマンセルで任務を終えたあと、いつものようにゲンマと一緒に帰った。この五年ずっと避けてきたのに、私は結局またゲンマと並んで歩くことを選んでしまった。本当に、私は弱い。自分で決めたことも守れない。
 小さく息をついた私に、ゲンマは責めるでもなく静かに聞いてくる。

「何かあったのか?」

 思わず、足が止まった。でも私は誤魔化すようにかぶりを振ってまた歩き出す。

「何で? 何もないよ」

 ゲンマは私のことなんかすぐに気がつく。私なんかより、全部分かってる。そう思えるくらい、子どもの頃からずっと見ていてくれた。私が見ててねって言った子どもの頃から、ずっと。

 ゲンマが立ち止まったのが分かったから、振り返ったら彼のまっすぐな眼差しに捕まった。胸を、ぎゅっと掴まれたようだった。

。俺に嘘なんかつかなくていい。苦しくなるくらいなら、しょうもない嘘、つくな」

 その静かな声に、息が詰まる。ゲンマはずっと、私に同じことを言っている。ゲンマは昔から強くて、変わらない。私は弱いまま、変われない。
 逃げるように視線を落としたそのとき、私のお腹がきゅるると鳴った。こんなときに。だってゲンマといたら、安心するから。

 慌てる私を見下ろして、ゲンマが小さく吹き出した。私の大好きな笑顔。私はゲンマのことが、ずっとずっと大好き。

「ラーメンでも食って帰るか」

 咥えた千本の先を少し揺らしながら、ゲンマは笑ってそう言った。