261.軸


 何十回――ううん、何百回、この道をゲンマと歩いたかな。

 アカデミーの帰りも、チョウザ班になってからも、本部に配属されてからも。本当のお兄ちゃんみたいに思っていた頃も、助け合える仲間になれてからも、ゲンマのことが好きだと気づいたあとも。
 気まずいときも、甘えたいときも、嬉しいときも、つらいときも、不安なときも、いつも隣にゲンマがいた。何度も手を握って、並んで歩いてくれた。

 今、私はゲンマの後ろを少し離れて歩いている。ゲンマはポケットに両手を入れて、ゆったりした足取りで家路を辿っている。こんな距離感で一緒にいたことは、これまでだってある。
 つまり私は、何年もずっと同じことを繰り返してる。

 今度こそ、終わりにできたと思っていたのに。

 ゲンマがいなくなるって思ったら、引き裂かれるような痛みで居ても立ってもいられなくなった。

 こんなに苦しいなら、好きになんかなりたくなかった。

 ゲンマは一言も喋らなかった。私の家の前に、着くまでは。

「じゃあ……また、本部でね」

 私は急いで家の中に入ろうとしたけど、ゲンマが逃がしてくれないことくらい、容易に想像がついた。
 ゲンマの落ち着いた声が、私を呼び止める。

、少し話せるか?」

 すごく、静かだった。だから私が、感情的になるわけにはいかなかった。
 門の前で足を止めて、振り返らずに口を開く。

「……何?」
「俺、あのときお前が病院まで来てくれて、嬉しかった」

 ストレートに伝えられて、耳まで熱くなってきた。あれから三か月。思い出すだけでも恥ずかしいし、本当に駆けつけるべきだったんだろうかって後悔もする。
 でもあのときは、ゲンマを失う恐怖のほうが大きかった。行くしか、なかった。

「だって……仲間だから。心配、だったから……」
「俺は今も、が好きだよ」

 どこにも逃げ場なんてないくらい、まっすぐな言葉。びっくりして振り向くと、ゲンマの穏やかな眼差しが私を見下ろしていた。
 昔のまんまの、優しい瞳。私の大好きな、落ち着いた佇まい。胸が痛いくらい、苦しくなる。

 好きで好きで、仕方なかった。

 思わず唇が動いたけど、何も言えずにそのまま口を閉ざす。ゲンマはそこから一歩も動かないで、静かにあとを続けた。

「あのとき……このまま死んだら、絶対に嫌だと思った。五年前、俺がお前にしたことは許されない。でも、お前がもし、まだ……俺に、少しでも気持ちが残ってるんなら……」

 私たちは今も、五年前のあの夜の記憶を共有している。それが呪いとなって、私たちを縛っていることも。
 でもそんなことよりも、もっともっと、大事にしてきたものがたくさんある。

 絞り出した声は、情けなく震えた。

「……忘れられるわけ、ないよ。私だって、あのままゲンマが死んだら絶対イヤだって思った。ゲンマのこと、忘れられるわけない。でも……」

 私、本当にダメな女だ。こんなこと、言っちゃいけない。嫌いだって、ゲンマのことなんか何とも思ってないって、言わなきゃいけないのに。
 何で言えないんだろう。何で。

 ねぇ、紅。
 私は本当に、弱い女だよ。

「私じゃ、ゲンマを幸せにできない。家族になれない。子どもなんか産めない。幸せになんかできない……そんなの、絶対イヤだ」

 口にした途端、胸の奥が軋むように痛んだ。喉が詰まって、息ができなくなる。苦い熱が込み上げてきて、私は肩を震わせた。

 堰を切ったように、涙が頬をつたって流れ落ちる。泣きたくなんかなかった。泣いたらもう、自分の気持ちに嘘がつけなくなる。
 でも、もう止められなかった。

 喉の奥からしゃくり上げる音が漏れて、足元がふらつく。目の前がにじんで、ゲンマの顔が霞んでいく。

 そのとき、不意に温かいものが頬をなぞった。

 まるで壊れ物にでも触れるような手つきで、ゲンマの大きな右手がそっと私の頬を撫でていた。びっくりするくらい、優しかった。

「俺の気持ちは変わってない。俺が幸せにする。お前といることが、俺の幸せだ。だから……もう絶対、怖がらせたりしねぇから……そばに、いさせてくれ」

 じんわりと胸が温かくなるのに、苦しくて仕方がない。ゲンマの気持ちなんて、とっくの昔に分かってる。ゲンマは絶対に、私を捨てられない。
 ――でも。母さんやばあちゃんの顔が、今も脳裏をよぎる。

「……約束、できない。できないよ……」

 弱い私がいつ、いなくなるかも分からないのに。
 残されることがどれほどつらいか、私が一番よく分かってる。

 でもゲンマは、表情ひとつ変えなかった。そんなこと分かってるって、言ってるみたいだった。

「約束なんかしなくていい。お前は、そのままでいいんだ。俺が見てるから……お前はもう、自分のことだけ考えてりゃいい。怖がらなくて、いいんだ」

 ハッとして、息を呑んだ。私が置いていかれた悲しみも、自分が置いていくかもしれない恐怖も、ゲンマは全部、分かってる。分かった上で、それでもそばにいたいって言ってくれてる。どんな私でも、ここにいていいんだって。
 でも、そんなのイヤだ。ただ与えられるだけなんて、イヤだ。

 それなのに私は、ゲンマに何もあげられない。ゲンマの深い愛情は、私の器にはあまりにも大きすぎる。
 それでも何度も、変わらずに伝えてくれる。

「好きだ、

 ゲンマは、答えなんか求めてない。

 私がゲンマを好きなことなんて、とっくの昔に分かってる。

「お前が生まれてきてくれて、俺は、本当に嬉しいよ」

 ゲンマは、昔から何度も何度も、同じことを伝え続けてくれている。

 来週は私の、二十八回目の誕生日だ。