260.帰り道
私が二十八歳を迎える頃、里の人々の生活はようやく落ち着きを取り戻していた。ゲンマのおじさんやおばさんも自宅に戻ったし、私たち行きつけの居酒屋はすっかり綺麗になって通常営業が再開されたそうだ。
アオバとの任務を終えて火影邸を出たあと、私は路地裏でばったりと紅に遭遇した。
紅は、アスマと一緒だった。
「あ、二人とも久しぶり! お疲れ」
里を離れる任務も多いし、会わないときは本当に会わない。私が声をかけると、紅は頬を染めながら居心地悪そうに身を捩った。
あれ? と思った。
「二人は? 仕事帰り?」
「ええ、まあ……そんなとこ」
今日の紅は、何だか歯切れが悪い。二人は同期の下忍を担当している上忍同士だし、一緒にいるからって今さら何か勘繰ったりするわけじゃない。でも二人の間を流れる今日の空気は、何かあったのかなって勘繰りたくなるようなこそばゆいものだった。
困ったようにもぞもぞしている紅の傍らで、いつものように煙草を燻らせながらアスマが彼女に声をかける。
「まあ、考えといてくれ。じゃあな」
そして私のことなんか見えてないみたいに、そのままあっさりと去っていく。
黙って俯いている紅の顔を覗き込むと、今にも泣きそうなくらい赤い目を潤ませて震えていた。
「紅……どうしたの? アスマと、何かあった?」
まさかまたひどいことを言われたんだろうかと一瞬疑ってしまった。でも、絶対に違う。紅の顔は、そういう顔じゃない。
アスマはもうあのときとは、違う。
「……どうしよう。私……」
でもこんなにはっきりしない紅は、あのときと同じだ。
「……とりあえず、飲もっか」
私からお酒に誘うことなんて滅多にない。背中に腕を回す私を見て、紅は少しだけ笑った。
***
いきなりウォッカを三杯呷ったあと、紅はようやく話し始めた。すでに悪酔いしてる。私の肩に腕を回して抱きついてくるけど、とにかくお酒臭い。
「アスマがぁ、好きだー付き合ってくれーって!」
「へーーーーそうなんだ。で、紅は? アスマのことどう思ってんの?」
まあ、予想通りだけど。アスマが里に戻ってきてから五年以上経つ。紅はそのとき何も言わなかったし、アスマだってかつて紅を捨てて里を離れたことを後悔していた。自分は、紅に相応しくないって。
でも、アスマは変わった。彼が一回りも二回りも大人になったことなんて、昔のアスマを知る人間なら誰にだって分かる。紅だって当然そうだろう。きっと紅が、一番よく分かっている。
気持ちが全くないのなら、こんなに悩むはずがない。
アスマはきっと、覚悟を決めたんだ。自分の過去の過ちも含め、全部ひっくるめて最後まで紅を大事にするって。
そうでなければ今になって、紅に告白なんかするはずがない。
紅だってそれを分かっているから、こんなに悩んでるんじゃないの?
「わ……かんない、わよっ!!」
自棄のようにそう叫んで、紅は店員さんに四杯目のウォッカを注文した。ちょっと、強いの飲み過ぎじゃない?
「今さら、そんなこと、言われたって……」
「だよね。忘れようとしてたのにね」
私は二杯目のウーロン茶を飲みながら、クリームチーズのサラダを口に運ぶ。
「でも、さ。ほんとに分かんないなら、そんなに悩んでないと思うよ」
すると焦点の合わなくなってきた目を不機嫌そうに細めて、紅が露骨に絡んできた。
「そういうあんたはどうなのよ。人のこと言えんの?」
私はグラスに添えた両手を、ぼんやりと眺める。まあ、そうなるよね。紅だって、私とゲンマの付き合いの長さはよく知ってる。何度も、背中を押してもらったことだってある。
私がゲンマを忘れようとして、化粧を教えてもらったあのときも。
小さく息をついたそのとき、私たちの半個室の前で誰かが足を止めた。
「紅、」
低い声がして、ハッと顔を上げる。
座敷の私たちを見下ろしているのは、仕事帰りと思われるライドウとゲンマだった。
***
「紅、飲み過ぎだ」
私たちの正面の席に着いたライドウは、運ばれてきた四杯目のウォッカを紅から遠ざけた。紅はお酒に強いけど、ひどく荒れているときはすぐに酔いが回ってくだを巻き始める。渡しなさいよと凄む紅に、ライドウは「まず水を飲め」と氷入りのお冷やを押し付けた。
それから私たちは、しばらく当たり障りのない話をしてから店を出ることにした。紅も、いくら酔っていると言ってもライドウたちの前でアスマの話題を出さないくらいの理性は残っている。結局、ろくにアスマの話はできないまま、私たちは会計を済ませて表通りに出た。
店にいる間、私は一度もゲンマの顔を見られなかった。
「じゃあ、この辺で……」
このままでは、ゲンマと帰り道が一緒になってしまう。先手を打つつもりで先に歩き出そうとした私を、ゲンマの静かな声が呼び止めた。
「」
どきりと、心臓が跳ねる。でも、振り返ることはできなかった。
「一緒に帰ろう」
そんな風に声をかけられるのは、五年ぶりだろうか。それとも、もっと前かな。
どこかで、安心していた。ゲンマが私に仕事以外で関わろうとすることは、もうないだろうから。
でも、病室に駆けつけてしまったあの日、全てが変わってしまった。
あのあと、私たちの関係は何も変わらなかった。でも、確かに変わったことが分かった。彼のあの目を、あの距離で見返してしまったから。
だから、こうなるかもしれないことが分かっていて、私はまた、ゲンマのことを避けていた。
「きょ、今日は紅と帰るから……」
絞り出した声が震えて、私は縋るように紅のもとに駆け寄る。でも紅は、酔っ払いのくせに突然眼光を鋭く尖らせて、私の手を払った。
「何言ってんの。あんたの家はあっちじゃない」
「く、紅ぃ……」
分かってる。紅はそんな風に、私を甘やかしたりしない。
紅だけでなく、ライドウも私を無慈悲に突き放した。
そういえばあのとき、ライドウもゲンマと同じ病室にいた。
「紅は俺が送るから問題ない」
「要らないわよ」
「いいから行くぞ、酔っ払い」
「あんただって酔ってるでしょ」
紅は離れていく前、私の耳元に顔を寄せてそっと囁いた。
「大丈夫。あんたは強いよ」
そして親しげに小突き合いながら、ライドウと並んで去っていった。
あんな風に、ただ気楽に笑っていられたら良かったのに。私たちだって昔は、仲間だって信じられた。お兄ちゃんみたいだって。家族だって。
いつからこんなに、息苦しくなってしまったんだろう。
好きになんか、ならなきゃよかった。
「俺らも帰ろう」
傍らのゲンマが、静かに言ってくる。何も言えない私を残して、ゲンマがゆっくりと歩き出す。
少し遅れて、私もやっと足を踏み出した。
時々ゲンマから漂っていた煙草のにおいが、今はもう、感じられない。