249.侵蝕


 日が落ちる頃、見つけたアンコはすでに大蛇丸と交戦中だった。でも変わり身の術でかわされたアンコが、何か精神的な術でも受けたのか、ほとんど戦意喪失してその場に座り込んでしまった。まずい、あれじゃあっという間に殺される。

「アンコ、しっかりして!」

 庇うようにしてアンコの前に出ながら、千本を構える。冷たい薄ら笑いを浮かべる大蛇丸の顔は、かつてと同じものだった。十年経ったというのに、あの頃と変わらない顔。
 蛇のようなその瞳孔を見るだけで、千本を挟み込む指先が震えた。

 私は今も、その殺気に恐怖している。

「バカ! あんたが来たって足手まといよ!」

 特別上忍の中で、普段は私にだけ他人行儀に敬語のくせに。アンコの罵声を背に受けながら、私はまっすぐに大蛇丸を見据えた。確かに私は、実戦力という意味ではアンコにも到底及ばない。
 大蛇丸は私を見ても、さほど表情を変えなかった。

「お久しぶりね、猫使いのお嬢ちゃん。綺麗になったじゃない」
「……もう、お嬢ちゃんなんて年じゃないけどね」

 少しでも、時間を稼ぐ。少しでも、情報を引き出す。ヒルゼン様が来るまでの辛抱だ。あのときほど、遠くはないのだから。
 私は、私にできることをすればいい。

「生憎だけど、もうあなたたちに興味はないの。もっと面白いものを見つけたからね」
「……何のつもり? このタイミングを逃せば、二度とあなたにチャンスはないわよ」

 カカシ班はすでに発見したとメイから報告を受けている。ナルトくんとサスケくんは気を失っているけど、サクラが看病しているそうで、今は監視を続けるように指示を出している。

 大蛇丸は愉しげに唇を歪ませながら舌なめずりをした。

「あんなひよっこ、連れ帰るのは簡単。でもそれじゃあ意味がないからね」

 間違いない。ナルトくんかサスケくん、もしくはその両方――大蛇丸が狙いを定めている。でも、ただ連れ帰るだけでは駄目だという。どういうこと?
 慎重に言葉を選びながら、問いかける。

「また……実験体にでもするつもり?」

 私の問いかけに、大蛇丸は肩を揺らして笑った。

「実験体? そう思いたければご自由に。でもね」

 そこで言葉を切ると、大蛇丸は少しだけ身体を前に乗り出した。その冷たい視線が、距離を隔てても私の目の奥を鋭く覗き込んでくる。足が竦みそうになるのを、必死に堪える。

「あの子はあなたたちと違って才能もあるし、何より美しい。私の器に相応しい身体よ。そのときが楽しみだわ」

 才能。美しさ。器? 狙われているのは、サスケくんか。
 大蛇丸は芝居がかった仕草で長い髪を払うと、その場であっさりと踵を返した。

「さぁ、もう終わり。三代目が来るまでの時間稼ぎをしたいんでしょうけど、無駄よ。あなたたちは、いつも遅すぎる」

 ふわりと木の葉が舞い、視界を遮ったその隙に、大蛇丸の姿は溶けるように森へと消えかけた。

 ――今しかない。

 素早く狙いを定めて、千本を連続で指先から放つ。ほんの少しでもいい。皮膚を掠ってチャクラを流し込めば、記憶の断片を覗くことができる。アオバほど上手くはなれなかった。それでも、少しでも情報を奪うことができれば。

 背後から飛びかかったサクの爪が首筋を引き裂き、その拍子に千本の一つが大蛇丸の頬を掠めた気がした。

 十年前と同じだ。あんなもので、大蛇丸に致命傷を与えられるはずがない。
 ただ、情報を得られればそれでいい。

 そのあと、私がどうなろうと。

 チャクラを流し込むと、確かに繋がった感触があった。見える。湿った洞窟の奥。血の匂い。赤黒く染まった試験管。細胞が蠢く音。何かの実験の残滓。
 断片的な光景。でもこれは、間違いなく大蛇丸の中にあるものだ。

 ——成功した。情報が取れる。

 その刹那、視界が反転した。

「あの頃にはなかった術ね。でもこんなもの、私には無意味」

 その声は、私の内側から聞こえた。

 しまった。逆流されてる。

 慌ててチャクラを切ろうとしたけど、もう遅い。大蛇丸の意識が、私の記憶に踏み込んでくるのがはっきりと分かった。

 誰にも見せたことのない場所を、無遠慮に引きはがされる感覚。

『お前がいつか、俺と家族になってもいいって思えたら……俺はいつでも、待ってるからな』

 こちらを覗き込んでくるゲンマの唇が、うっすらと赤く染まっている。深い口付けの感触が、生々しく蘇ってくる。

 あの夜、ゲンマの部屋の玄関でほとんど押し倒されるような形になって、息苦しいほど舌を絡めて縋りつかれたことも。
 ゲンマの角ばった長い指が、私の背中を直接這い回ろうとしたこと。

『俺、もう……お前に触る、資格ねぇ』

 忘れなきゃって、思ってたのに。

 喉の奥が、ひゅっと鳴った気がした。息が入らない。入っているけど、全然足りない。どれだけ吸っても肺は空っぽみたいで、次の呼吸が追いつかない。

 大蛇丸の笑い声が、鼓膜の内側から響く。

「あら。あの子、こんなに純情なのね。泣けちゃうわ」

 視界の端が白く霞んで、千本を握る指先に力が入らなくなる。手のひらはじっとりと濡れているのに、凍えるように冷たかった。

(やだ……やだ、見ないで……やめて……)

 頭の奥で叫ぶのに、声にはならない。喉が張りついて動かない。
 胸がきつく締めつけられて、心臓がどくどくと全身に毒でも送り込んでいるみたいだった。冷や汗が背中を伝い、膝が震えはじめる。

「あなたもやっぱり母親と同じね。いつまでも未練がましく過去の男にしがみついて、肝心なときに何もできやしない。本当に、つまらない女ね」

 そのとき突然視界が開けて、肺に一気に空気が流れ込んできた。サクが唸り声をあげて、私たちを繋ぐチャクラ糸を噛み切ったらしい。
 大蛇丸の意識は離れたのに、地面に崩れ落ちた私の全身はまだ震えていた。

「じゃあ私はもう行くわ。そうそう、試験を中断するなんて馬鹿なことは考えないことね。もし私の楽しみを奪ったら……木の葉は終わりだと思いなさい」

 大蛇丸の背中が遠ざかっていくのを、私もアンコも止められなかった。

 酸素を吸ったはずなのに、また呼吸が浅くなる。まぶたの裏がちらつき始めて、徐々に頭の中が真っ白になっていく。

、しっかりするにゃ!」

 サクに脳天をはたかれて、ようやく我に返った。いけない。このままじゃ、十年前の二の舞いだ。すぐにヒルゼン様に合流して、次の指示を仰がなければ。

「アンコ、あんたは移動できる?」
「うるさい……ここでは、私が指揮官よ。指示は私が出す」

 こんなときに。でも、仕方がないか。
 立ち上がろうとしたアンコは、急に肩を押さえてまたその場にうずくまった。

「アンコ?」
「遅くなってすまぬ」

 あのときと同じだ。

 大蛇丸の言う通り。

 三代目はいつも、遅すぎる。