240.過ち


 俺が二十六歳の春、ガイが上忍に昇格した。

 上忍になるためには大名や里の重役の推薦が複数必要だ。だから九尾襲来のあと、俺たちは急ぎ特別上忍枠での昇格が決まった。
 あれから六年。昨年のうちは一族滅亡で、力のある上忍が多く命を落としたこともあり、再び上忍枠に動きがあった。あの落ちこぼれだったガイが、遂に上忍として認められるまでになった。ガイのおじさんの暑苦しい笑顔が、脳裏に蘇った。きっと、誇らしいだろうな。

 ガイだけではない。同じタイミングで特別上忍になった紅、そして長く里を離れ、中忍のままだったアスマもまた上忍になることが決まった。それからもう一人、十九歳のハヤテが剣術分野で特別上忍に昇格した。

 昇格祝いも兼ねて、久しぶりに元チョウザ班とシカク班で飲むことになった。俺はもちろんからは距離を取るつもりだったのに、席に着くときガイの勢いに押されての隣に押し込まれてしまった。仕事だって極力一定の距離を保つように努めているのに、息が詰まってどうしようもない。も心なしか、俺とは反対側に少しずつ移動しているような気がする。そんな俺たちを、正面から元シカク班の面々が何とも言えない顔で眺めていた。尋常じゃないくらい、居心地が悪かった。
 能天気に笑っているのはガイだけだ。

 極めつけは、酔いの回ったガイが大笑いしながらその馬鹿力で不意に俺の肩を押したときのことだ。ガイはただ、上機嫌に仲間の肩を叩いたつもりだろう。だが勢い余った俺はそのままのほうに倒れ込んでしまった。心臓が止まるかと思った。
 ふわりと漂う石鹸の香りを振り払うように、俺は畳の上に転がったから慌てて離れる。は顔も上げず、しばらく黙って瞼を伏せていた。

「わ、悪い……、大丈夫か?」
「うん……何でもない」

 もしかしたら、あの夜のことがトラウマで、俺が少しでも触れるだけで動けなくなるのかもしれない。どうすることもできずに俺がただ見つめる中、はやっとよろよろと起き上がった。
 紅がガイを白い目で見据えながら、ぴしゃりと釘をさす。

「あんた馬鹿力なんだからちょっとは加減考えなさいよ」
「す、すまん! ゲンマがこんなに貧弱だと思わなかった!」
「おい」

 任務から疲れて帰ってきてそのまま引っ張り出されて酒なんか飲んだら、ガイの不意打ちを食らえば誰だってそうなるだろ。
 横目で睨みを利かせる俺ととを交互に見据え、ガイは不思議そうにこう言った。

「何でお前ら、そんなに他人行儀なんだ?」

 お前な!! 本当に、お前ってやつは!! 場の空気が凍りつく中、ガイだけが相変わらず不可解な顔をして首を捻っている。ガイは昔から変わらない。本当に、変わらない。
 そのまっすぐすぎる純朴さで、ついに俺たちを追い抜いて上忍にまで上り詰めた。

 本当にお前は、すごいやつだよ。

 俺が胸中で呆れながらも感心したとき、ちょうど同じタイミングで隣のが吹き出した。その笑顔に、どきりとした。

「ガイは本当に変わらないね」
「ん? 何だ、いきなり。だって変わらないだろう」
「……今の私にそんなこと言うの、ガイくらいだよ」

 少し寂しそうにそう囁いてから、は艷やかな化粧に彩られた横顔で微笑んだ。

「ごめん、湿っぽくなっちゃったね。紅たちの昇格祝いなんだから、ほら、飲んで飲んで。ガイはそのへんにして!」
「なぜだ! 俺だってまだ飲み足りない!!」
「うるさいから! もうちょっと自重して!」
「お前たちは! 最近! ノリが悪いぞ!!」

 俺を間に挟んで唾を飛ばすのはやめてほしい。やめてほしいが、何だか懐かしかった。懐かしさと同時に、息苦しさで喉が詰まりそうになった。はもう俺にこんな風に声を荒げることはないし、こんな顔もしないし、あんな風に笑うこともない。
 俺が壊した。俺がもう、二度とあの頃には戻れないようにした。

 それでも、好きだと思ってしまう自分の弱さが許せない。
 俺が彼女の笑顔も、居場所も奪ったのに。

 彼女にとっての、いつでも帰れる場所でありたかったのに。

 結局、とは一度も目が合わなかった。帰りは一緒に帰るのが子どもの頃から常だったのに、は用事があるからと途中で別の道を歩いていった。忽然と現れたサクが「用事なんかないにゃ」と口を挟んだが、は無視して俺の前から消えた。

 サクが俺を見限らないことで、俺はの中にまだ自分への気持ちがあるかもしれないと期待する。だが、あったところでどうなる。俺が傷つけたのに。俺のことを考えてがあの夜に怯えることがあるとしたら、俺のことなんてさっさと忘れてくれたほうがいい。
 忘れられたくない。苦しめたくない。忘れてほしい。忘れたい。忘れたくない。忘れられない。

 俺はこのまま、死ぬまでこの痛みを抱えていくんだろう。

「ゲンマ、あまり思い詰めるな。誰しも、過ちはある」

 任務報告のあと、執務室にひとり残された俺に三代目はそう切り出した。まさか全て知られているのかと一瞬考えて羞恥と罪悪感で吐きそうになったが、どちらにしても、俺が俺を許せないことに変わりない。

「俺は……澪様と約束したんです。のことを頼むって……それなのに、俺がを傷つけたんです……澪様に、合わせる顔がありません」

 だが三代目は、さほど顔色を変えずに小さく首を振る。

の癖がうつってしまったようだな。ゲンマ、よく考えてみろ。お前は自分がを傷つけたことばかりに意識がいっておるが、がお前を傷つけたことも一度や二度ではなかろう。お前はそのことを今も恨んでおるのか?」

 考えたこともなかった。

 のことで、何度も、何度も傷ついた。だがそれでもそばにいたいと、望んだのは俺自身だ。傷つくことよりも、のいない人生のほうが嫌だ。
 のいない人生なんて、嫌だ。

 ――それなのに。

「お互い様、という言葉がある。人はみな、過ちを犯すものだ。本当に大切なことは何か、今一度よく考えてみろ」

 三代目は、何を強いるでもない。四代目と同じだ。ただ俺に、俺たちに、大切なものが何かを思い出させようとしてくれる。
 それなのに俺は、自分の弱さを許せない。俺は、ガキの頃からのの信頼を裏切った。

 遠くにの後ろ姿を見つけても、声はかけられなかった。かけたところで何を言えばいいか、まるでイメージができなくなっていた。