238.光
仲間に気を遣わせていることは分かっている。だがこれ以上、どうしていいか分からなかった。普段通りを装って、普段通りに仕事をする。と顔を合わせることがあっても、ただの同僚だと自分に言い聞かせる。他の女の顔を、思い浮かべる。
――無理だ。二十年近くそばにいた好きな女のことを、他の女に置き換えられるはずがない。
それでも、忘れるしかない。俺が傷つけた。衝動に任せて無理やり身体を繋ぎ止めようとした。は怯えていたし、何よりも悲しそうだった。俺はガキの頃からのの信頼を裏切った。
今さら、どんな顔をして。
「のやつ、最近変わったな」
アスマだけじゃない。が最近キレイになったと俺に声をかけてくる連中は少なくなかった。どんな心境の変化だとか、いよいよ結婚か、とか。本当に気持ちが落ち込む。
と結婚、したかった。子どもだって欲しかった。本当の家族になりたかった。
だが、もう願うことさえ俺には許されない。
俺はこの世で一番大切なを、最低の形で傷つけた。
あれからしばらくして、はしっかりした化粧をするようになった。もともと垂れ目の目尻が少し上向いて、以前なら仕事のときは避けていた鮮やかな口紅をつけるようになった。やっとが年相応になったと揶揄する声も聞かれたが、俺にはその意図が痛いほど分かった。
あれは、暗部の面と同じ。心を覆う鎧だ。
感情豊かだったが、あまり笑わなくなった。
シスイを亡くして塞ぎ込むに、俺が追い討ちをかけた。
俺は本当に――最低の男だ。
「ちゃん、キレイになったわね」
本部でコトネにそう声をかけられたとき、思わず泣きそうになった。
俺たちが特別上忍になる少し前、俺の実家での誕生日を祝った。あのときコトネに化粧されたは本当に艶やかで、子どもだということを忘れて俺はすっかり魅入ってしまった。
今のはあのときと同じように大人びた化粧をするようになったのに、表情はあのときとはまるで違う。コトネだってイクチだって親父だって、そんなことには当然気づいているだろう。
「何があったかとは聞かないけど、あなた、ひどい顔よ」
「……分かってる」
「もしちゃんに何かしたんだったら、ろくでもない死に方するわよ」
「……もう、今から地獄だよ」
イクチは俺にとって、家族と同じ。そのイクチの家族であるコトネも当然、俺にとっての家族だ。姉がいたらきっと、こういう感じなんだろうと何度も思った。
コトネは俺の返しを聞いて、呆れたように息をつく。
「そんなことだと思った。ネネコがまたちゃんに会いたがってるのに、どうするのよ」
「それは……」
俺とのことは、ネネコには関係がない。だががネネコに会って、俺のことを思い出さないわけがない。
口ごもる俺の頭を、コトネが軽くはたいた。
「ほんっとに、世話が焼けるわね。あなたがちゃん呼んでくれるって言ってたのにってネネコ怒ってたわよ?」
「い、言ってねぇよ!」
反射的に否定してから、はたと思い当たる。もしかしたら。爪楊枝吹きができるようになれば修行にまたを呼んでやるよと冬くらいに言った気がする。ネネコは爪楊枝をかなり上手く吹けるようになってきたが、は忙しいから呼ぶのは無理そうだと伝えてあったのに。
無論、俺たちの間にあんなことが起こる前だ。
「とにかく、誤解なら誤解でちゃんと説明しときなさいよ。ネネコは楽しみにしてるんだから」
「分かったよ……」
はぁ。気が重い。ネネコは絶対に、無邪気にあれこれ聞いてくる。子ども特有の残酷さで。だからここのところ、イクチの家を避けているというのもあった。
そのあと、事務室に戻る途中にに遭遇してしまった。無視してくれればまだいいのに、は律儀に会釈してくる。本当に、ただの同僚みたいに。
これまでの二十年なんて、まるでなかったみたいに。
ただの同僚になんか、なれるはずがない。俺はそう高を括っていたのに、は覚悟を決めたようだ。
俺が、そうさせたのか。俺の身勝手な衝動のせいで。
何よりも大切に、したかったのに。
あんな真似をしなければ、引き留められたんだろうか。ただ行くなと言って、腕を引いて抱きしめれば良かったんだろうか。そうすればもしかしたら、はまた俺の目を見て泣いてくれたんだろうか。
俺の贈ったポーチもかんざしも、わざわざ返しに来たのに?
嫌なら捨てれば良かったのに。わざわざ返しに来るなんて、引き留めてほしかったんだろ。そう思ったのに、仮にそうだったとしても、そうできないように俺が壊したんだ。
近づいては離れ、離れてはまた近づいて――そんな俺たちの二十年を、俺がこの手で壊した。
それでも俺は、何も捨てられないでいる。
返された忍具ポーチもかんざしも、紙袋に入ったまま部屋の片隅に置いてある。未練がましいにも程があるだろう。は最近、前につけていたかんざしをまたつけるようになった。俺のかんざしなど、必要ないとでも言うように。
俺はお前からもらった忍具ポーチを、今もずっと使い続けているのに。
どうしても、腰から外せない。これを手放せば、俺の足場が揺らぐようで。立っていられなくなりそうで。
俺はいつの間にこんなにも、弱くなってしまったんだろう。
『ゲンマといたら、私はもっと弱くなる!!』
あの夜、は泣きながらそう言った。
弱さは悪じゃない。支え合って生きればいい。そう、分かっているのに。
俺は、の記憶に縋るしかない自分の弱さを認められない。
は、こんな気持ちでいたんだろうか。
分からない。もう、何を思っているか、問いかけることさえできない。
俺たちの間には、決して埋まることのない断崖が生まれてしまった。
「お腹ペコペコにゃ。ゲンニャ、なんか寄越せにゃ」
――否。この断崖を繋ぐ一筋の光が、今ここにある。
「お前、飯くらい自分で何とかできんだろ」
「うるさいにゃ。さっさと寄越せ」
俺は苦笑いを漏らしながら、突然玄関先に現れたサクに鯵の干物をやった。もちろん、肉にしろと文句を言われた。