237.大事なもの


 アスマは靴底で煙草の火を消してから、私の隣に少し離れて腰を下ろした。ゆったりと話しながら、また新しい煙草を取り出して咥える。

「俺は、お前の踊り好きだぞ。ちょっと見せてくれよ」
「見せもんじゃない」
「お前の先祖は人前で踊ってたんだろ? 俺以外にもこのことを知ってるっていう一人の前では踊ってやるのか?」

 私は思わず息を呑んだ。アスマに、何の他意もない。あるはずがない。膝を抱えて、きつく瞼を閉じる。

「……無理だよ」
「何で」
「だって、もう……いないもん」

 シスイの笑顔を思い返して、息が詰まる。私の舞いは、祈りだと。絶望的なことが起こっても、一筋の希望を見出そうとする形ある祈りだと。
 私には何も、できやしないのに。

「私が舞ったって……何も変えられない。もしかしたら、私も誰かのために何かできるかもしれない――そう、思ったのに……」

 溢れ出す涙が言葉を攫っていく。再び祈りを失い、子どものように一人で蹲って泣くことしかできない。私は、一人ではとても立っていられない。
 それでも涙を堪えて、黙って前に進むしかない。一番大事な人も手放すって、決めたんだ。

 新しい煙が、ゆらりと立ち昇って漂う。

「大名の護衛部隊で、色んな生まれの奴らと一緒になった。火影の息子である俺は恵まれていると、絡んでくる奴も当然いた。里を離れても火影の名がついて回ることに俺は苛立ってた。そんな俺を諭してくれたのは、火ノ寺の坊主だった」

 アスマが守護忍十二士のことを話すのは初めてだった。彼の腰には、今もその証である布が巻かれている。薄汚れたそれにはきっと、仲間との絆も誇りも痛みも後悔も、全てが詰まっているんだろう。

「忍僧はただの坊主とは違う。現実を知り、それでも祈らざるを得ない連中だ。苦しみの中にある全ての命を救うこと。世界の平和を願うこと。それがどんな絵空事か分かってる。それでも彼らが祈るのは、なぜだと思う?」

 こんな、問答のようなことを言う奴じゃなかった。アスマは本当に、生まれ変わったんじゃないかと思うくらい変わった。その忍僧との出会いが彼を変えたのだと、はっきりと分かった。

「……分かんないよ」
「それはな、置いていけねぇからだ。死者も、病人も怪我人も、善人も悪人も、金持ちも貧乏人も、みんな。救えねぇ奴らがいると分かっていても、全ての命、全ての魂があるべき所に帰れるように仏に祈る。それが忍僧だ」

 死者の魂も、仏もいない。私は尼僧じゃない。死んだ人間は死んだんだ。アスマだって別に、僧門に入ったわけじゃないだろうに。
 小さく笑って、アスマが続ける。

「祈るのは何も、命や魂のためだけじゃない。そいつが大事にしていたものを守ること。それだって、誰かの魂を救うことになる。たとえ自己満足だと言われようともな」

 私は顔を上げてアスマを見た。目が合って、静かに微笑みながらアスマは煙草を口から離す。今のアスマの隣は、ゲンマのときとはまた違う安心感があった。

「踊れないなら、無理に踊らなくていい。だがこんなところで泣いてて何になる? お前には、やれることがまだ山ほどあるだろう?」
「……ん」

 涙を拭いて、大きく息を吐く。本当にそうだ。やるべきことをやるために、一番大事な人を手放すって決めたのに。

「アスマも……誰かのために、祈ってるの?」

 指先に摘んだ煙草の先を見据えながら、アスマは不敵に笑った。

「さぁな」

 その日、私は久しぶりにうちはの墓地に顔を出した。標ばあちゃん。塞ぎ込む私を案じて本気で怒ってくれたのに、私は標ばあちゃんに分かるわけないって撥ねつけて別れた。フガクさん。私たちはとても分かり合えなかったけど、彼の理性と責任感は、一族をまとめる者として尊敬できるところだった。ミコトさん。フガクさんの奥さんで、フガクさんの少し頑固なところを柔らげながら、他の一族との間に立つことのできる人だった。
 そして、シスイ。私の最も尊敬する友の一人だ。私の舞いを見て、祈りだと言った。絶望の中にも希望を見出そうとする、形のある祈りだと。

 あれが最後だったなんて、信じたくない。私は本当に、後悔ばかりだ。

 私はもう、踊れない。それでも、シスイの信じた世界を願う。シスイが大切にしていた理想。一族を、立場を、里を、国を越えて人々が共に生きることのできる世界。

 ばあちゃんや母さんが大事にしてたものって、何? 家? 血? 里? 好きな人? 家族なのに、何も知らない。
 ゲンマの――大事なものって?

『お前が一番大事だよ』

 不意に声が聞こえた気がして、慌ててかぶりを振った。馬鹿、ダメだ。忘れなきゃダメだ。ゲンマのそばにいたら、私はゲンマしか見えなくなるから。

 私の、大事なものって――。

 目を閉じて、シスイの墓石の前から立ち上がる。私はもう、踊らない。それでも、シスイの、オビトの、リンの信じた平和な世界を願い、戦い続けることはできる。

、お腹ペコペコにゃ。帰るにゃ」
「……うん」

 肩に突然現れたサクが、ゴロゴロと喉を鳴らす。そっと頬を寄せながら、ゆっくりと家路をたどる。カカシと語り合った川の辺が遠ざかる。

 私はもう踊らない。

 それでも。