235.強い女


 ゲンマの部屋を出たら、雨が降り始めていた。

 雨の匂いはしなかった。鼻が鈍っているのかもしれない。

 駆け足で家まで帰って、脱衣所で濡れたベストを脱ぐ。インナーまではさほど濡れていない。急いでシャワーを浴びようと裾に手をかけて、先ほどの感触を思い出して身震いした。
 ゲンマの硬い手に直接触れられた、背中。何度も口腔を這い回った、熱い舌のぬめり。

 鏡を見ると、唇はまだ濡れて煌めいていた。

 一瞬で、全身に火がついたみたいに熱くなる。指先が震えて、インナーを脱ぐこともままならなかった。

 その場に膝をついて、込み上げる嗚咽を何とか飲み込む。

 ゲンマは悪くない。私が傷つけた。二十年近くずっとそばにいて支えてもらったのに、最後にこんな形で離れようとした私は恩知らずの大馬鹿野郎だ。ゲンマが怒るのは当然だ。怒って、ああやって衝動で繋ぎ止めようとしたって仕方ないことだ。私が悪い。

 私が悪い、のに。

 怖かった。あんな風に我を忘れたゲンマに追い詰められて、どうなるか分からなくて怖いと思った。
 怖いと思った、のに。

 ――ゲンマにだったら、最後に、めちゃくちゃにされてもいいと思った。

 私、本当に最低だ。

 そんなことされたら絶対に忘れられなくなるし、ゲンマはそんな風に私を抱いたりしない。私が追い詰めたから、あんな風に衝動的に迫ってきたけど、結局正気に戻って私から距離を取った。

 あんな風にゲンマを追い詰めておいて、あんなに苦しそうな目を見て、それでもなおそんなことをちらりとでも思ってしまった自分が、大嫌いだ。

 私は、本当に最低の女だ。

 目を覚ますと、脱衣所の床に転がっていた。あのまま眠ってしまったらしい。今、何時だろう。仕事に行かなきゃ。シャワーを浴びて、化粧をして、何事もなかったかのように仕事をする。私はプロだ。それくらいのこと、造作もない。
 ゲンマと顔を合わせることがあっても、平気だ。

 そう自分に言い聞かせている時点で、ちっとも平気なんかじゃない。分かっている。でも。

 鏡を覗いたら、嗚咽が漏れて胸が潰れそうになった。

 ゲンマを、大切な人たちを失いたくない。だからゲンマから離れて、自分の仕事を全うする。ゲンマのそばにいたら、私はゲンマのことしか見えなくなるから。
 あんな形で傷つけたくなんか、なかったのに。

 仕方がない。ゲンマがどう感じて、何を選ぶかはゲンマにしか決められない。その結果を含めて背負うこと。それが、責任を持つということだ。

 私はこの選択に、責任を負う。

 ゲンマの隣にいる未来は、もう捨てた。

『あなたが拒絶すればゲンマだって望みのないあなたにいつまでも固執しないでしょう』

 そうだよ。私がいつまでも引き留めていたから、ゲンマは私のそばを離れられなかっただけ。
 アンコの言う通りだ。

 あなたは強いから。私がいなくたって大丈夫。

 私のことなんか忘れて、幸せになって。


***


 中忍試験の予選が終わると、仕事は少し落ち着いてくる。たまたま本部の近くで一緒になったから、を誘って居酒屋に来た。

 はここ最近、ちょっとおかしい。親しくしていたシスイが死んでから、あまり笑わなくなった。うちはがあんなことになってからは、かえってよく笑うようになった。無理をしているんだろうなと分かりやすい笑い方で。

 一緒に特別上忍になってから、子どもの頃よりのことがよく分かるようになった。は本当に、不器用な子だ。ゲンマだってきっと、そういうところが放っておけないんだろう。

 はお酒を全く飲まなかった。何度か潰れて帰れなくなったことがあるからだ。そんなの、ゲンマに連絡を入れて迎えに来てもらえばいいのに。

 はちびちびとジンジャエールを飲みながら、神妙な顔でこう切り出した。

「紅。私に……ちゃんとしたメイク、教えてくれないかな?」

 私は驚いて思わずグラスをテーブルに置いた。これまで私が世話を焼いてメイクをしてあげたって、迷惑そうにやめてよって引いてたのに。

「あら、どういう風の吹き回し? ひょっとしてゲンマと何かあるの?」

 ゲンマの名前を聞いて、の動きが一瞬止まった。いつもならすぐに赤くなって必死に否定するくせに、今日のは静かだった。手元を見つめたまま、小さく首を振る。

「ゲンマは関係ないよ。ゲンマと私はもう、ほんとに何でもないから」
「……。あんた、最近変よ?」

 またゲンマと何かあったのね。この二人は本当に、くっついたり離れたりと忙しない。子どもの頃からずっと、想い合っているくせに。
 あんなに一途なゲンマに愛されるをうらやましく思うくノ一は少なくない。が攻撃対象になりにくいのは、自身の人柄と、その実力故だ。まぁ、アンコは相変わらず諦めていないみたいだけど。あれだけツンツンしていたアンコにも、一体何があったのかしらね。

 はグラスを両手で握ったまま、ゆるゆる視線を泳がせた。

「変、かな。うん、そうだね……変でも、変わらなきゃ。サクたちに信用してもらえるように、変わらなきゃ……強く、ならなきゃ」
。強くなるって、一人で何でもできることじゃないわよ? ゲンマは、あんたが頼ってくれるのをずっと待ってると思うけど」

 はこちらを見ない。グラスの氷が溶けて揺らぐ様子を、ぼんやり見つめている。

「それじゃ、ダメなんだよ……私、ずっと甘えちゃうもん。私、弱いまんまで……どうしていいか、分かんないもん」
「あんたは強いよ。自分が弱いと思ってるんだとしたら、それは何でも自分がやらなきゃと思ってるからなんじゃないの?」

 は一瞬指の動きを止めたけど、それでも頑なに顔は上げなかった。私は大好きなタコワサをつつきながら、こっそりと息をつく。

「いいわよ、メイクくらい。気分変えましょ。あんた可愛いから教え甲斐あるわ」
「ハハ……ありがと、紅」

 その笑顔にも覇気はない。それでも気丈に食事を口に入れて、は帰っていった。
 この居酒屋も、仲間たちと何度も語らった場所だ。もゲンマも、ライドウもアスマも。

 私とアスマが戻ることはない。アスマは変わった。私のことなんて、とっくに忘れただろう。
 でも、とゲンマは離れようとしたって、結局また引き寄せられる運命なのだと思う。これまでだってずっと、そうだったのだから。

「ほんとに、世話の焼ける子ね」

 小さく苦笑して、私も家路についた。