234.残火
「ゲンマ、ゲンマ! ねぇ、聞いてる?」
中忍試験の打ち合わせを終えて、持ち場に戻る途中。
腕に柔らかな感触が押し付けられて、目の前にアンコの仏頂面が現れた。その豊かな膨らみに、俺の心臓はぎゅっとなった。
アンコの身体に欲情したからじゃない。あの夜のことを思い出して、自己嫌悪で潰れそうになったからだ。
あの日、俺たちの曖昧な関係は終わりを迎えた。
こんなこと、三代目にも四代目にもコハル様にも澪様にも、イクチにもコトネにもネネコにも親父にも母さんにも、ガイにもライドウにも紅にもチョウザさんにもシカクさんにも顔向けできない。
「お前たちは、何でそんなにアホにゃ?」
一人になったあと、肩に突然現れたサクが呆れた様子で尻尾を振った。
今はサクとの繋がりが、唯一の命綱だ。
「……ほんとにな」
視界がにじむ。自分の醜さに吐き気がする。
俺はもう、自分自身を信用できない。
***
ゲンマの顔が怒気に染まって鋭い眼光で射抜かれる。息が詰まって、うまく吸えなくなる。金縛りにでもあったみたいに、目を逸らせない。
「……ふざけんなよ」
その一言が、静寂を裂いた。
ゲンマは怒鳴ったわけじゃない。でも、あまりにも強い憤りが声に詰まっていて、思わず身体が強張った。
怖いわけじゃない。ゲンマが怒るのは、当たり前だ。私が悪い。私が、振り回した。
「俺の気持ちまで……お前が勝手に決めんじゃねぇ。嫌いになれるなら、とっくになってるわ」
目の前のゲンマが、さらに距離を詰めてくる。反射的に下がろうとしても、すぐ後ろに扉があってこれ以上逃げられない。全身が心臓になったみたいに大きく脈動して、汗がにじむ。
ほとんど上から覗き込んでくるゲンマの暗い影が、落ちてくる。
「何で弱さを悪いことみたいに言う。甘えればいいだろ。ガキの頃に甘えられなかった分、甘えればいいだろうが。もっと強くなれば後悔しない生き方ができんのかよ。澪様くらい強ければ、後悔せずに済んだのかよ。ンなもん、お前が一番よく分かってるはずだろうが」
肩を掴んで、荒っぽく引き寄せられる。ゲンマの頬は紅潮し、瞳は怒りと哀しみで濡れていた。私はこれまでもずっとずっと、数え切れないくらいゲンマを傷つけてきた。
分かってる。ばあちゃんだってきっと、後悔だらけだった。でも私がもっと強ければ、今とは違う景色が見えるはずなのに。
「中途半端するからいつまで経っても目の前しか見えねぇんじゃないのかよ。下手くそな遠慮しねぇで一回でも全力で甘えたかよ。ガキの頃からずっとそうだ。お前は全部一人で抱えて持っていこうとする。それがお前の癖なのも、怖いのも言えねぇことがあるのも分かってる。でも感情くらい全部出して出し切るまで甘えたっていいだろ。それの何が悪いんだよ。俺は、とっくに覚悟決めてんだよ。お前はどうなんだ。俺に全部預ける覚悟くらい、いい加減決めたらどうなんだ」
目の前に見えるゲンマの喉元はひくついていて、私の肩を掴む指が震えていた。
覚悟なんか、決められない。まっすぐすぎるゲンマの気持ちなんて、私には受け止められない。
覗き込んでくるゲンマの目尻から、涙が一筋こぼれ落ちた。
ゲンマの涙を見るのは、四代目のことを打ち明けてくれた夜以来だ。
苦しくて苦しくて、たまらなかった。
「お前の弱さも、逃げたいも逃げたくないも全部分かってる……それでも、俺を締め出すな。俺を要らないなんて言うな……俺には、お前が必要なのに……」
声を震わせながら、ゲンマが顔を近づけてきた。拒む暇もなくあっという間に唇を塞がれて、身体中の細胞が沸騰したみたいだった。
唇にキスされたのは、成人祝いをもらったあのときだけだ。二度目のプロポーズをされて、いつまででも待つって言われて、口紅を塗られてそのままキスされた。何回も何回も、包み込むように口付けられて、ゲンマの口にも薄い赤色がついてめちゃくちゃ恥ずかしかった。でも溶けそうなくらい幸せで、涙が出るほど気持ちよくて、でも応えられないことが苦しくて。
そのときにもらった忍具ポーチを、私はここにこうして持ってきている。
もう持っていられない。返さなきゃって。
ゲンマの口付けはあのときと違って、必死に、貪るみたいに、縋り付くように何度も私の唇を吸い上げた。
舌が入り込んできたときには、急に足の力が抜けて私はズルズルとその場に尻餅をついた。
ゲンマが倒れ込む私の腰に手を回しながら、覆い被さるようにして膝をつく。
一瞬離れた唇が、また息を継ぐように追いかけてきて勢いよく私の口を塞いだ。
身体の芯から熱くなるのに、胸が痛くて、苦しくて呼吸が荒くなる。
ゲンマは必死だった。泣きながら、がむしゃらに私を繋ぎ止めようとしていた。
「ゲン、マ……ッ」
息継ぎに離れた唇でようやく名前を呼んでも、すぐにまた塞がれる。離れなきゃと思ってゲンマの肩を掴んでも、かえって身体を押し付けられる。二人の短い息遣いと、舌が絡む度に響く濡れた音、時折喉の奥から漏れる声。どちらのものかさえ、分からなくなってくる。
やだ、離れなきゃ。もう、戻れなくなる。
薄れかける理性の中、やっと瞼を上げると、ゲンマの狂おしいほどの熱い眼差しと目が合った。
心臓が壊れそうだった。
「俺のそばに……いてくれよ……」
そのとき、私の腰を掴むゲンマの手が動いた。熱い手のひらが脇からインナーの中に滑り込んできて、一瞬で全身が強張った。私が混乱している間に、ゲンマの大きな手がブラの下から直接背中をきつく抱き寄せて、肩同士がぶつかった。
熱に浮かされたゲンマの瞳が、そこで我に返ったように大きく見開かれた。
ゲンマはすぐに私のインナーから手を抜いて後ろに下がった。そのままその場にしゃがみ込んで、ただ呆然と自分の右手を見つめている。
それから目に見えて真っ青になって、震えながら下を向いた。
「俺……ごめん、何、やって……」
「……ゲンマ」
怖くなかったって言ったら、それはきっと嘘だ。
荒々しくキスされて、やめてくれなくて、倒れ込んだあとも必死に覆いかぶさってきて。
いきなり、服の中に手が入ってきて。
びっくりしたし、怖かった。でも今は、自分のせいでゲンマにこんな顔をさせていることのほうがつらかった。
ゲンマのせいじゃないのに。私がずっと、ゲンマを苦しめてきたから。
私なんかといても、やっぱりゲンマは幸せになれない。
「俺、もう……お前に触る、資格ねぇ」
「ゲンマ……」
ゲンマが悪いんじゃない。そう言いたかったけど、私がそれを言って何の慰めになるのか。
もう、ゲンマから離れるって決めたのに。
「これ……置いてくね。今まで……ありがと。ほんとに……ありがと」
ちゃんと伝えるって決めたから。本当に、ゲンマには感謝してるから。
私が弱いから、一緒にいられないだけだ。
俯いたまま何も言わないゲンマに声をかけて、倒れた紙袋を起こす。それから私は黙ってゲンマの部屋をあとにした。
何年も前に、何度も訪ねた部屋。
大好きなゲンマの匂いが染み付いた、アパート。
もう、二度と帰れない場所。
振り払うように頭を振って、走り出す。雨の中、直接触れられた肌が、燃えるように熱を帯びる気がして身震いした。