233.臨界点


 ここのところずっと、と組む仕事はなかった。中忍試験の準備が始まっても、基本的に同じ持ち場につくことはない。アンコは相変わらず距離が近く、性懲りもなく関わってこようとするが、俺は同僚以上の対応は一切しなかった。
 俺が好きなのは、しかありえないからだ。

 だがは、明らかに俺を避けていた。またかと思う気持ちと、湧き上がる不安と。

 シスイが死んでからだ。は俺から逃げるようになった。忙しいから、時間がないからと。
 はシスイと親密だった。決まった川原で時々会っているようだった。ここ数年――特にシスイが上忍になってからは、タイミングの合わないことが増えたようだが、は年下のシスイに対して一目置いているところがあった。俺も何度か話をする機会があったが、物腰の穏やかな気取らない男だった。イクチも、素直な奴だとよくシスイを褒めていた。

 事故死と言われても、まったく実感が湧かない。あのシスイが、崖から落ちた。そんなことがあるんだろうか。あるとすれば、そこに至るまでに何かあったのではないか。不審に思っているのはきっと俺だけじゃない。だが警務部の結論に異議を唱えたところで意味がない。

 それから半年も経たないうちに、うちは一族は滅亡した。警務部隊長フガクの長男であるイタチが、家族を含め一族を虐殺した。たった一人残されたイタチの弟サスケは、通常の孤児と同じ扱いを受けて今は里から貸与された部屋に一人で暮らしている。四代目の息子、ナルトと同じだ。
 二人はネネコの一つ下で、アカデミーの同級生だ。何の因縁か、まったく異なる境遇とはいえ、幼くして悲劇的に家族を失った二人が机を並べて学んでいる。

 にとっても彼らは、他人事ではないだろう。

「ねー、おじちゃん。ちゃんは来ないの?」

 時々修行をつけてやるネネコが、無邪気に小首を傾げて聞いてくる。俺は背中を向けたまま息を整えてから、振り返る。

「忙しいんだとよ。が落ち着くまで大人しく待ってろ」
「えーーーー私、頑張ってるのに!」
「しょうがねぇだろ。俺だって会いてぇわ」

 口に出してから、しまったと思った。あまりにも自然に心の声が漏れてしまった。ネネコは咥えた爪楊枝の先を揺らしながら、ニヤニヤと目を細めてみせる。

「ふーん。へー。そんなに会いたいんだ。へー」
「ニヤニヤしてんじゃねぇ! さっさと吹け、コラ!」
「そういう言い方すると、ちゃんが嫌な顔するんじゃないかなぁ?」
「うるせぇ! さっさと続けろ!」

 俺は何をムキになってるんだ。七歳児を相手に。あぁ、もうすぐ八歳になるな。
 俺の誕生日も近い。誕生日くらい、会いてぇな。

 の誕生日には会えなかった。少し経ってから本部で顔を合わせたが、はアオバと一緒だったから何も言えなかった。顔色は、あまり良いとは言えなかった。
 の専門は諜報活動だ。顔色が悪かろうが務まるし、は感情の揺れで仕事に支障をきたしたりはしない。仕事だけならば、何の問題もない。

 仕事だけならば、だ。

 いつ、散ってしまうか分からない儚さ。

 澪様の死は、俺にそのことをはっきりと突きつけた。

 火影の右腕として、長年里を導いてきた澪様でさえ、自ら死を選んだ。

 は強い。本当に強くなった。だからこそ不安になる。心が置き去りのまま、鎧だけが強化される。
 一枚捲ればそこには、子どものまま蹲る彼女がいるかもしれないのに。

 何かしてやりたい。傷がつかないように守ってやりたい。鳥籠にでも入れて隠してしまいたい。
 それでは駄目だと分かっているから、俺はただ見守ることしかできない。

 いつか彼女が自分の力で、自らの殻を破って出ていけるように。

 そのとき、俺は彼女の帰る場所でありたい。

 そう、ずっと願ってきた。彼女を好きだと自覚する、ずっとずっと前から。

 応えてくれなくてもいい。ただ、そばにいさせてくれたらそれだけでいい。

 そう、願ってきたのに。

 誕生日を一週間後に控えた、ある日の夜。

 アパートに帰宅した俺は、部屋に前に佇むの姿を見て、一瞬湧き上がった期待がすぐに霧散するのを感じた。
 小さな紙袋を手にした仕事着姿のは、とても思い詰めた顔をしていた。


***


 このタイミングで訪ねることが酷だなんて分かってる。

 だって、もうすぐゲンマの誕生日だから。

 本当はこんな形じゃなくて、ちゃんとしたお祝いを持って、おめでとうって言ってあげたかった。ゲンマが生まれてきてくれて嬉しいよって。
 でも、そんなこともうできない。

 だって私は、もう、こうするって決めたから。

「よう……どうした?」

 ゲンマはきっと、私が楽しい話題を持ってきたわけじゃないなんて分かってる。少し険しい顔で私をじっと見つめていた。

 まともに顔を合わせるのは、半年ぶりかな。忙しいからって、いつも曖昧に濁して逃げ続けてきた。シスイが死んでから、ずっと。
 ゲンマはずっとずっと、ふらふらしてる私を気にかけてくれていた。

「これ……返さなきゃと思って」

 私が差し出した紙袋を、ゲンマは怪訝そうに見下ろした。

「何か貸してたっけ?」
「そういうわけじゃ……ないけど」

 どうしよう。喉の奥に言葉が詰まって出てこない。
 ゲンマに気持ちを伝えられてから贈られた、プレゼント。忍具ポーチも、かんざしも。

 手元に置いてちゃダメだと思った。でも、なんて言えば。

 ゲンマは私の横を通ってポーチから鍵を取り出した。私が贈った忍具ポーチ。もう何年も経って、革の表面が馴染んできたみたいで少し色も変わっている。ゲンマはあれからずっと、このポーチを使い続けている。胸が、苦しくなった。

「とりあえず入れよ。ここじゃ何だし」
「い、いいよ。すぐ帰るから」
「じゃあ受け取らねぇよ」

 ゲンマが当たり前のようにそう言って、鍵を開ける。ダメだ。部屋なんか入っちゃダメだ。戻れなくなる。分かっているのに、吸い寄せられるように足が動いてしまった。
 やっぱりダメだ。自分で決めたことも守れない。

 これ以上そばにいたら、ダメだ。

「こ、ここでいい」

 ゲンマが玄関の明かりをつけて、サンダルを脱ごうとする。私はドアのすぐ前に立ったまま、小さく首を振った。
 私は紙袋を静かにゲンマの前に突き出した。顔は上げられなかった。

「これ……返すから」
「何?」

 ゲンマの声は、淡々としている。驚いた様子もない。きっともう、分かってる。心臓が、張り裂けそうだ。

「これまで、もらったもの。私が持ってても……仕方ないから」
「何だよ、それ」

 ゲンマの声が、少し低くなった。息が詰まって、うまく吸えない。
 それでも、ちゃんと言わなきゃ。自分で決めたんだから、通さなきゃ。

 顔を上げたら、すぐ目の前にいるゲンマが鋭い視線で私を見下ろしている。咥えた千本の先が、時々揺れていた。
 怒ってる。当たり前だ。何年も前に、離れようと思った――あのときだって、ゲンマはめちゃくちゃ怒ってた。怒って、当然だ。ゲンマは何年も、十何年もずっと、私を大事にしてくれた。

 それなのに。

「お前が言いたいことくらい分かる。もう仕事以外で会わないっていうんだろ。ただの同僚に戻ろうって。あのときもそうだったもんな? それで、どうなったよ。ただの同僚になれたのか?」

 ゲンマは確かに怒ってるけど、それ以上に私のことを理解しようとしてくれてる。揺れ続ける私を、それでもいいって支えてくれようとしてる。ずっと、ずっとずっと。
 分かってる。ただの同僚になんか、なれなかった。だから今、こうなってる。

「今度は、どういう言い訳考えてきた?」

 恥ずかしさで身体中が熱くなってきた。カカシのことが頭を過って、情けなさで目眩がする。でも、もう決めたんだ。うちはの居住区を出たあと、川辺で話したカカシの顔を思い出す。そしてオビトの、写輪眼も。

 唇を軽く噛んで、私は揺らぎかけた視線を上げた。

「言い訳なんかもうしない。会いたくないわけじゃない。でも、ゲンマに会ったら……私、ずっとずっと甘えちゃうから。自分で決めたことも守れなくなるから。ゲンマがいてくれて、どれだけ助けられたか……ゲンマがいなかったら、もうとっくに潰れてた。仲間が大切なのも分かってる。足りないものを補って、助け合えばいい。でも、ダメ。私は弱いから……寄りかかっちゃう、周りが見えなくなる。その間に大事な人がいなくなっても、失うまで気づかない。私がもっと強かったら……忍猫使いのくせに、もっと色んなことに気づけたはずなのに。ばあちゃんは里のことなら何でも知ってた。私がばあちゃんみたいに強かったら、きっともっと変えられたものがあるのに」
、いい加減にしろ。澪様にだって知らないことくらいあったに決まってるだろ。火影様にも止められなかったことを勝手に背負い込むのはお前の思い上がりだ」

 ゲンマの口調が徐々に速まっていく。ゲンマは、きっと正しいことを言ってる。私にできたことなんて、ほとんどないかもしれない、でもサクたちは、絶対に何か知ってる。もし、もしもそのことに、私が気づけていたら。

 ゲンマが次に口を開くより先に、私は声を張り上げた。

「ゲンマといたら、私はもっと弱くなる!! お願いだから……もう、優しくしないで……私のことなんか、嫌いになってよ……」

 涙が溢れて、声が掠れる。ゲンマのせいじゃない。私のせい。でももう、どうしていいか分からない。散々考えてきた台詞も、もう忘れてしまった。
 私を見下ろすゲンマの顔付きが、どんどん険しくなるのが分かった。怒りに頬が紅潮して、目は据わり、咥えた千本が口角から落ちた。

 四年前のあのときより、苛立っているのが分かった。

「俺の気持ちまで……否定すんな」

 震える声で低く唸るゲンマに、私は身動きひとつ取れずにただ立ち尽くすしかなかった。