220.修行
書類を持って本部の廊下を歩きながら、私は大きく息を吐いた。
またゲンマに嫌な言い方しちゃった。別に気にしてないって。ゲンマが他の女の子と仲良くしたって、私が何か言うことじゃないって。
ゲンマとアンコが親しそうに話しているのを初めて目撃したあの日、捕まらないように急いで帰ろうと思ったのにゲンマにすぐに捕まった。一人で帰るって突き放そうとしたのに当然ゲンマは放してくれなくて、結局私の家の前まで一緒に帰ることになった。
門を潜って陰になっているところで、ゲンマは躊躇うこともなく私の腕を引いて抱きしめた。
「お帰り。会いたかった」
ゲンマのまっすぐな言葉が、胸の温もりが、鼓動が、私を捉えて離さない。
それなのにどうしようもなく、息苦しくなる。
「私のことなんか、気にしなくていいよ」
「気にする。好きだ。会いたかった」
私が拗ねたって、逃げたって、何回も何回も、好きだって言ってくれる。なのに。
「……こんなめんどくさいやつより、もっと素直な子のほうがいいよ。アンコ、いい子じゃん」
「お前……何だよ、妬いてんのか。持ち場が同じだけだって」
「だって仲良さそうだった」
「妬いてんじゃねぇか」
「別に気にしてないし、私が何か言うことじゃない」
気にしてないわけないのに、それしか口から出てこない。何も言えない。そうやって自分の心を守るしかない。私も好き、会いたかったってどうしても言えない。
私がどれだけ言葉で撥ねつけても、ゲンマは私を抱きしめて、好きだって言ってくれる。そばにいたいって、それだけでいいって。
それだけでいいわけ、ないよ。だって私、ゲンマに何も返してあげられない。ゲンマを幸せに、できない。
結局ゲンマは、あのあと私の頬を撫でて、私の目を覗き込んで、目尻を拭って、おやすみって言って帰っていった。それだけを言うために、私を追ってきてくれた。キスも、手を繋ぐのも、一緒に寝ることもしないで、本当にただ、そばにいるだけでいいって伝えるみたいに。
こんな風にもらうだけで、いいわけない。
「あら、ちゃん。久しぶり」
情報部に戻る途中、明るい声に呼び止められて私は振り返った。額当てにベスト姿は初めて見るコトネさんが、朗らかに笑いながら近づいてくる。コトネさんは、イクチの奥さんだ。
咄嗟にゲンマの顔が浮かんで、私は居心地が悪くなった。
「コトネさん、お久しぶりです! どうしたんですか、こんなところで」
「あら、聞いてない? 今月から復帰したの。まぁ、時短で内勤からだけどね」
そういえば、もともと暗号部だったっけ。育児のために休職してるって聞いた。しばらく里を離れてたし、知らなかったな。顔を合わせるのは、何年ぶりだろう。
「ネネコも来年からアカデミーだし、慣らしも兼ねてね。そうだ、ちゃん。少し時間があるなら、ネネコの修行を見てやってくれない?」
私は驚いて顔を上げた。コトネさんは家にいるときも綺麗だったけど、今はもっとしっかりメイクしていて本当に目の覚めるような美人だ。きっとネネコちゃんも美人になるんだろうなと何となく思った。
コトネさんは穏やかに微笑んでみせる。
「ネネコはちゃんが大好きだから。今もよくあなたのお話をするのよ。ちゃんが見ててくれたら、あの子ももうちょっとやる気になるかも」
「でも、私、小さい子の指導とかやったことないし……」
「いいのいいの、ちゃんと会えるだけでもモチベーションになると思うから。お願い」
手を合わせて軽く片目を閉じる仕草に、イクチもコトネさんも甘え上手だなと思った。そして、ゲンマも。愛を知っている人は、とても素直で魅力的だなと思った。
そういえば、ゲンマは子どもの頃から教えるのが上手だったな。今も後輩の指導、上手だもんな。すごく厳しいけど、飴と鞭のバランスが絶妙だって評判もいい。ゲンマは、すごいな。
「……私で、良ければ」
「ほんと? ありがとう!」
コトネさんの笑顔を見て、私も少し肩の力が抜けた。ネネコちゃん、会いたいな。ネネコちゃんがまだ赤ちゃんの頃、ゲンマと二人でまるで家族みたいにお世話した日のことを思い出して、頬が熱くなった。きっとネネコちゃんは、あのときのことなんて何も覚えていないけど。
ミナト先生と、クシナさんとも、一緒に過ごしたあの日。
奇跡みたいな、あの日。
次の休みに少し不知火本家を覗くことを約束して、コトネさんとは別れた。暗号部に復帰したってことは、これからは仕事で顔を合わせることが増えるだろうな。嬉しいような、複雑なような。不知火家の人たちとの関わりは、私に当然ゲンマのことを思い出させるから。
その日、仕事でゲンマにも会ったけど、もちろんネネコちゃんの修行のことは言わなかった。言えばゲンマも顔を出すかも。会いたくない。オフで会ってもどうせ私は応えられないから。
それなのに、三日後に不知火本家を訪ねると、庭先にネネコちゃんと一緒に出ていたのはイクチでもコトネさんでもなく、ゲンマだった。
***
ネネコは相変わらず俺のことを買い出し要員だと思っている節がある。手土産がないと、露骨に嫌な顔をする。二言目には、おじちゃんはいいからちゃんに会いたい、と口癖のように言う。くそ、俺だって会いてぇわ。毎日でも会いてぇよ。
「あ、ネネコ。明後日、ちゃんがちょっと修行見てくれるって」
「えっ! ほんとっ!?」
コトネが声をかけると、ネネコは飛び上がって喜んだ。自分がこれくらいの世代だった頃を思い返しても、ネネコは本当に素直だと思う。このまま大きな戦争を知らずに育ってほしい。忍びになる以上、死と隣り合わせであることは避けられないとしても。
がこの家に来るのは、二年ぶりくらいか。会えない時間が長くとも、ネネコの中では大好きなお姉ちゃんのままらしい。なのに俺は、買い出し要員。何なんだよ。俺も本家を覗くの、一年単位にするかな。
「ゲンマ、お前もまだしばらく内勤だろ? お前もネネコの手裏剣見てやってくれよ。うちの訓練場空いてるから」
今日任務から戻ってきたばかりのイクチが額当てを外しながら軽く言ってきた。どきりとして視線をやると、イクチは軽く片目を閉じてから素知らぬ顔で冷蔵庫を漁り始めた。一方、ネネコは俺を振り返り、不満げに唇を尖らせる。
「えー、おじちゃんも来るの?」
「そう言うなよ、ネネコ。ちゃんに手裏剣教えたのはゲンマおじちゃんなんだぞ」
「えー、ウソだー」
「嘘じゃねぇよ! 手裏剣は俺の方が上手い!」
「なに張り合ってんだよ、大人げねぇ」
こちらを見てくる白い目がそっくりのイクチとネネコ。その様子を見て呆れたように笑うコトネ。家のこともあるし、月に一度は本家に寄るようにしているが、こんなやり取りをもう何年も続けている。
その中に、の名前はいつも自然と出てくる。当たり前のように。それこそ家族のように。
こんなに愛されているのに、は自分が愛される資格などないと思っている。
何度も、何度も何度も、伝え続けるしかない。
が来るという約束の日、イクチもコトネも仕事で朝から外に出ていた。家のことは家政婦のサエに任せて、俺は庭先でネネコと一緒にを待つ。ウキウキしているネネコの背中を見ていると、俺自身も心が浮き立っていることに気づいた。
「あ、ちゃん!」
ネネコが玄関のほうから覗くを見て歓声をあげる。俺に気づいたの頰が、あっという間に薄紅色に染まるのが分かった。