219.波紋


 約二か月の調査を終えて里に戻る頃、私とアオバは一つの結論に達した。音隠れという名の里は、ほぼ九割方、田の国には存在しない。もちろん、ないことを証明するのは至難の業だ。だから九割方、としておくけど。

「田の国は隠れ蓑。大蛇丸が本当に音隠れに関与しているとすれば、奴の特性からして拠点は各地に点在していると考えるのが妥当です」

 アオバからの報告を受けて、ヒルゼン様は一旦この調査は終了という指示を出した。私たちは三日間の休養後、来月に控えた中忍試験の最終調整を少しだけ手伝うことになった。

 もう七月か。そろそろゲンマの誕生日だな。
 帰還して四日。ずっと休んでいたし、ゲンマにはまだ会っていない。どんな顔して会えばいいんだろう。ゲンマはまた、恋人みたいな顔で話しかけてくるんだろうか。私はそれに、どう応えたらいいんだろうか。

「あら、。戻ったの?」

 私が第二試験会場の出入り口に着くと、何人かの特別上忍や中忍たちが、打ち合わせや作業に勤しんでいた。こちらに気づいて近づいてきた紅に、私は片手を振って応じる。

「うん、ただいま。何か手伝うことある?」
「ちょうど良かったわ。エビスとガイが会場内の結界の確認に行ってるの。力仕事はガイがいるからいいとして、結界に何かあったらサポートがいると思うから、ちょっと見に行ってくれない? これ、地図」

 エビス、か。嫌われてるから行きたくないけど、しょうがないな。
 紅から地図を受け取りながら、私は小さく頷いた。

「分かった。じゃあ、早速……」

 そこでふと顔を上げた私は、少し離れたところに見慣れた後ろ姿が立っていることに気づいた。
 見慣れたどころじゃない。昔から、飽きるほど見ている背中。でも飽きるどころか愛おしさは年々募る――ゲンマだ。

 どきりと胸が高鳴るのも束の間、すぐにゲンマは一人じゃないことに気づいた。ゲンマと一緒に、誰かいる。その人物とゲンマが、やけに親しげに見えてひどく胸がざわついた。

 私の視線に気づいた紅が、声を潜めて言ってくる。

「あー、やっぱり気になる? 最近あの二人、いつもあんな感じなのよね」
「なっ! 何も、言ってない!」

 私は慌てて首を振ったけど、心臓は喧しく脈打っていた。アンコとゲンマが手元の巻物を覗き込みながら、何やら二人で話し合っている。アンコは私が見たことのないような笑顔だったし、何というか、すごく、距離が近い気がした。
 居た堪れなくなって、思わず目を逸らす。

 紅はそんな私の肩に手を添えて、囁いた。

「アンコ、最近ちょっと丸くなったわねってみんなで話してたんだけど、そしたらアレよ。あんた、うかうかしてたら横から掻っ攫われるわよ」
「や、やめてよ紅。私たち、そういうんじゃ……」
「へぇ。この期に及んで、そういうこと言うわけ?」

 紅の冷たい視線に、私は次の言葉を飲み込む。ゲンマを突き放してから二年、私たちはそういう関係じゃないって振りをしてきたけど、春先にまたゲンマから告白されて、拒みきれなくて、曖昧なまま任務に出た。
 曖昧でもいいって、ゲンマは私をそのまま受け止めてくれる。嘘なんかつく必要ないって。

 でも、いくらゲンマが私のそばにいようとしてくれたって、他の女の子がゲンマを放っておかないんだったら、それに対して私がどうこう言う権利なんかない。

 私のところに引き止めてたって、ゲンマは幸せになんかなれない。

 ゲンマが一部のくノ一から人気があるってことは昔から知ってる。でも私との噂のせいで、これまではゲンマに積極的にアプローチする人がほとんどいなかっただけだ。

 私に、どうこう言える権利なんかない。

「じゃあ……ガイたちんとこ行ってくる」
「ちょっと、

 紅の制止を振り切って、私は足早にその場をあとにした。私にどうこう言う権利なんかない。分かってる。でも、そんな光景は見たくない。

 ゲンマの幸せを願っているのに、ゲンマが他の女の子と笑っている姿は見たくない。ゲンマがコマノと付き合っていたときは、心から笑って祝福できたのにな。
 私って、ほんとに調子のいい女。

 立ち去る私の後ろ姿をゲンマが見ていたことなんて、もちろん私は知らない。


***

 が帰ってきていることは知っていたが、忙しくてまだ顔を見に行けていなかった。

「ゲンマ、ここどうしたらいい?」

 中忍試験の準備で同じ持ち場を担当しているアンコが、よくアドバイスを求めに来る。自分で考えろ、というようなことまでいちいち確認しに来るので、何度か追い返した。頻度は減ったが、それでもアンコはめげずに毎回俺のところにやって来る。去年までは、こんなことは当然なかった。

 と川辺で話していたあの夜から、アンコは確かに変わったようだ。

「お前、近い」
「そう? さんとはいつもこれくらいの距離じゃない」
は関係ねぇだろうが」

 何度かこんなやり取りを続けて、ついに諦めた。恐らくあの夜、とアンコの間に何かあって、への当てつけのつもりで俺に必要以上に近づいてきているだけだろう。そのうち飽きる。そう軽く見て二か月が経ち、が試験準備に顔を出した日も、アンコは俺のそばにつきっきりだった。
 ふと視線を感じて振り向いたとき、は俺たちに背を向けて離れていくところだった。

 そのとき俺は、自分がなぜアンコを無理にでも引き剥がさなかったのかに気づいて愕然とした。

 はガキの頃から何かあると俺に不自然なくらいくっついて甘えてきたくせに、俺の好意を知ってからは距離を取るようになった。熱に浮かされたように恋人の真似事をして過ごした時期もあるが、それでもは、俺が他の女と一緒になったほうが幸せだと馬鹿の一つ覚えのように繰り返した。本当に、馬鹿だ。俺の幸せなんて、俺が決めることなのに。

 は俺が他の女と一緒になったほうが幸せだと言う。本当に? 俺が他の女と親しくしても、お前は本当に平気なのか? 俺がコマノと付き合っていたときのように、笑っておめでとうと言えるのか?

 もしかしたらそれを、試したかったのかもしれない。

 だが立ち去るの背中を見て、すぐに後悔した。は俺が他の女と親しくしているのを見て傷ついたところで、何も言うはずがない。何も言わずに離れていくに決まっている。そんなことは、少し考えれば分かることだった。ふと視線を巡らせれば、がいたところに腕組みして立っている紅が凄まじい形相で俺を睨んでいた。

 あぁ。馬鹿は俺だな。

 俺の腕に添えられたアンコの手を押しのけながら、息を吐く。今夜、の家に行こう。また窓から逃げられそうな予感はしたが、放っておくわけにいかない。自意識過剰だとしても、俺が不用意に傷つけたかもしれないのだから、好きだと言って、抱きしめて、お帰りと言ってやりたい。カカシのことなんて、もう知るか。

 急いで仕事を終わらせて帰路につく頃、の背中が見えて俺は迷わず駆け出した。